埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第九回)

  近代日本の仏教美術のコレクターたちの本 (1/4)

《その1》  仏教美術を蒐集した外国人とその周辺をたどって

 

無着像(興福寺)   「ビゲロー氏所蔵」
伴大納言繪詞     「フェノロサ氏所蔵」

 「国華」創刊號(明治22年10月)掲載図版には、このように記されている。

 

 エーッ! ちょっと待ってよ、そんな馬鹿な!
 国宝、無着像は、今でも興福寺北円堂にちゃんと在るじゃないか。
 誰もが教科書で見る、運慶作無着像。外国人ビゲローの所蔵になっていた時があったとは、本当にびっくり。
 また、伴大納言繪詞といえば、出光美術館所蔵の平安絵巻物を代表する国宝名品

 ご存知のように「国華」は、岡倉天心、高橋健三が創立発刊、以来百十余年、今も日本を代表する美術研究誌である。

 「名品探索百十年、国華の軌跡」水尾比呂志著(H15)朝日新聞社刊
には、このように記されている。

 「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一の率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」

 ことと場合よっては、無着像も伴大納言繪詞もビゲロー、フェノロサゆかりのボストン美術館に名品として陳列されていたかも知れない。今、共に我が国にあることを、兎にも角にも喜ぶべきであろうか。

 日本の仏教美術、古美術品を蒐集した外国人のコレクターたち。
 彼らを、我が国文化の混乱期に日本美術の価値を見出し、散逸を防ぎ、世界的位置付けを高めた、謂わば「日本美術の恩人」とでも呼ぶべきであろうか、
 あるいは、我が国有数の古美術品を、混乱期に圧倒的安値で手に入れ、膨大に「海外に流出させてしまった張本人たち」というべきなのであろうか

 こうしたコレクターたちと、その時代、周辺を知ることが出来る本をたどってみたい。

 

1. 廃仏毀釈、神仏分離と仏教美術

 よく知られているように、明治前期は、欧化思想が席巻、西欧崇拝旧物軽視の社会的風潮を生み、我が国の文化、古美術など一顧だにされなかったといっても過言ではない時期であった。
 明治元年の廃仏毀釈、神仏分離の発令で、仏像・仏画などは、厄介者として破壊、焼却、処分の対象になりこそすれ、どんなに古いものであれ美術品としての地位を与えられることはなかったのであろう。
 日本文化への民族的自覚が高まり、古社寺保存法が制定されたのは、漸く明治30年6月のことである。

 この時期、古寺伝来の、数多くの仏教美術品が外国人コレクターたちの手を経て、海外に流出している

《奈良興福寺の有様》

 ビゲローに無着像を売った興福寺。
 春日大社との神仏複合体であった興福寺は、とりわけその波紋は大きかった。

 神仏分離の発令により、興福寺から僧侶が消えた。僧侶は皆、春日社の神官となったのだ。
 廃寺同然となった興福寺では、輪番僧の寺宝の売り食いが始まり、一乗院門跡は奈良県庁、金堂は警察となる始末だったという。
 五重塔が売りに出され(50円とも15円、20円ともいう)、取り壊そうとしたがままならず、焼き払って金物を金に替えようとしたが、地元町民の反対で沙汰やみとなり、今もその姿を見ることが出来るという話は、あまりに有名。
 また、興福寺にも校倉があり、廃仏毀釈の折には、そこから仏像仏画経巻を取り出さして、倉前に山積み、欲しいものがあれば勝手次第、持って行かぬものは焼いてしまった。時の奈良県令、四條隆平の指示によるという。
 惨状を見かねた薬師寺の一老僧が、火中から一体だけ取り出して持ち帰ったが、これが貴重な天平仏であったという話もある。

 多くの寺宝が寺外に流出した。興福寺旧蔵といわれる仏像は、結構知られている。

 国宝乾漆十大弟子は、寺に残っているものは6体。破損したものも含め4体が寺外に流出。
 1体は大蔵喜七郎所蔵だったが、関東大震災で焼失。1体頭部は大阪市立美術館蔵、1体心木は東京藝術大学保管。残る1対は体部断片を復元修復(菅原大三郎が修理者)されたものが個人蔵として残っている。

〜「拈華微笑−仏教美術の魅力ー」(H12)ロンドンギャラリー刊、田邊三郎助解説〜

 日露戦争直後(明治38〜39年ごろ)興福寺は寺院財政苦しく、基本金調達のため破損仏その他、庫一つ分77点を三万五千円で払い下げ、益田鈍翁がこれを引き受けた。
 このなかには、通称「興福寺千躰佛」で知られる藤原仏60体ほどや、乾漆梵天帝釈などがあったという。

 『奈良古物と益田翁』大閑堂玉井久次郎 「大茶人益田鈍翁」(S14)学芸書院刊 所収
に、この払い下げのいきさつ、鈍翁引き受け後の古仏の行方などが、詳しく語られている。玉井は明治22年生まれの奈良有数の古美術商。

 ボストン美術館「快慶作弥勒菩薩立像」(文治5年1189銘)もこの頃(明治39年)、「故ありて」興福寺から岡倉天心が所有することとなる。国内にあれば国宝級かと思われるこの名品、天心没後、ボストン美術館が遺品を購入したものである。

《廃仏毀釈》

 こうした明治前期の廃仏毀釈と古寺古佛の有様は、次のような本で知ることが出来る。

 「日本文化史(第7巻明治時代)」辻善之助著(S45再刊)春秋社刊

 「廃仏毀釈」の項に、4〜5ページではあるが、〈建築芸術品名勝等破壊の実例〉として、15例が述べられている。
 本書によると、なんとなんと、鎌倉大仏を外国へ潰しの値段で売ろうとしたことがあるそうだ。ベルツの日記に、明治初年頃、こともあろうに日本政府が外人に売却せんと試みたとの記事があるとのこと。

 「回顧七十年」正木直彦著(S12)学校美術協会出版部刊

 「廃仏毀釈」の項立てがあり、当時の有様を活写している。
 内山永久寺(石の上神宮の神宮寺)〜廃仏毀釈で消失した大寺として著名〜では、役人が検分に来た時、和尚が、本尊文殊菩薩に薪割りで一撃を喰らわせ、「坊主をやめて神道になる」といった。めぼしい寺宝は庄屋に預けられ、残りの器物は村の百姓が手当たり次第略奪。預けられた寺宝も、その後道具屋の手を経て、多くは藤田傳三郎の所に入ったという。

 この本は、なかなか面白い本、一読をお薦め。
 正木直彦は、明治34年から30年余も東京美術学校(現東京藝術大学)の校長を勤めた仁。
 岡倉天心と同い歳、文久2年生まれ。長く文化財・美術行政に携わり、美術の識者、茶人として広い文化活動をなした。
 古社寺の宝物調査、名作蒐集の思い出などの回顧談が、気楽に語られている。

 回顧談には
 奈良の森田一善堂という骨董屋で、岡倉天心が買ってボストンにおくる手筈の毘沙門天を、日本に留めるため無理やり自分に売り渡させたら、これが肥後定慶作墨書銘あることが判明した話や、明治43年奈良玉井大閑堂で、フィッシャーというドイツ人が買ったという鎌倉期の地蔵菩薩像を、これまた無理に買い取ったのは良いが、学校に買い取り予算がないので知人に金を立て替えてもらった話
 などが記されており、当時の有様が伺える。
 この話は

『岡倉天心から横取りした毘沙門天像』「名品流転」三山進著(S51)読売新聞社刊所収
にも、正木と天心の関係なども含め、詳しく紹介されている。

 「大和百年の歩み(文化編)」(S46)大和タイムス社刊

 『春日野の嵐、神社か寺か、社家悲歌、僧侶の奮起、神仏分離令、古器旧物保存法、古社寺保存法』などが項立てられ、神仏分離令からの動乱期の有様が、奈良市内の古寺を中心に丁寧に記され興味深い。

 外国人コレクターたちの話に入るまでの、前置きが随分に長くなってしまった。
 我が国の仏教美術品、古美術品の価値に、日本人の誰もが振り向かなかった時、その美しさと価値を見出したのが、当時のお雇い外国人をはじめとした外国人愛好家たちであった。

続く

 

      

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