貞観の息吹き 
高見 徹

29.  凌雲寺 十一面観音立像(岩手県花巻市東和町) 


 凌雲寺は日本一の毘沙門天像で知られる成島毘沙門堂と同じ東和町の中心部に近い東和ICのそばにあり、付近は田圃に囲まれた長閑な佇まいを見せる。
 境内入り口には平成9年に再建された真新しい仁王門が建ち、両脇には仁王像が安置されている。
 凌雲寺は曹洞宗の寺院であり、当寺に伝わる仁王像、十一面観音立像などの諸像は、同じ東和町の丹内山神社(たんないさん)に伝わり、明治初年の神仏分離令により凌雲寺に移されたものである。

 丹内山神社は、東和町の東部に位置し、空海の弟子日弘が平安時代に創建したと伝え、古くは大聖寺権現堂と呼ばれて坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に参籠するなど神仏習合の聖地として信仰を集め、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたという。嘉保3(1096)頃には藤原清衡が耕地24町歩を神領として寄進、山内に御堂108ケ所を建立し、108体の仏像を安置したと伝えている。

  昭和62年に調査の際、仁王像のうち吽形像の胎内に銘文が見つかり、応永19年(1412)に丹内山神社を再興した安俵城の城主小原信濃守平時義によって 寄進されたことが判った。阿形像は吽形像より先行する様式を示しており、鎌倉時代の制作とみられ、応永年間にそれまでに失われた吽形像を応永19年に補作 したものと思われる。像容は人形のような姿を見せ、マンガチックで、この地方の仏師の制作であろう。

 本堂の脇室に安置される二体の十一面観音立像と薬師如来立像も同様に丹内山神社から移された像である。真ん中の十一面観音立像はほぼ等身大のカヤの一木造で、大まかながら丁寧な彫り口を見せ、はっきりした目鼻立ちや厳しい体躯の彫りに古様を示している。
 頭部の化仏は幅広の天冠台に別彫りで差し込まれており、髪や衣にほどこされた彩色も良く残っており背面には彩色文様が見られる。
 本像は、大聖寺権現堂の本尊であったと見られるが、的確な像容の把握やバランスの良さは、成島毘沙門天像と通じるものがあり、当地の神仏習合の歴史を伝える遺品である。

  もう一体の十一面観音立像は、右は手先まで、左は腕先まで一木造であるが、足指は彫らずに箱状に造りだされており、条帛が天衣と連続するなど細部の省略が 見られる。また、頂上に仏面をつけずに頂髻を低く彫り、頭部の化仏も目鼻立ちなどの細部を省略している。あるいは未完成像であるのかも知れない。

 これらの諸像が伝えられた丹内山神社にもこれに似た十一面観音像が残されている。この像も頭頂の仏面を付けず、素朴な表現も共通していることから、同一仏師による制作と考えられる。

  丹内山神社は私社殿の裏側の山腹に胎内石と呼ばれている巨石があって、古くからアラハバキ神の御神体と信じられている。アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛 巾)信仰は、東北地方一帯に見られる民俗信仰で、本来は蝦夷の神であったと見られ、高橋克彦氏の小説「火怨-北の燿星アテルイ」ではこの巨石を前に蝦夷の 首領である阿弖流為が巫女により祝詞をうけ、来る田村麻呂との戦いを予見する場面が描かれている。
 しかし、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際し当神社に参籠したという言い伝えが示すように、
大聖寺権現堂(丹内山神社)は蝦夷をもって蝦夷を制すという政策を取った大和朝廷側が、蝦夷を封じるために建立された寺院ではないかと考えられる。

 

十一面観音立像

 

  



 


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