貞観の息吹き 
高見 徹

6. 法性寺 千手観音立像(京都市東山区) 

 法性寺は、東山・東福寺の一角に通りに面してひっそりと佇む浄土宗西山派の尼寺である。

 法性寺の歴史は古く、延長2年(924)藤原忠平が、公家の読経の寺として建立し、創建後は藤原家の氏寺として栄えた。寛弘3年(1006) には、藤原道長が五大明王を安置する五大堂を建立し寺観を整えた。

 その後、自ら別荘をこの法性寺の傍らに営んだことから「法性寺殿」と呼ばれた藤原忠通やその子で「後法性寺殿」と称された九条兼実の頃には、広大な寺域に百棟を超える堂塔を持つ大伽藍を構え、拾芥抄に公家恒例被行御読経の二十一寺として挙げられていた。その広さは現在の東福寺の5倍ほどあったと伝えられる。

 しかし寛元元年(1243)に兼実の孫に当たる九条道家が、東福寺を創建して以後衰微し、鎌倉末期の兵火により堂宇は悉く焼失してしまった。

 現在の法性寺は、明治維新以後、旧名を継いで再建された寺である。

 本堂に安置される千手観世音菩薩立像は、法性寺の創建に際し、潅頂堂の本尊として造立された像と伝えている。本面の両脇に大振りの脇面をもち、その上に二十四面を載く二十七面千手観音像で、図像では見られるものの、彫刻としては先年発見された清水寺奥の院千手観音坐像が知られる程度で非常に珍しい姿である。

 本像は、ヒノキの一木造で像高109.7cmの小像であるが、表面は永年のすすで覆われており、素木像であったかどうか判然としない。しかしながら、鎬立った精緻な彫り口や下半身をやや短躯に造り出した姿は、いわゆる檀像様彫刻である。

 はち切れんばかりのふくよかな面相と大きな肩幅、思い切って細身に表した腰回りなどに、大胆な造形を見せながらも、多面多臂の複雑な姿を破状なく捉えており、腰から垂れる裳や天衣の的確な表現、膝前に表された精緻な翻波式衣文は当時の一流の仏師によって造られたことを示している。

 現在、法性寺に伝わった像としては、藤原道長が建立した五大堂の本尊と想定される丈六の不動明王像が東福寺同聚院に伝わるのみで、創建当初まで遡ることができる像は無く、像立年代が想定できる基準作例としても貴重である。

 中国から請来された檀像に倣って造られたか、あるいは図像等により新様式を取入れ造立したものであることが考えられる。


 本像の写真は、先代のご住職の「写真は撮られた後、仏様の写真が粗末に扱われたり捨てられでもしたら心が痛むので撮らないでもらいたい。目に焼き付けていってもらいたい」とのお言葉を尊重し掲載しません。

 本像は、国宝に指定されていますので、日本の美術「観音像」を始め多くの美術書に掲載されています。



 

 


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