埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第六十八回)


   第十六話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その1〉敦煌石窟編

 【16−2】
2. 敦煌文書流出物語

 ここからは、約900年の長きに亘り封印されていた夥しい経典類「敦煌文書」を、王道士が発 見し、探検家スタイン、ペリオ等が、次々と国外に持ち去っていった物語について、綴っていきたいとおもう。
 その前に敦煌文書発見、 流失史のポイントを年表風にまとめると、次のとおり。

西暦年出来事
1900年王道士(王円 籙)蔵経洞の敦煌文書発見
1905年(露)オブルー チェフ来訪。古文書2包みを、王道士と思しき僧から入手。
1907年(英)スタイン 探検隊来訪。初めて数千点の敦煌文書を持ち去る。
1908年(仏)ペリオ探 検隊来訪。約6千点の敦煌文書を持ち去る。
1909年ペリオ、入手し た敦煌文書の一部を、北京で公開。中国人学者に大きな衝撃を与える。
1910年中国政府、残さ れた敦煌文書約6千巻を、北京京師図書館へ移送。
1911年大谷探検隊・吉 川小次郎来訪。1000巻余の敦煌文書などを王道士から入手、持ち帰る。
1914年スタイン再度来 訪。約600巻の経典を王道士から入手。
1914年(露)オルデン ブルグ探検隊来訪。多数の敦煌文書を手に入れたという。
1924年(米)ウォー ナー来訪。壁画を剥ぎ取るとともに塑像数体を持ち去る。


  【王道士の蔵経洞の発見】

 王円という名の道士 が、敦煌莫高窟へやってきたのはそろそろ20世紀に入ろうかという頃であった。
 郷里・湖北省から流れ流れて、しっかりした仕事もな かったので、とうとう道士になり砂漠の中の石窟寺院に住みつくようになった。道教の祭祀のしきたりなども身につけ、加持祈祷などを行い、細々とした生活を 送っていたらしい。

 それは1900年5月26日のことであった。
 王道士が雇っていた楊 某という写経生が、煙草の火種・草の長い燃えさしが、壁の間にスルスルどこまでも 入っていくので、壁をコツコツと叩いてみると、向こう側が空洞であるような音がする。
 このことを王道士に知らせ、二人で思い切って 壁を壊してみた。壁の内側には小さな門があり、前面はすっかり泥でふさいである。泥をとっていくと、やがて甬道が現れ、その奥に3メートル四方の石室があ り、無数の白布の包みが、ずらりと積み上げられていたのであった。

 後に、世界を驚かす「敦煌文書発見の瞬間」であった。

  王道士は、敦煌の紳士たちにこれらの古文書を見せてみたが、彼らには価値がわからず、ほとんど興味を示さなかった。
 古文書に素養が あった敦煌県長汪宗瀚は、王道士から古写経や仏画数点を取り寄せていたが、発見から2年後に甘粛省の学政使として着任した葉昌熾にこれを贈った。目利きの 葉昌熾はその価値に気付き、「これら貴重な古文書は、省の役所に運んで保存すべき」という建議をした。
 しかし、運搬費用をはじいて みると、銀5〜6千両という膨大な費用がかかることから、結局「経巻・画像を点検したうえ、石室に封をしておくよう」という命令を県庁に出したに留まって しまった。

1900 年頃の莫高窟

 王道士自身は、もちろんその価値はわからなかったのだが、彼の世渡りの 才覚から、大変な値打ちがあるのかもしれないという、動物的嗅覚を持っていたようだ。
 各所に自分の発見を触れ回ったり、ごく一部の 経巻を持ち出したりしていたようで、役所は動かなかったものの、敦煌の千仏洞から沢山の古文書が出たという噂は、次々と語り伝えられ、多くの土地の人々に 知られていった。


【敦煌文書を持ち去った探険家たち】

  一方、ちょうどこの頃は、中央アジア、東トルキスタン方面は英国・ロシアの帝国主義的対立もあり地理的軍事調査などが行われていたが、歴史学・古文書学的 に驚嘆させるような資料が次々発見され、組織的な中央アジア学術調査隊を各国が派遣するようになる。
 ヘディン(スウェーデン)、 ル・コック(独)、スタイン(英)、ペリオ(仏)、オルデンブルグ(露)など、その名を良く知られた探険家たちが、この時期に、探検競争、文化財獲得競争 を繰広げていたのであった。

1900 年頃の莫高窟全景

 

これらの 外国探検隊のうちで、最初に敦煌を訪れたのは、ロシアのオブルーチェフであった。千仏洞から多数の古文書が出たという話を中国商人から聞いて、 1905年10月に千仏洞を訪れた。詳細な記録が残されていないようだが、オブルーチェフは王道士と思われる僧から、商品6包みと引き換えに古写本2包み を得た。王道士は、大変慎重で古文書のありかを教えることなく、秘密を保持しながらほんのわずかの文書を渡したということであったらしい。

  次に、この千仏洞の敦煌文書に接する大きなチャンスをつかみながら、それを逃がしてしまったのは、ドイツ隊のル・コックであった。

 1905 年、探検中のル・コックは、タシュケントの商人から敦煌で大量の古文書が発見されたという情報を得る。直ちに敦煌へ行って探索しようとは思う が、ひょっとしたらガセネタかもしれない。カシュガルへ行く目的もある。思いあぐんだル・コックは、運を天に任せコインを投げてどちらに向かうか決めよう とする。
 「表」なら敦煌だったが、投げられたコインの図柄は「裏」と出た。
 そして、歴史に大きな名を残す幸 運のチャンスは、逃げていってしまった。

ル・ コック(左端)

〈スタイン探検隊〉

  スタインの名は、「世紀の大発見」敦煌文書の発見者として知られ、敦煌文書発見流出秘話の冒頭を飾る人物としてあまりに有名だ。
 西 欧では「比類なき探検家」として、中国では「憎むべき略奪者」として、その名が語られている。
 スタイン探検隊が敦煌を訪れたのは、 その第二次探検の時、1907年3月のことであった。

    

オー レル・スタイン        当時の莫高窟

  スタインが敦煌を訪れたのは、千仏洞の見事な壁画や塑像の話を聞いていたためで、石室の経巻類のことについては、全く知らなかった。敦煌に着いてから、イ スラム商人から膨大な古文書が発見されたという話を聞き、勇躍千仏洞へ赴いたが、王道士は托鉢に出かけ不在であった。入洞は出来なかったものの、蔵経洞の ありかを確かめたスタインは、いったん敦煌へ引き返して他の調査をし、2ヵ月後に再度千仏洞を訪れ、初めて王道士と出会う。
 スタイ ンによると、王道士は「実に風変わりな人物で、極端に内気で神経質だが、それでいて勇気とは縁の遠い狡猾さを時として見せることもある」というようで、ま ことに扱いにくい人物であった。
  何とかして、蔵経洞を開けさせて経巻類を手に入れようと、大金をちらつかせたり、あの手この手で篭絡しようとするが、王道士は仏罰や人々の評判を気にし て、一切交渉に応じようとしない。埒が明かず、四苦八苦していたスタインが最後の活路を開くことが出来たのは、玄奘三蔵の話を切り出したのかきっかけで あった。

「実 は、私は唐代の高僧玄奘三蔵の崇拝者です。私はあの方の跡を慕って、1200年後の今日、はるばるインドからここまでやってきたのです」

  この話に、王道士の顔にありありと感動の色がみなぎった。
 王道士は、熱烈な玄奘法師の崇拝者だった。スタインの話に感激し、自ら敦 煌の画工に描かせたという「西遊記」の絵を見せ、絵物語をするなどした王道士は、遂にその夜ひそかに数巻の古文書を持ち出し、通訳に手渡した。
  そして王道士は、蔵経洞のレンガをどけて、薄暗い内部をスタインに見せたのである。

蔵 経洞前に取り出された敦煌文書

 別室で、王道士が洞から持ち出す古文書類を調べることとなり、スタイン はこれらの文書の質の高さ、膨大な量に驚嘆する。
 その有様をスタインは、

「私は数時間歓喜に胸を躍らせて点検に没頭していたが、調査が進むにつれ ていよいよ秘庫の価値は高まるばかりである。道士が続々と運んでくる束を次々にひろげゆく興味に興奮して、私はもう冷静さを装うことが出来なかった」
と 記している。

 スタインは、蔵経洞にあるすべての古文書類を買い取ろうとするが、意の ままにはならない。そ の後もいろいろな出来事や駆け引きを経た後、点検時にピックアップした漢文経典50包、チベット経典5包などを馬蹄銀4個で、王道士から買い取ることに成 功した。
 さらに4ヵ月後にスタインは再び莫高窟を訪れ、再び多くの古文書を入手している。
 結局、29箱の木 箱に納められた数千点の敦煌文書は、1909年ロンドン大英博物館に到着、1910年に公開されるや、大反響を呼んだのである。

  貴重な文書を手に入れたスタインであったが、惜しむらくは、スタイン自身が漢文を一切読めず、知識もなかったことであった。経典等の点検に当たっては、通 訳で助手の蒋孝に任さざるを得ず、結果として 珠玉の漢文経典 等を数多く蔵経洞に残してくることになった。
 そして、この後莫高窟を訪れるペリオは、残された敦煌文書のなかから、珠玉の経典文書 を選んで、手に入れることとなるのである。



 


       

inserted by FC2 system