埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第九十二回)

  第十九話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その2〉  仏像の素材と技法〜金属・土で造られた仏像編〜


 【19−4】

【奈良・鎌倉の大仏の技法】

 金銅仏の技法についての話をすると、やはり、奈良と鎌倉の大仏の技法について採り上げないわけにはいかないだろう。
 ともに10メートルを超える巨大金銅仏。
 いくらなんでも、あの巨大仏を、蝋型で一回の鋳造で鋳あげる「一鋳」というわけにはいかないだろう、というぐらいは誰もが容易に想像できる。
 どのようにして造ったのだろうか。


東大寺 大仏(毘盧遮那那仏)

 まずは、奈良東大寺の大仏の鋳造についてみてみたい。

 結論を先にいうと、東大寺大仏は、「土型鋳造」で「削り中型」という手法で造られている。

 まず、大仏の原型を、塑像で造りあげる。
 これを、中型にして、八段に分けて、下から順番に鋳造した。
 一段目を鋳造するには、塑像を中型(雄型)から、いくつかの縦割りに分けた外鋳型(雌型)を土でとった後、原型の塑像の表面を銅の厚さになる分だけ削り 取る。
 そして、外鋳型の内面と中型の表面を火で乾燥させ、外型と中型を型持ちで固定して、出来た空間に溶銅を流し込む。
 こうして一段目が鋳造できたら、二段目の外鋳型を造り、八段目まで次々と鋳あげていった。
 即ち、削り中型という技法で、この方法を用いれば、蝋を使わずに大仏を鋳造することができる。


大仏鋳造工程の模式図(「奈良の大仏」より転載)
【骨格材を組んで中空の塑像原型を造り削り中型とし、外鋳型を8段に分け鋳造、外周は盛り土で固めた】

 
 原型となった塑像の大仏は、太い木材で骨組みを作り上げ、この骨組みの表面を板や割竹や篠で巨大な籠のような像を造り上げ、その上に塑土を塗りつけ造ら れた。
 外鋳型は、取り扱いが便利なように、厚さ30センチ以上、大きさは2メートル四方ぐらいに小さく区切って造られたと考えられている。
 塑像原型の削り取りは3〜5センチ程で、型持ちを置いた後、外鋳型の周りを綱やツタで巻き締め、押さえ棒や板を使って動かぬようにした上で、外鋳型が隠 れるまで土を盛り上げて、流し込まれる溶銅の大きな圧力に耐えられるように固定した。
 鋳型の周りに盛り上げた土は次の段の鋳造の足場となったが、小山ほどの膨大な土の量を必要としたと想像される。
 ここに、タタラで溶かした銅を注ぎ込んで鋳造。


大仏の各段鋳造想像図(同)
 同じ手法を繰り返して、次の段を鋳造していくわけであるが、難しいのは段と段の接合で、いわゆる「鋳からくり」と呼ばれる接合方法を用いる。
 後で採り上げる、鎌倉大仏の「鋳からくり」はかなり複雑で、上の段と下の段が接合部でたくみに絡まるように出来ている。
 東大寺の大仏は、奈良時代当時の部分がほとんど残っていないため、その具体的手法推定することは難しいが、つきつぎとか、かぶせぶたの簡単な手法で接合 したのではないかと考えられている。

大仏の鋳からくり模式図(同)

 こうして鋳造が終わった後、外側に積み上げた盛り土や外鋳型を取り除くと、鋳あがった大仏がその全貌を現す。
 鋳あがった大仏には、裂け目や「ス」が各所各所にあり、これを鋳かけによって手直しした後、鍍金が出来るように、表面を滑らかにするため一皮むいたり、 砥石で磨く「鋳浚え」を行った。

 最後に、大仏全身に金鍍金を行う。

大仏アマルガム鍍金の想像図(同)
 金鍍金は、先に述べた水銀アマルガム鍍金法で行う。
 大仏に鍍金するとき、水銀を高温で蒸発させるには、内部に土砂が詰まっていると火力が吸収されうまくいかなくなるため、鍍金前に大仏の原型塑像内の土砂 や木の骨組みを取り去った。
 大仏の背面の一部に、取り去り用の穴を事前に開けておいた、と考えられている。
 鍍金は、よく磨いた大仏の表面を酢できれいにぬぐっておいて、ペーストのような金アマルガムを塗り、350度ぐらいで熱すると、水銀だけが蒸発して、金 が表面に定着する。
 この作業は、水銀の有毒ガスが発生するので、危険を伴い被害者も多く出たものと思われるが、古記録には、そのことにふれたものは見られない。

 大仏鋳造の工程、技法はこのようなものであったと想定されている。


 その経緯や期間等については、東大寺要録、大仏殿碑文、続日本紀などに記されている。
 それによると、大仏の原型を造るのに約1年、鋳造に約2年、螺髻造り・鋳加えに約5年半、鋳加えの途中から鍍金をはじめ、鍍金に約5年を要している。
 大仏が完成するまで、工事を始めてから通算11年8ヶ月を要し、開眼供養会は途中の天平勝宝4年(752)、大仏と大仏殿院の完成は天平宝字元年 (757)、聖武天皇一周忌の時であった。
完成した大仏の像高は15.8m。
 使われた金属の量は、大仏殿碑文によると、熟銅739,560斤(499トン)、白鑞(錫)12,618斤(8.5トン)、錬金10,436両(440 キロ)、水銀58,620両(2.5トン)を要している。
 
大仏の背面(窓が開けられ扉がついて          大仏の内部の様子  
いる〜内部材などをここから取り出した)                    



大仏蓮弁の天平往時の線刻画
 残念ながら、現在、眼前に拝する大仏様は、天平往時の大仏ではない。
 大仏は、二度、頭が焼け落ちた。
 一度目は、平安時代末(治承4年・1180)、平重衡の南都焼討ちの時。
 二度目は、戦国時代(永禄10年・1567)、松永久秀が東大寺を焼き払った時である。
 私たちが、いま眼にしているのは、江戸再興の大仏様である。
 往時の名残をとどめているのは台座のみで(その他、体部のごく一部)、台座蓮弁に残された蓮華蔵世界の線刻画の美しい毛彫りの仏像に、昔の姿を偲ぶのみ となっている。


       

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