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【2014年8月30〜9月8日】




〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕


【行程】

8月30日(土)  羽田空港→北京→邯鄲(泊)
8月31日(日)  北響堂山石窟→南響堂山石窟→邯鄲(泊)
9月1日(月)  →安陽霊泉寺大住聖窟→小南海石窟→邯鄲(泊)
9月2日(火)  邯鄲→済南 山東博物館→済南(泊)
9月3日(水)  神通寺千仏崖石窟→済南(泊)
9月4日(木)  済南市博物館 済南→青州(泊)
9月5日(金)  駝山石窟→青州市博物館→青州(泊)
9月6日(土)  雲門山石窟 青州→青島(泊)
9月7日(日)  青島市博物館→青島(泊)
9月8日(月)  青島→成田空港




\.見学を終えて


ここまで行程に従って見たまま感じたままを長々と綴ってきたが、石窟や仏像の流れを中心にあらためて自分なりに整理をしてみたい。



1.時代について


@今回訪問した石窟を時代順に並べてみると大まかには以下のようになろうか。






A我々が見学してきたのは、上記の通り「北斉初期6C半ば〜唐代初期700年前後まで」のおよそ150年間に造営された石窟であったことがわかる。
また、石窟とともに訪れた三つの博物館(山東・青州市・青島市)では、主たる展示としてこれに北魏後期〜東魏代の仏像が加わるので、時代としては「南北朝後期〜隋・唐初期まで」の約200年のスパンの仏像を拝してきたことになる。


B 悠久の中国の歴史からみればごく狭いゾーンに活躍?した仏像群ではあるが、縷々みてきたように内容的には実に多種多様な仏の造形がみられた。
この頃、河北、山東の地は、唐の成立により政治的安定が図られるまで王朝が目まぐるしく変わる激動の渦中にあり、造像スタイルもこれに呼応するかのように短いインターバルで我々が想像する以上に大きく変遷、展開してきたようである。



2.造像の推移について


以下、「インド」という言葉をキーワードに簡単に概観してみたい。

@仏教がインドよりシルクロードを経て伝わった中国では、五胡十六国時代より石窟が造られ始め、西域や甘粛省の敦煌、炳霊寺、麦積山等で順次開鑿されてきたことはよく知られている通りである。
そして、この時期の代表的な仏像としてあげられる炳霊寺石窟第169窟の7号仏立像は「インドグプタ期マトゥラー仏」の特徴を見事に受け継いでいる。




(参考図版)炳霊寺第169窟7号仏立像

A439年鮮卑族の王朝北魏が華北を統一した後山西省大同で雲岡石窟が開かれるが、前期窟の「インド、西域風」造像が中期の第6窟造営の頃より如来の服装が中国式着衣に変り始め、これが次第に当時の仏像の規範ともなって龍門石窟から北魏後期には「秀骨清像」といわれる「中国風の抽象的、絵画的造像様式」が定着することになる。

その特徴は、中国式厚手の衣に肉体がほとんど隠されるところや、微笑む口元、直立スタイル、左右対称性などで、今回山東博物館でみた<1.弥勒仏立像><2.正光6年銘三尊像>や青島市博物館の<2体の如来立像>などはその典型作といえる。


B北魏滅亡後の東魏代(534〜550)になると造像は少しずつ変化を見せ、左右対称性を保ちつつも顔や衣の表現に柔らかみ、簡素化がみられ全体に穏やかな造形に移行していく感がある。
今回の旅行では東魏代の像を見る機会は少なかったが、青州市博物館の<1.一光三尊像>などは(地域性も加味されてはいるが)東魏代の像と考えられる。


Cこの徐々に変化していく像から大きな転換をみせるのが北斉代(550〜577)である。

北斉初期に開鑿された北響堂山北洞では、如来は通肩の着衣に量塊性を感じさせる体つき、菩薩は上半身裸で肉体を露出させ、衣は薄く足に貼り付くようでしなやかに動勢をみせる、いずれもそれまでの像とは異なった「インド的色彩が濃厚な」姿であらわされていた。

この斬新ともいうべき造形が早くも南洞で後退し保守的な造像に回帰していくところは見てきた通りだが、南・北響堂山全体を通して、塔頂部のストゥーパ表現や柱を支えるヤクシャ的表現、口から蓮華を吐き出す満n表現など随所にインドモチーフが生かされていた。


D一方、同じ北斉代でもまた別の特異な様相をあらわすのが青州市博物館の龍興寺址出土仏像群であろう。

これらの像の特徴は<4.如来立像><5.如来立像>など特に如来像に顕著にみられ、低い肉髻、球形の頭部、瞑想的面貌、体に密着する薄い衣、スマートな体形、ごく控えめな(あるいは全く刻まない)衣文、ボディーラインの表出など、「グプタ期サールナートや南インドの仏像」を彷彿とさせるかのような造形。

北響堂山北洞の像がインド風を取り入れながらもまだ中国の仏像という趣があったのに対し、これらの像はとても中国の仏像とは思えない感がある。
このような突然変異的な像の出現は通常外来のインパクト以外には考えられないが、「一体どこから誰が」という疑問については、南回りの伝来であろうという推測はできても当時の南朝支配エリアを含め東南アジア地域で裏付けとなる作例が乏しいこともあり今なお解明の余地が残されている。

ただ、像容からみて当時の中国人の造形とはとても考えられず、翻って我が奈良末期の初期一木彫が鑑真と彼に帯同してきた弟子や仏工によって造り始められたといわれるように、海路でこの地に出入りしていたインド僧と付随の工人達の存在抜きには考えにくいのではないかと思われる。


E上記の通り北斉期は河北や特に山東において極めて大きな変化がみられたが、北斉滅亡前後にそのお膝元たる山東省青州で造営された石窟でまた一風変った?仏像が造られた。

駝山第3窟である。
ここの如来は肉髻低い点は前時代の像と共通するが(前述の通り)ぎこちない「こけし人形的」な像で、何故青州にこのような一見稚拙とも思われる像が造られたか全く不思議という他ない。

なお、続いて隋代に造られた雲門山の菩薩像には、その長身性、瓔珞や腰帯表現など、青州市博物館の<8.菩薩立像>に通じる面が感じられる。


Fさて、唐代に入ると一般に像の特徴として体躯や衣の表現に写実性、柔軟性が出てくるといわれるが、初唐期の像として見てきた神通寺千仏崖の如来などは、体部のボリューム感や丸みは感じられるものの全体に堅さが抜けきらない感があった。
唐王室に繋がる貴族らによる造営で財力も背景にした造像と思われるが、様式的には隋代の影響を残しているように感じられる。

そして、隋代以降姿がみえなくなっていた「インド風」の仏像は645年玄奘の帰国を契機に再度息を吹き返し、写実性、立体性、豊満な肉付き、体の動勢(三屈)等に代表される「唐様式」が誕生し、天龍山石窟等でピークを迎えることになる。

こうしてみれば、唐代までの仏像の多様な展開は
「外来様式の盲目的受け入れ⇒中国化(咀嚼)⇒本家インド仏教の希求と(最新の)仏陀イメージの造形化⇒中国化・・・」
が繰り返されてきたかのようである。



3.時代背景について


@上記のような変遷の背景としては、各々の時代の政治要因(仏教保護奨励あるいは廃仏等の政策)や経済要因(交易ルート)、社会情勢(末法思想の流布や社会不安)、仏教界自身の問題(腐敗、堕落)などが複雑に絡んでいることはいうまでもない。


Aこのうち、今回この地域で特徴的にみられたのが当時の社会情勢や信仰との関連であろう。

隋代の霊泉寺大住聖窟は末法意識の高まりと直前に見舞われた北周の廃仏に対する危機意識から造営が行われたもので当時の時代的状況を物語るが、末法の世であるという認識は既に6C半ば頃からあったようで、北斉期の小南海石窟や北響堂山南洞の窟内外に経典が石刻されていたのも仏法の永続を願ってのことといわれている。

また、このような世相を反映し強い救済願望が、早くも小南海中窟や南響堂山1,2窟で浄土表現が出現する要因の一つになったものと思われる。



4.地域性について


@中国東部エリアは海に開かれたロケーションから海路の交流が盛んで、歴史的、文化的にも外来の影響を受けやすく中国でも独自の文化圏を形成していた可能性が強い。
仏教造像に於いても南方の様式を先んじて取り入れ独自の展開をみせてきたことはみてきた通りである。



(参考図版))賓陽南洞中尊如来坐像
  A造像面でこの地特有の表現はいくつかあるが、石窟を廻って特に目につくのが「左胸前で袈裟の端を紐で吊るす」着衣の形式である。

神通寺四門塔、駝山、雲門山の諸像に共通し、唐代に入って造られた神通寺千仏崖でもあらわされていた。

他地域ではまず思い当たらず山東地方特有の袈裟表現かと思われるが、稀少例として龍門石窟賓陽南洞の中尊如来坐像がこの形をとっており、また脚部も扁平で注目される。

賓陽南洞の願主は唐太宗の子魏王泰といわれるが、神通寺千仏崖で造像した南平長公主、趙王福や劉玄意はその兄弟や一族に当たる人物でもあり、共通の工人が関与した可能性もあろうか。


B一方で、このエリアは古くから日本や朝鮮にも大きな影響を与えてきた文化の発信地でもあった。

遣唐使や留学僧の往来時に山東半島を経由するケースは数多く、飛鳥、白鳳期の一部の金銅仏やその仏像様式も山東半島から直にあるいはすぐ目前の百済の地を経て流入してきたものであろう。
また、我が国で初唐期のインド様、理想美を継承する代表作ともいえる薬師寺金堂薬師三尊像に、左足を上に組む坐法(薬師如来)、瓔珞の斜掛け(日光、月光菩薩)、柱を支える異獣(台座)等、特に響堂山石窟との関連が多くみられるのも実に興味深いところである。


今回の旅行はほぼ1週間程度の短い期間ということもあり、直近(2年程前)に河北省城址周辺で発見されたといわれる仏像群(断片)まで見学行程に入れることはできなかったが、多少ともこの地の文化の一端に触れることができたようである。

刺激的かつ充実した旅となったことに感謝したい。




≪おわりに≫


@中国の石窟巡りも今回で5回目を迎えることになった。
この間、あまたの仏像のみならず、多くの中国の人達と巡り合うことができた。

今回の旅行でも邯鄲、済南、青州、青島の各都市を訪れたが、路線バスに乗り込むとどこの街でも若者が席を譲ってくれた。
こちらも相当くたびれた風態をしていたものと思うが、Cさんから、中国では「席を譲るのは高齢者に対する敬意」と教えられる。

今では北京、大連等の大都市ではほとんど見られない光景と聞くが、地方都市では依然儒教的精神が残されていることを実感し、感謝とともにあらためて好印象を持った。
在来線の列車で出会った若者らとの交流も印象深く、日中の問題を乗り越えるのも若者世代の交流と相互理解がカギを握っているようにも感じたところである。


AKさんの旅行プランは計画に無理がなく一見アバウトなようだがその半面柔軟な対応も可能となるので、いつもながら順調にスケジュールを消化することができる。

お蔭で今回も見るべきポイントはすべて見ることができ、おまけに天候にも恵まれた。

また、Iさんの女性らしい気配りにも随分助けられた。
そして、何より同行の4人がアクシデント遭遇や体調を崩したりすることもなく無事旅を終えることができたのは、ひとえに現地での交渉や手配を快く引き受けていただいたCさんのお蔭でありあらためて感謝の意を表したい。


遥か大連まで気持ちが届けば幸いである。
またいつの日か楽しい旅行ができることを期待したい。


(了)



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