川尻祐治

(27) 海の中の地蔵を尋ねて


 今年の夏は車で五人の友達と広島県の仏を尋ねて旅をした。それまで、隔週ごとに旅に出かけたためか、体がきつかったが、古保利(こぼり)の薬師堂をはじめ、文栽寺(ぶんさいじ)・青目寺(しょうもくじ)などの平安仏を中心に、素晴らしい仏達にお目にかかれて幸せだった。

 しかしそうした世に知られる仏達とは別に、訪れる人も少ない、忘れられているような諸仏にお会いでき、心に深い思い出が刻まれた。

東広島市 行賢造 不動明王立像
 東広島市の僧行賢(ぎょうけん)関係の石造遺品、三原市の善根寺収蔵庫の諸仏、同じ三原の島、海の中に沈む和霊石磨崖仏(われいしまがいぶつ)など。

 高尾町稲木の周辺の僧行賢関係の石仏は、探しあぐねて二日をかけ、ようやく辿り着いた。土地の人も所在を知らない。境内に行賢刻銘の手洗鉢が残る西品寺で、住職に不動明王と毘沙門天の所在を尋ねたがはっきりとしない。郵便局員に間いても同じようだった。石仏を訪ねる時は、とかく所在が分からないことが多い。それでも教わった略図をもとに、ようやく小さな指標を発見し、無人の小堂にいらっしゃる、地蔵を中尊とした三尊にお会い出来た時は、皆で喜んだ。不動明王は元亨二年(1322)願主行賢の銘をもつ50cm足らずの可愛らしい小像だった。しかしこの後、同じ行賢作の路傍の板碑と地蔵菩薩を探し当てるのも苦労した。歴史の上に姿を現さない僧行賢は、恐らく江戸時代の円空や木喰の先駆的な行者で、像の制作には真撃な態度で鑿を振るったのであろう。名も知れない僧の事跡を訪ねられたことは、伽藍や収蔵庫に安置される仏達の拝観とは異なった、旅の充実感を与えてくれた。

 三原市小坂(おさか)町、沼田(ぬた)川支流の小坂川右岸にある善根寺収蔵庫には、平安様を伝える日光・月光菩薩を初め、28体もの古事来歴不明の諸像が安置されていることで知られている。

三原市 善根寺収蔵庫
 土地の保存会で管理する収蔵庫が開かれると、林立する等身大の諸像が目の前に迫ってきた。これだけの平安仏が一堂に収められているところは滅多にない。正面の本尊薬師を中心に、帝釈天と吉祥天、その前には彫りこそ浅いが、平安初期の古様をとどめる月光と日光菩薩、そして五尊を取り巻く形で23体もの像が安置される。本尊裏側には、地方色豊かな兜跋毘沙門天(とぱつびしゃもんてん)像。文化財の指定からは外れているが、素朴でしかも個性的な十一面観音像、そして四隅のこれも異様な表情をもつ四天王像など、いずれも、かって風雨にさらされた時代があったようで、損傷が多い。この辺りは延喜式に見える、山陽道の真良(しんら)駅と梨葉(なしわ)駅の中間に当たり、瀬戸内沿岸部と山陽道の交流する沼田郷であり、経済的に文化的にも恵まれた環境下にあったが、寺の歴史などは不明である。

 今回の旅の中で、大きな失敗をしたことがあった。それはキチンと事前に所在地の確認をしなかったことである。このために行賢の遺品を探すのにも苦労したが、三原市の和霊石地蔵の磨崖仏の見学は心細かった。事前に広島県全域の地図を購入して、大体の場所は確認したが、詳細が分からない。電話で三原市の社会教育課に所在地、交通機関を確認したのだが要領を得なかった。しかし帰郷後、五万分の一の地図で確認すると、和霊石地蔵像の表示があり、自分の調査不足を悔いた。

 磨崖仏は三原市鷺浦(さぎうら)町の佐木島(さぎしま)とよばれる周囲12kmの島の海岸部にあり、満ち潮ともなると、海中に沈んでしまうという特殊な環境下の石仏である。したがってその全容は干潮の時のみ拝見できる。

 この島には鷺港(須波-すなみ)と向田港(向田野浦-むこうたのうら)があるが、二つの港への船便は少なく、しかも港は島の北端と南端にあって、これを結ぶタクシーもないという。三原に行けば何とかなると、簡単に考えて来てしまったが、行賢像の所在確認に手間取ったことを思うと不安になった。善根寺の見学の帰り、三原のホテルに入る前、三原港のフェリー乗り場に立ち寄り、佐木島までの船便と和霊石地蔵の所在地、潮の満ち引きを確認した。切符売り場の女性に尋ねてわかったことは、明日の満潮は昼頃で、午前中は潮が引いているということ。佐木島の向田経由瀬戸田行きの一番船は、7時5分に出るということ。しかし幸せなことに、明日の日曜日は、島でトライアスロンの大会が開かれ、臨時便が多数出航するという。磨崖仏の所在はハッキリとしないが、これに乗船することにした。明日の朝食は抜き。

 翌日、港近くのホテルを6時半出発。港までは徒歩10分足らず、待合室の売店で弁当を買い朝食を済ませる。向田経由瀬戸田行きの船は定時に出発。そういえば、海に沈む仏は佐木島の隣り、因島にも巨岩に刻まれた「鼻の地蔵」とよばれる石仏がある。こちらは尾道から車でいける。高速艇の乗客は七、八人。フェリーよりはるかに早い。天気は今一すっきりとしない。
 三原港の桟橋が見えなくなったと思ったらもう向田港に到着。瀬戸内の波の穏やかな海、わずか15分足らずの乗船であった。驚いたことに、土地の人に聞いてもその所在が分からず、気をもんだ磨崖仏の刻まれた巨岩が、桟橋の直ぐ脇の砂浜に見えていた。案ずるより生むがやすしの諺を実感した。

 江戸時代、佐木島は安芸国豊田郡、広島藩領に属した。全島広島系花崗岩の島で、島名は神功(じんぐう)皇后が鷺の群れをみたことから起こったといわれている。和霊石地蔵のある向田野浦は、島の南部にあり、穏やかな入り江に面している。
 磨崖仏は割石地蔵磨崖仏ともよばれているが、近年は磨崖和霊石地蔵と書かれる。和霊石の意味は分からないが、石に大きな亀裂があることから、割れた石、割石の地蔵が変化したと思われる。
 海縁を走り島を一周する県道から砂浜に降りると、高さ約2.7m、幅約4.7m、奥行き約4mの花南岩の独立岩があって、海に向き、陸に背を向けて西面する地蔵菩薩の像が半肉彫とされている。波打ち際には乱石積みの石垣による、結界が設けられ、周囲が地蔵の清浄な浜であることを物語っている。
 像は高さ150cmの龕状に浅く彫り窪めた光背の中に、錫杖と宝珠を執り、高さ25cmの蓮華座に結跏趺坐している。像の前に各々二基の石造花立てと灯籠が置かれている。

  

左:佐木島 和霊石地蔵全景          右:海中の和霊石地蔵(内藤と志子撮影) 
満ち潮の時は光背先頭部のみが見られる 

 地蔵本体は95cm、膝張75cm、頭長27cm、面幅20cmあり、肩の辺りから、波の侵蝕により石質が変化し、下が黒ずんでいる。意思的な目、大きな耳、胸飾、衣文など細部に至るまで丁寧に刻み、作者が本格的な仏師であることを物語っている。像の左右には華瓶と蕾をつけた三茎の蓮華が、これも浅く彫りこんだ龕の中に、半肉彫りとされている。さらに像の右、華瓶の上を四角く浅く彫り窪め、「現在未来人天衆、吾今應懃付嘱汝、以大神通方便□、勿令堕落諸悪□」と四行にわたって発願の趣旨を陰刻している。

 さらにその脇に、大きく「釈圓寂二千二百五十一年、□時正安二年九月□日、大□主 □位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、佛師念心」(石仏 日本の美術 久野健 小学館)と陰刻している。

 しかしこれらは七百年もの間の風浪によって磨滅が進み、読むこと難しい。

「……大□主□位平朝臣茂盛……佛師念心」の部分は、「大願主散位平朝臣茂平……佛心念心」(日本の石仏 山陰・山陽編 瀬戸内の石仏 岩道王宣)とも読まれており、正安二年(1300)に造像されたことが知られる。

和霊石地蔵及び銘文


 作者念心は、小早川茂平が創建した三原市米山寺、小早川家墓地の石造宝篋印塔(国重要文化財)の制作者としても知られ、この地方で活躍した石工の仏師と考えられる。江戸の頃になって活躍する尾道の石工との関わりはないと考えられる。

 発願者散位平朝臣茂盛は、沼田川東岸に古高山城を築き、三原地方に勢力を張った、沼田、竹原の両小早川氏の祖小早川茂平で、木像の発願者は茂平と考えるのが自然であろう。

 小早川氏は、頼朝の旗揚げの際に功労のあった、土肥実平の子遠平が、沼田荘の地頭職に任じられたことから、一族を挙げて当地に移り、小早川を名乗るようになった。沼田荘の地頭職は遠平から養子景平、そして景平の子茂平に受け継がれた。

 その茂平が海中に没する岩をなぜわざわざ選んで、地蔵菩薩の造像を発願したのか。あるいは念心が、潮が満引きし、制作日数にも相当の年月が必要と思われる最悪の制作環境の中で、これだけ大きな像の制作になぜ取組んだのか。当時の人々の宗教心を、深く掘下げなくては答えが出ないであろう。

 見学が終わった頃、桟橋にトライアスロンの選手を乗せた臨時便のフェリーが到着していた。これを逃すと次の便が何時来るのか分からない。午後のスケジュールが大幅に狂ってしまう。慌てて乗船すると、乗客は我々五人だけだった。

 

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