貞観の息吹き 
高見 徹

60.  栗山観音堂(佛性寺) 如来形坐像茨城県結城郡八千代町栗山


 佛性寺は奈良時代に創建されたと伝える。
  平安時代には初めて平氏を名乗った平高望が上総介に任じられ、勢力を拡大してその後の平氏の基盤を固めた。平安時代中期には、官牧(朝廷の所有する牛馬の 飼育や繁殖のため放牧場)である栗楢院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)が置かれ、平高望の孫である平将門が軍馬を飼育するなど、将門の拠点の1つに なっていた。
 しかし、承平7年(937)将門の叔父である平良兼・良正との戦の兵火によって焼失し、寺共々灰燼と化した。中世に観音堂が寄進されて再建されたが、現在の観音堂は江戸時代中期に建てられた建物である。

  観音堂に安置される如来形坐像は、木心乾漆造の像である。頭・体幹部・両膝部を含めてケヤキの竪一材から彫成し、背面には長方形の粗い内刳りを施し蓋板を 当てている。頭部は円柱状に彫り込み、分厚い木屎漆を盛り上げて面部を成形したものと思われる。また、現在欠損している膝前にも厚い木屎漆を盛り上げたも のと思われる。
 これに対し、体部は現在素木の状態になっているが、木彫でほぼ仕上げまで行い、その上に漆を置いたものと思われる。衲衣の衣文線は粗いながらも深く刻まれている。
 現在、頭部や膝前に盛り上げたと思われる乾漆(木屎漆)の断片64片も遺されている。

  木心乾漆造の像は、奈良時代後期に奈良・東大寺など官営造仏所で成立し、平安時代初期9世紀末には消滅する造像技法の一つである。遺品は近畿地方に集中し ており地方にはほとんどなく、本例は東日本における唯一の作例である。しかし、近畿地方にも本像のように像の一部分だけ木心乾漆造とする例はなく、その点 からも当地での制作と考えられる。

 制作年代は、技法及びその作風から9世紀前半ごろが考えられるが、堂々とした量感のある体部の表現や、腹前の衣文の鋭さは平安初期彫刻に近く、当地への文化の伝搬の複雑さ故の、過渡期の像と言えるのかも知れない。
 いずれにしても関東・東北で最も古い木彫像の一つである。
 
 本像は、平成22年に、失われていた頭部、両手、両足部の想定復元修理が行われた。この際、残された体部の造作等から薬師如来像と推定され、同時代の薬師如来像や同じ技法の像を参考に、頭の形や目、口、耳、手足、膝前などが、本像に着脱できる方法で復元された。


 
如来形坐像(修復前)        (修復後)  

 乾漆断片






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