埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第八十二回)

  第十八話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その1〉  仏像を科学する


 【18−1】

 昨年(H19)7月、仏教彫刻史学者、久野健博士が逝くなった。享年87歳。


久野健

 「久野 健」
 この名前を目にすると、学生時代、仏像に興味を持ち始めた頃のことを思い出す。
私が、仏教彫刻史の面白さを知り、「仏像の世界」にのめりこんでしまったのは、久野健の著作を読んでからであった。
 ついでに言えば、仏像彫刻の面白さを教えてくれたもう一人は、「町田甲一」。
 当時、久野・町田の著作、論文を漁るように読んだことが懐かしく思い起こされる。
 「町田甲一、久野健」という、仏教彫刻史の研究者として一つの時代を大きく画した二大泰斗も、とうとう逝ってしまった。
 感慨深いものを感じる。

 大学2年(S45)の頃であったろうか?
 書店で、美術書の棚を眺めていると、久野健著「仏像」(学生社刊)という本が眼に入った。
 その本の表紙カバーには、
 「科学がとらえた日本古仏の謎」「ヴェールをぬいだ、日本の古仏」
 と、書いてある。
 なんだか面白そうだと、手にとって目次を見た。


*X線で仏像を探る
*広隆寺弥勒菩薩の指
*百済観音のシルエット
*仏像の本物とニセ物
*X線でみた天平仏
*貞観木彫誕生の秘密
*ナタ彫りの話
*運慶の発見

 など、という項目が並んでいる。
 「フーン、ちょっと変わっているけれども、面白そうだな。買ってみるか。久野健という人はどんな人なのだろうか?」
 そんなきっかけで、この本を読み始めた。

 当時、古寺古仏が好きで、奈良、京都の寺々を巡り歩いていた。
 そのナビゲーターとも言える本は、和辻哲郎著「古寺巡礼」、亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」、竹山道雄「古都遍歴」などであった。
 これらの本を片手に、古寺古佛を訪ねた。

 そこに綴られた、

「この雄大で豊麗な、やわらかさ と強さとの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、なんとも言いあらわしようのないものである。胸の前に開いた右手 の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、・・・・・・・・・・・・・・この上体を静寂な調和のうちに安置するおお らかな結跏の形といい、すべての面と線とから滾々としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる」(古寺巡礼)

 といった、和辻哲郎の薬師寺金堂薬師如来の描写や、

 亀井勝一郎の三月堂不空絹索観音について語った文章、

「私はこのみ仏を拝するたびに、 いつもその合掌の強烈さに驚く。須弥壇上に立つ堂々一丈二尺の威躯は、実に荘厳であり、力が充実しており、また仄暗い天井のあたりに仰がれる尊貌は沈痛を 極めている。慈悲の暖かさも悟達の静けさもみられない。口を堅く結んでなにかに耐えている悲壮な表情である。」(大和古寺風物誌)


 このような古仏への思慕や感動の描写、美的感受性あふれた表現にふれ、先人の思いを追体験し、仏像の美しさを素直に感じる。
 それが、私にとって仏像を観る、鑑賞する、ということであった。

 そんな時、久野健の書いた本、「仏像」に出合ったのであった。

 「仏像」 久野健著 (S36) 学生社刊 【250P】 480円

 読み進むと、面白くて興味津々、仏像の本を読んでいるという感じではなく、ドキュメンタリやミステリーを読んでいるようだ。
 今日風にいうならば、さながら「プロジェクトX仏像版」とでもいえようか。

 こんなことが、書いてあった。

 X線やγ(ガンマ)線で仏像を撮影すると、内部構造などを透視することが出来る。
 木彫だと、釘の新旧や木目の状態がわかり、造り方や補修部分の判定に有効だ。
 金銅仏だと、ムクの像か中空かとか、鋳造のときに出来たス(気泡)や型持の状況を明らかにすることが出来る。


広 隆寺宝冠弥勒X線撮影

 昭和31年、広隆寺の宝冠弥勒菩薩のX線撮影を行った。
 この「弥勒菩薩の指」の美しさは定評があるが、
 「あの手はブールデルの彫刻の手を知っているものでなければ出来ない。おそらく明治・大正に仏像修理に活躍した明珍恒夫が修理のときに新しく造ったもの に違いない」
 という見解もあった。
 東京から、大きなX線撮影機を持ち込んで撮影した結果、頭部から台座まで一木で、驚いたことに突き出した頬づえをつく右手先まで、本体と一体の一木から 刻み出していることが明らかになった。
 X線写真でみると、頭部のたてに通った木目が、手や指にまで連続して通っている。
 「弥勒菩薩の指」は、決して明治の新造ではなく、飛鳥時代当初のものであった。
 飛鳥のいにしえから現代まで、指先まで折れずに伝わったというのは、まさに奇跡的といえる。

 飛鳥白鳳期の金銅仏には、その台座などに銘文が刻されたものがあり、そのなかには干支が記されているものがある。
 当時、年号は「戊子」とか「甲寅」とかの干支で記されることが普通で、干支は60年に一度同じ干支となる。
 それ故、干支が記されている仏像でも、その見方によって、制作年代が60年前後してしまう。
 御物四十八体仏のうち、干支が刻されている二つの像がある。
 即ち、「辛亥銘」観音像は、崇峻4年(591)、白雉2年(651)のいずれかの制作、 「丙寅銘」菩薩半跏像は、推古14年(606)、天智5年 (666)のいずれかになるのだが、両説あり決しがたいという状況であった。
 7世紀の小金銅仏を、透過撮影をしてみると、飛鳥時代のものは内部が全く空洞のものが多い。白鳳時代と推定されるものには内部の空洞のすくないものない しはムクのものが多く、また鋳造の際の鉄心が残っているものも多い。
 これにより、制作年代を推定することが出来る。

   

辛亥銘 観音像・X線撮影 甲寅銘菩薩半跏像・X線撮影

 辛亥銘観音像をγ線撮影すると、鉄心が残されているのがわかり、外見は一見古様に見えるが白雉2年 (651)の制作と考えられる。
 丙寅銘菩薩半跏像は、ほとんどムクに近い作り方であることが判明した。この点からは、天智5年(666)の制作と思われる。
 (これは当時の久野健の説で、現在では、辛亥銘観音像の白雉2年(651)制作は定説となっているが、丙寅銘菩薩半跏像は、未だ両説定まらず、むしろ推 古14年(606)説のほうが有力という状況である)

 飛鳥白鳳期の小金銅仏は、ニセモノが極めて多い。
 外見では、見破ることがなかなか難しくとも、γ線撮影すると、古代と現代では鋳造技術が大きく違うので、ス(気泡)の入り方などで、すぐに判定すること が出来る。
 あるとき、高価で買い入れた金銅仏のγ線撮影をどうしてもと懇請され、仕方なく応じたところ、真っ赤なニセモノと即座に判定できた。

 「科学の力でこんなことがわかるのだ」「仏像をこんな風に観る世界があるのだ」
新たな知的興奮に惹き込まれるようであった。これまで全く知らなかった、仏像鑑賞の世界であった。
 このほかにも、「天平時代の木心乾漆像をX線撮影し、その構造を探る話」や、「浄楽寺、願成就院の諸像が東国における運慶の造像作品であることを、X線 撮影などで解明発見した話」などが、素人にもわかりやすく物語り風、ドキュメント風に語られていた。
 その面白さに一気に読み通した。
 そして何度も何度も読み返した。


 【光学的方法による古美術品の研究の道程】

 X線、γ(ガンマ)線、紫外線、赤外線などを利用した、古美術品の科学的調査研究を「光学的方法による古美術品の研究」と呼ぶ。

 我国での、「光学的方法による調査研究の道程」を振り返ってみたい。

 我国における、「文化財の科学的調査研究」は、法隆寺金堂の壁画保存についての取り組みから始まったそうである。
 「法隆寺壁画保存方法保存方法調査報告」という本がある。

 「法隆寺壁画保存方法調査報告」 文部省 (T9) 印刷所・彰国社


 この報告書は、大正2年(1913)岡倉天心が、壁画保存研究会を設置するように発案、大正4年から8年ま で「法隆寺壁画保存方法調査委員会」を設置 し、壁画硬化等の試験や破損程度の調査を行った調査報告で、「壁画の硬化法による保存と副本調製」を提言している。
 この時、壁画の構造と破損状況、剥落状況とその固定法や、壁画顔料の種類などを調査している。
 我国において「美術を科学する」というアプローチでの、研究調査の開始を告げたものであった。

 昭和11年(1936)、法隆寺金堂壁画の保存のため、我国初の「赤外線撮影」が行われる。
 実物大の赤外線・カラー写真が撮影され、合成樹脂による壁画の効果と剥落止めの可能性の検討や、日本画家による模写作業が進められた。
赤外線写真で撮影すると、肉眼では見えない墨書銘や文様等を検出することが出来る。
 欧米で先駆的に進められていたX線、赤外線などによる「光学的方法による調査研究」が、この時、初めて我国に導入されたのであった。

 この撮影は、東京大学の美術史学者の滝清一が昭和8年(1933)に組織した「古美術保存研究会」の会員を主力に行われた。
 「古美術保存研究会」では、法隆寺壁画のほか、富貴寺の壁画の赤外線撮影や当麻寺の綴織・当麻曼荼羅の赤外線、X線撮影を行っている。

 一方、この頃、美術研究所(昭和5年創設〜現国立文化財研究所の前身)でも、光学的方法による研究の新分野を開拓しようとする試みがなされており、写真 部・中根勝により、赤外線、紫外線、X線による文化財の撮影が実験的に実施されている。


中根勝の発表論文(美術研究72号)

 中根は、赤外線の利用に関しては、若王子社伝来・奈良博蔵薬師如来像および弘明寺十一面観音像を撮影し、肉 眼では見えない眉や眼や鬚の線を明瞭に撮影す ることに成功した。
 弘明寺像に墨描きの眉、目、鬚および胸部の線描等があったことは、完成か未完成かの議論が盛んであった鉈彫り像の論争の問題に、貴重な資料を提供するこ ととなった。
 X線撮影では、東京芸大所蔵観音像(藤原時代)や法隆寺五重塔塑像(某氏蔵)の透過撮影を行い、釘の形式や表面から全くわからない造像法を明らかにし、 X線鑑識が、将来、仏像彫刻の内刳りの状態や納入品の有無、木心乾漆の木心の様子等の解明に効果を示すであろうことを予見している。(「古美術品鑑識の光 学的研究に就いて」中根勝〜美術研究72号・S12)

 こうした「美術を科学する」研究の取り組みは、設備等も充分そろわぬうちに、第二次世界大戦に突入してしまい、その後はしばらくの間、中断してしまう。

 戦後になり、再び美術品の科学的調査研究推進の機運も起こり、昭和24年(1949)には、美術研究所内に秋山光和を研究担当者とする「光学研究班」が 組織される。
 文部省の科学研究費の交付を受け、必要な機械設備を整え、基礎的実験研究や実作例への適用が開始されることとなった。
 この光学研究班で、彫刻担当となったのが久野健である。
 久野は、東大工学部助教授中山秀太郎の設計指導による、携帯用のX線発生装置を使って、奈良京都などの木彫仏、乾漆仏のX線撮影を行い、その内部構造、 造像法の調査研究に取り組んだ。
 ただ、このX線装置では、金属像である金銅仏の透過撮影が出来ないという問題が残されていたが、昭和28年には、放射性同位元素・コバルト60から出る γ線を利用して、金銅仏の内部透視撮影を行うことに成功する。
 そして、γ線による四十八体仏をはじめとする金銅仏撮影への取り組みが始まる。

 一方、光学研究班筆頭格の秋山光和は、昭和25〜26年にフランスに留学、欧米の美術品の科学的調査の研究手法や機械設備の見学、資料収集を行い帰国、 文部省科学研究費の助成を得て、強力で波長の長い固定式X線発生装置やその他諸装置配備充実に努めた。
 そして、活発に京都や奈良の博物館や諸社寺に出張し、現地調査が実施された。
 絵画の分野においては、法隆寺金堂の天蓋や橘夫人厨子絵をはじめとして、鳳凰堂壁画、釈迦金棺出現図、源氏物語絵巻などの上代絵画の主要遺品の対して、 各種の光学的鑑識法を応用した調査研究が行われた。


 こうした研究成果は、東京国立文化財研究所光学研究班の名でまとめられ、昭和30年(1955)には、「光 学的方法による古美術品の研究」と題する、大 著の報告書として刊行されるに至るのである。

 「光学的方法による古美術品の研究」 東京国立文化財研究所光学研究班著 (S30一刷・S59二刷増補版)吉川弘文館刊 【344P】 38000円

 目次を見てみよう。

1.光学的鑑識法の沿革と現状     山崎一雄、秋山光和
2.光学的鑑識の方法とその設備
(序説)登石健三、(X線)中山秀太郎、(紫外線、赤外線)山崎一雄、(顕微鏡)中山秀太郎、(γ線)登石健三
3.東洋古美術品に対する光学的鑑識法の適用
(彫刻)久野健、(絵画)秋山光和、(書蹟)伊東卓治、(工芸)中川千咲


 本書は、戦後、手探りでスタートした「美術を科学する」懸命な取り組みと、研究者たちの大変な労苦の結実とも言えるものであり、当時の我国の美術品に対 する科学的調査の業績の集大成、記念碑的出版物であるといって過言ではないと、私は思っている。

            


      

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