貞観の息吹き 
高見 徹

59. 朝日観音堂 毘沙門天立像神奈川県南足柄市怒田


  南足柄市には、怒田上原遺跡など、条痕文土器などの縄文時代から弥生時代にかけての、神奈川県内でも類例の少ない資料が多く出土している。これらの土器 は、西の静岡県や山梨県で出土している土器との共通性が見られ、古くから都と東国を分ける足柄峠を越えて、東西の交流が活発に行われていたことを示してい る。

 朝日観音堂は、創建年代は不詳であるが、かつては沢伝いに西に数百m行った斜面にあったといい、山津波によって流失・埋没して、現在の地に移されたという。往来の人達の安全と鎮護を願うため足柄峠を越えてすぐの怒田の地に建立されたと伝えられている。
 周囲は山に囲まれているが東南面だけが開け朝日が良く当たる地形から「朝日観音堂」の名が付けられたという説があるという。

 現在は、江戸時代中期に建てられた四間四方の茅葺き宝形造りの観音堂が残されている。
 観音堂の縁の下には亀腹と呼ばれる粘土で固めた土壇が見られるが、この土壇の構造は奈良の古代寺院に用いられた建築法でこの地方で見られるのは珍しいという。

 観音堂の内陣には仏壇があり中央に宝殿が据えられている。本来宝殿に聖観音菩薩立像が納められその左右には兜跋毘沙門天像などが安置されていたが、現在仏像は全て収蔵庫に移されている。

 収蔵庫には、聖観音立像、兜跋毘沙門天像二体、毘沙門天像、天部像、神像など多くの一木造の平安時代の仏像が伝えられている。
  その中でも古様を伝えるのは毘沙門天像である。両腕を失っているが、天冠台の上に帽子上の兜を被り、吊り上げた眼や鼻・唇なども大振りで、両耳前から髪の 毛を逆立てた怒髪も相俟って、忿怒の形相が的確に表されている。下半身はやや鈍重でバランスは悪いが、全体的に彫りは深く明瞭である。特に上半身の文様や 腹前の帯喰(おびくい−バックル)は意匠的で、作者の非凡さが感じられる。

 四天王の一体と考えられる小像の天部像も毘沙門天像と同工の像である。高い宝髻や宝冠を持ち、動きのある姿勢は、愛らしさも感じられる。この像は、両脛部に横鑿の痕を残しており、関東地方に多く残されている鉈彫像の例と思われる。

 この他、聖観音立像の両脇に二体の兜跋毘沙門天立像がある。関東地方の兜跋毘沙門天像の例としては、この他川崎市東光院像などが知られているがそれ以外に作例は少なく、東国の入り口として外敵から護るという意味があったのかも知れない。


 
毘沙門天立像

 
天部像






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