貞観の息吹き 
高見 徹

4. 雨宝院 千手観音立像(京都市上京区) 


 雨宝院は、北向山と号する古義真言宗の寺院で歓喜天を奉る歓喜 堂をもち、西陣聖天として知られている。
 真言密教の祖空海が、唐からの帰朝後、桓武天星から教王護国寺を賜る迄の間居住した場所と伝え、寺伝によれば、弘仁12年(821年)嵯峨天皇の病平癒 を祈願し、弘法大師空海が六臂の大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まりで、かつては境内は千本五辻まであったとされる。

 応仁の乱により堂宇荒廃し、天正年間に雨宝院のみが再興され た。

 狭い境内には,不動堂,稲荷堂,庚申堂などの諸堂が所狭しと立ち並んでいる。

ハ 境内東南の井戸は西陣五水の一つ「染殿井」(そめ どののい)と呼ばれ、染物に用いるとよく染まることから西陣織の職人が使ったとされ、夏の旱魃時においても涸れることがないという。 また、本堂前には、 開花時には根元から花をつける「歓喜桜」や黄緑色の花をつける珍しい「御衣黄」などの八重桜、久邇宮朝彦親王が当院の参詣の折り、にわか雨を樹の下でしの がれたという話が残る「時雨の松」と呼ばれる赤松などの銘木が見られる。

 観音堂に安置される千手観音立像(重文 211・5cm)
は、この寺の歴史を伝える像である。本像は、頭体部の根幹部をー木から彫出し、内割りを施こ している。
 通常、千手観音像の手は十四の大手と二十八の小手の合計四十二 臂で表されることが多いが、現在は大手十臂のみを残す。頭頂の化仏や、足先等は後補で、十臂のうち当初のものは合掌印の二臂を含め三臂のみという。
 正面からの印象は、面相も穏かで全体のバランスも良く、藤原時 代の雰囲気を感じさせる優しい顔立ちの優美な像である。しかし、頭部や胸、腰等は、量感豊かで奥行きをもち、下半身は重厚で膝 前には大振りな力強い衣文を丁寧に表している。当初のものである胸前で合わせた合掌印の二の腕や指、掌も肉厚で力強い。全身を厚い漆下地で覆った上に金箔 を置き、天平時代の木心乾漆像に倣った造形を思わせる。特に、斜め前からの印象は、全く別の像を見ているようである。
 雨宝院には本像に関する言伝えは無いが、弘法大師建立の寺伝か ら見ても、東寺や神護寺の彫像に関わった造東大寺司系の仏師たちが造立に関与した可能性が考えれられる。
 しかしながら、本像に見られる、正面観、特に面相の柔らかさと 重厚な側面観の違和感は、あるいは後世の彫り直しによるものかもしれないが、工房組織の発達と無関係ではないと思われる。
 元来、一木造の像は一人の仏師が最後まで彫り上げることが多い と考えられ、一体の像の中に時代の相違する要素が入るのは不思議に感じるが、天平時代の官営工房の時代から、教王護国寺に想定されるような私的な工房の発 達段階において、前時代の形式を踏襲する仏師と時代の変化を敏感に感じ取った統括者の微妙な力関係が、最終的な像容に影響を与えたことが想定される。






 


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