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【2014年8月30〜9月8日】




〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕


【行程】

8月30日(土)  羽田空港→北京→邯鄲(泊)
8月31日(日)  北響堂山石窟→南響堂山石窟→邯鄲(泊)
9月1日(月)  →安陽霊泉寺大住聖窟→小南海石窟→邯鄲(泊)
9月2日(火)  邯鄲→済南 山東博物館→済南(泊)
9月3日(水)  神通寺千仏崖石窟→済南(泊)
9月4日(木)  済南市博物館 済南→青州(泊)
9月5日(金)  駝山石窟→青州市博物館→青州(泊)
9月6日(土)  雲門山石窟 青州→青島(泊)
9月7日(日)  青島市博物館→青島(泊)
9月8日(月)  青島→成田空港




Z.9月6日(土)


@この日の予定は、午前中雲門山石窟の見学と午後青島への移動。
空には薄い雲が広がるがさほど天気は悪くなさそうである。


Aさて雲門山は青州市街から南へ約4qのところにある標高421mの山で、昨日駝山からもその姿を見ることができた。
駝山が駱駝の背のような形をしているところから駝山といわれるのに対し、ここは山頂の断崖にある天然の大きな洞穴を雲がくぐり抜けるイメージから雲門山といわれている。
風光明媚な景勝地としても知られ、この日も観光客らしき人たちが麓に集まっている。



雲門山遠景


昨日駝山で案内してくれた女性ガイドに連れられ坂道を登り始める。
連日の山登りで足はパンパンに張っている筈だが、駝山に比べて山道が整備されているので比較的登りやすい。
頂上の断崖に「壽」の大きな石刻文字があり、その横の洞穴をくぐった右側すぐのところに目指す雲門山石窟があった。



【雲門山石窟】


雲門山石窟は隋代の大型の龕が残されていることで知られるが、もともと保存状態が悪かったことに加え文革による被害もあったようで損壊が目立つのは残念なことである。

見所は隋代の二龕と唐代の三小窟である。



第1龕(左)と第2龕(右)


[第1窟(龕)]

地上2m程の高さの基壇上に第2窟と並んで開かれているが、「開かれている」という言葉の通り何の覆いも囲いもなく南面岩壁に浅く穿たれた窟龕で、これでは風雨による侵食が進む筈である。

造られたのは、洞内の小龕に開皇年間の銘があり隋代590年前後とみられている。



雲門山第1窟 中尊如来と菩薩像


中尊坐像と両脇侍の三尊仏はいずれも頭部を壊され、向って右の菩薩は更に損壊激しくほとんど原形を留めないほどである。
中尊は高さ2.6mの坐像で体つきは量感充分。
左胸前で袈裟の端を吊る紐が細かくあらわされるが、円筒状の首や三道、脚部の横に流す衣文などは単純で全体にやや稚拙な表現も目立つ。
ただ膝については両端がやや上がり、これまで見てきた扁平な形から脱するところも感じられる。

比較的残りのよい向って左の菩薩は肩から斜掛けを掛け、胸のあたりから下へ末広がりのような長い裳を着け直立する。
長い裳と縦の衣の線をみていると、昨日の青州博物館の(おそらく)北斉初期と思われる<3.菩薩立像>が似た着衣を着けていたことを思い出す。


[第2窟(龕)]

第1窟と同様に三尊形式であったと思われるが、中央の主尊はどういう訳か全く痕跡を留めない。
ただし、脇侍は第1龕より残りがよい。



 

第2窟 ・ (下)左右の菩薩像


ともに長身の菩薩で天衣や豪華な瓔珞を身に着け胸と腹をやや前へ突き出して立つ。
宝冠と顔の一部が壊されているのは惜しまれるが、向って左の菩薩は頭部右半分が辛うじて残り何となく往時の顔が想像できる。
一方、右の菩薩は体部の装飾がよく残り、豪華な瓔珞(斜掛け)や腰から体部中央に下がる帯の表現も注目される。

一見ベルトのような腰帯は青州博物館で最後にみた(北斉末頃の)見事な<8.菩薩立像>にも表わされていたことを思い出す。
おそらくこの窟も第1窟とほぼ同時期かやや遅れての隋代造像であろう。


[第3、4、5窟]

いずれも椅坐仏を中尊とする、初唐から盛唐にかけて造営された窟といわれている。
ただし、どの窟も崖の高い位置にあり見ることができない。
第3窟は手を伸ばして写真だけ撮ることができたが、第4,5窟は昇るルートもないのでギブアップする。


B雲門山一帯は当地の観光地で家族連れのようなグループも多い。
薄曇りで時折陽ざしが差す中、眺望を楽しみつつ山を下っていく。
この後ホテルで荷物をまとめ、午後青州駅から高速鉄道で青島へ向うことになる。


C青島駅到着は4時過ぎ頃であったか、駅を出ると微かに海の香りがする。
ホテルまでのバスに乗るとすぐ海が見え始め、陽光の下鮮やかな青が目にしみるようでここまでの陸路の移動と埃っぽさから解放されたことを実感する。
気のせいか街の雰囲気も明るく開放的な印象を受ける。
また違った街の人々の生活を垣間見るのも旅の楽しみの一つである。



[.9月7日(日)


@朝、ホテル前から市内循環バスで市内西部にある青島市博物館へ向う。

青島大学の先のバス停で降りたのはよいが、周囲はだだっ広い再開発地区のようでどこが博物館か全く分からない。
それらしき建物に見当をつけ歩き始めるが、歩道は車の駐車で占拠され車道を歩く他ない。
日本では考えられないが中国ではごく普通というので驚く。
廻りまわってようやく目指す博物館に到着する。
山東博物館ほどではないがここも広大な敷地に立つ大きな建物である。



青島市博物館



【青島市博物館】


我々の目当てとする北魏代の大石仏は入口から比較的近い展示室前に立っていた。


<二体の如来立像>

高さ約6mにも及ぶ巨大な一対の如来像である。



青島市博物館 二体の巨大な如来像


アーモンド形の目を大きく開き微かな笑みをたたえ、長い首の下に中国式の重衣料を身に着けて立つ典型的な北魏代後期の如来像で、彫刻としての出来は今一歩だがさすがに重量感、威圧感がある。

像の前の解説板によると
「高さ一丈八尺、重量30トン、もと山東省臨の龍泉寺にあったものを日本人が運び出そうとしたが叶わず駅に放置されていたものを移設した」
との内容の記載がある。


<二体の菩薩立像>


青島市博物館 二体の菩薩像
  展示室内にもう一つ、一対の大きな菩薩像が立っていた。

高さ3mくらいの像でおそらく中尊を挟んで立つ脇侍菩薩であったのであろう。

これも解説板によると
「(上記)如来像と同じく臨?の龍泉寺から日本人が運び出そうとしたが叶わなかったので頭部だけ切って持ち帰った」
という趣旨のことが書かれている。

この像は腹を少し突き出す立ち姿や品字状に畳まれた衣の襞など古い時代的要素が感じられる一方で、全般に彫りが浅く側面観や力強さにやや乏しい面もあるので、如来像よりやや下る東魏代以降のものであろうか。


Aここはもともと仏像展示が少なく他に見るべきものもない。

早めに切り上げ時間的余裕もあったので、青島といえば誰もが連想する青島ビール工場の見学に向う。
青島のビール工場は1903年ドイツ資本によって建てられた歴史を持つところで、この日も多くの観光客が見学に訪れている。
同行のKさんは永年大手ビールメーカーに勤務され工場長経験者でもある。
我々は工場内を“元工場長”の案内で巡回、試飲のビールとともに贅沢な見学時間を過ごすことができた。


B中国滞在もこの日が最後。

夕刻ホテルに戻り、所期のスケジュールを無事完遂できたことに皆で乾杯。
勿論これはすべてCさんの諸手配のお蔭であり全員Cさんに深く感謝する。
Cさんとは明日でお別れとなるが、我々との旅行を一緒に楽しんでくれたようで嬉しい限りである。


C翌9月8日(月)、青島空港NH便にて帰国の途に就く。



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