貞観の息吹き 
高見 徹

47.  常念寺 菩薩形立像(京都府相楽郡精華町大字祝園)

 京都府精華町は木津川の西岸に広がる町で、南は奈良県奈良市、北は京田辺市に繋がり、古代から京都と奈良を結ぶ文化回廊として位置し、歴史・文化遺産も数多く残されている。
また、近年は、関西文化学術研究都市の中心地として、各種研究施設や、国立国会図書館関西館など、さまざまな施設が建設され著しい発展をみせている。

 記紀によると、当地では崇神天皇十年に葛城地方を本拠地とした第8代孝元天皇の王子武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が乱を起こし、南山城一帯を舞台とした大乱に発展した。
  これは葛城王朝が王権奪取を目指して大和政権に起こした反乱ともいえるが、武埴安彦命らの勢力は 新興の崇神天皇方の軍隊に鎮圧され、 祝園(ほうその)一帯は兵士たちの屍で埋まり、以後この地は武埴安彦らの怨霊に悩まされたという。 そこで、霊を鎮めるため、奈良時代に春日明神を勧請したのが祝園神社の始まりで、それ以来この地方の守り神となっている。
 『播磨国風土記』には羽振苑(はふりその)社として現れてきており、ハフルは溢る、放るに通じることから死体を捨てた場所の意味とされ、それが今の祝園(ほうその)の語源であるとされる。

 また、祝園神社一帯の森は「柞の森(ハハソノモリ)」と呼ばれ、平安時代から歌枕にも詠まれている。
 時わかぬ波さへ色に泉川 柞の森に嵐吹くらし 藤原定家

 祝園神社の南1kmにある常念寺境内の薬師堂に安置される菩薩形立像は、もとは祝園神社の 神宮寺である薬師堂の本尊で薬師菩薩像として安置されていたと伝えられている。

 像高169cmの宝冠をかぶったセンダンの一木造で彩色を施さない素木像である。
 
右脚を遊足とし、腰を左に捻って立ち、左手を上げて手に水平に蓮華を採る。両眉を連ねる形や分厚く突き出た唇、瞑想的な細い眼など、表情は重々しく神秘的である。
 精緻な彫りを施した天冠台や臂釧、頭上に頂く高い宝冠や、両肩から両腕に掛ける二条の天衣を膝前で複雑に絡めた意匠にも特徴がある。
 このように二条の天衣を複雑に絡めた例は、茨城・楽法寺の六臂聖観音立像などにも見られるが、ほとんど例がない。

 本像のように菩薩形をとりながら薬師像と呼ばれる例は多くはないが、延喜式神名帳には、常陸国(茨城県)大洗磯前薬師菩薩明神社、酒烈磯前薬師菩薩神社が見られ、共に太平洋に面して建てられている。
 木津川もかつては大洪水を度々起こす荒ぶる川であったことから、海難水難に対する信仰から薬師菩薩像が祀られたとも考えられる。

 センダンは樗と書いてアフチ、オウチとも呼ばれ、木目がケヤキと似て、ケヤキよりも柔らかいことから、ケヤキの代用材として用いられることが多い。本像の場合、ケヤキと同様な雄渾な木目が神像としての森厳さを増しているように思われる。

 センダンは邪気を払う霊能を持つ木と考えられていて、平安時代から端午の節句に軒に葺いたり身に帯びたりされたが、京都の三条河原のセンダンの木に木曾義仲ら謀反人の首を晒したことから、中世以降不浄の木とされ、仏像の用材として用いられる事は少なくなっていく。

 なお、「センダン(栴檀)は双葉より芳し」の諺で知られる「センダン」はこれはではなくビャクダン(白檀)を指す。

 

 






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