貞観の息吹き 
高見 徹

66.  観音堂 聖観音立像(福井県平泉寺町平泉寺)


 若狭・越前の各地には泰澄の伝説が伝えられている。特に越前は、中世に泰澄を開基とする平泉寺・豊原寺・大谷寺・大滝寺など、白山天台系とよばれる寺院の活動が盛んで、中でも平泉寺と豊原寺(とよはらじ)は広大な寺域と優勢な衆徒をもち勢威をふるっていた。
 特に平泉寺は白山信仰のシンボル的な存在であり、室町時代には9万石・9千貫の神領などの広大な寺域に48宮、36堂、僧坊6000を中心に講堂・今宮・若宮・大師堂・大塔・宝塔・常行堂・三ノ宮・鐘楼などの堂宇を有したという。

 しかし、天正2年 (1574)、越前一帯に起こった一向一揆の乱で堂塔・坊舎に火が放たれ、平泉寺は灰燼に帰し、多くの所領を失った。その後、天正12年(1584)に賢 聖院顕海が中宮三社仮殿を造営し平泉寺を再興し、その後、武将たちの寄進を得て多くの堂宇を再建された。その様子は元禄年間に制作された「中宮白山平泉寺 境内図」に描かれている。

 観音堂は、かつて平泉寺集落の四辻観音堂付近とあったと伝えられており、境内図にも表されている。義経記によると、鎌倉時代、源義経が兄頼朝の追討を避けるため奥州逃避行の際、平泉寺に立ち寄り観音堂で一泊したと記されている。

 現在の観音堂は近年建てられたものであるが、境内図と見比べると、観音堂の位置も付近の道路も旧境内図の道路と全く変わっていないのに驚かされる。
 堂内には聖観音立像が安置されている。本像は、一向一揆の乱で灰燼に帰したこの場所で、地中に埋まっていたのを、平泉寺を再興した顕海上人が掘り出した と伝えられており、その後明治初年の廃仏毀釈の際に顕海の位牌所ともなっている白山神社の入り口の顕海寺に移されたという。

 聖観音菩薩立像は、左手に未敷蓮華を持ち、右手を胸前に置く、延暦寺などに伝わる天台系の聖観音像である。両手先は後補のものに替わっているが、高い宝 髻や耳に懸かる垂髪などに古様を示している。また、やや平面的になっているが丁寧に彫り出された衣文の表現など、地方仏らしからぬ技量を有した仏師が制作 に携わったものと考えられる。

 当地には、比叡山の影響下に造像された多くの仏像があったものと思われるが、本像を見ていると、一向一揆の嵐の中で失われたこれらの像に先駆する仏像があったであろうことを現実として感じさせる


  







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