埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第三十二回)

  第八話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

《その3》昭和の法隆寺の出来事をたどって(4/6)

【8-4】

 〜昭和の模写事業〜

 さて、いよいよ国家事業としての「昭和の模写」が始まる。

 文部省では、昭和14年、金堂の修理着工が2年先に迫っているため、2年間で十二面の壁画の忠実な模写を行うことを計画・決定する。
 伊東忠太を委員長とする壁画保存調査会第3小委員会では、模写を日本画にするか、洋画にするかで大激論の末、多数決で日本画にすることが決まり、人選は委員の安田靭彦を中心に進められた。
 洋画を強く主張した和田英作は、個人の資格で邪魔にならぬよう模写するのを認められ、五号壁の模写を行っている。

 模写担当画家には、次の日本画家が選ばれた。
 アジャンター壁画の模写経験を持つ荒井寛方、古画の模写を専門とする京都の入江波光、院展同人の中村岳陵、文展若手の橋本明治が、それぞれ班長に選ばれ、各班に3名の助手がつくことになった。

 難航したのは、模写する壁画の分担で、最高傑作といわれる6号壁・阿弥陀浄土を誰が模写するのかであった。
 結局、くじ引きで担当壁を決定することとなり、抽選結果は、入江、橋本、荒井、中村の順となった。大壁4面については、入江が6号壁、橋本が9号壁、荒井が10号壁、中村が1号壁の担当と決まった。
 この決定にあたっては、入江は最高傑作6号壁を荒井に譲ろうとしたとか、橋本は9号壁より出来の良い10号壁を、荒井に譲ったのではないかとのエピソードもある。

 東京3班と京都入江班とは、色々と感情的対立もあったようで、特に模写の方法では、その手法が相違した。
 東京の3班は、便利堂のつくった原寸大のコロタイプ版を、神宮紙(和紙)に薄く印刷して、これに壁画を見ながら直接色を重ねていった。
 これに対し、模写専門の京都の入江班は、伝統的手法である「上げ写し」の手法を主張、コロタイプ版の上に模写用の神宮紙を重ね、紙を上げては下の図柄を写し取っていくやり方をとった。

模写の様子(荒井寛方)

 昭和15年8月には、蛍光灯が照明に使用されることとなった。
 当時、蛍光放電灯は一般実用化せれておらず、海軍が潜水艦で使っているのみであった。電灯を多数点燈する案もあったが、熱で壁画が損なわれる恐れもあり、国家的事業として、やっと海軍の許可を得たという。
 金堂内陣は、現在でも暗くて殆んど何もよく見えないのはご存知のとおりだが、蛍光灯が点燈された金堂内部は、昼なお暗い金堂の中では、驚嘆の明るさであったようだ。

 洋画家、和田英作はその感動を、

「スイッチを入れると、穏やかな光が金堂内にさして、観音菩薩の温顔が浮かび出た。それは今まで何回も見たお顔とは違う、犯しがたい美しさだった」

「今明るい蛍光灯の下で、驚くほど真っ白な壁面に浮かび出る浄土の姿を見たとき、只々驚嘆して打たれている・・・・・・暗い中で見ていたときは壁の損傷した隙だと思っていたのが、今では明らかに雲である。」

 と、新聞記事で語っている。

 蛍光灯の点灯は、従来良く見えなかった壁画詳細を、鮮明かつ明らかにした点も多かったようで、その後、こんな本も出ている。

 「蛍光燈下の法隆寺壁晝」 春山武松著 (S23) いかるが舎刊

 

 昭和15年9月23日、いよいよ、壁画模写が開始された。

 そして、当初2年で完成するはずであった、この壁画模写事業は、それから8年余を経ていまだ未完成のまま、あの金堂炎上の日を迎えることになるのである。

 模写を行う画家たちにとっては、またとない勉強の機会でもあり、名誉なことではあったが、模写事業が始まってみると、支給される手当てもわずかで、報いられるところは誠に少なく、自らの仕事、家族との生活を犠牲にするところは大きかった。
 もとより、これだけ細密入念な模写が、2年で完成するわけなどなく、身動きもままならぬヤグラの上で、実質七時間半の作業をやっても、一日に3センチ四方ぐらいしか描けなかった。
 こうした中、模写の仕事も余り進行せず、太平洋戦争のはじまる昭和16年末ごろから、病気や他の事由から辞退する画家も現れ、模写事業は暗礁に乗り上げつつあり、当初の2年間という予定が過ぎた。昭和17年には模写陣の強化を図ったものの、戦局の悪化や模写参画者の召集もあり、自然休止の実態に至った。

 こういうひどい条件の中でも、老骨に鞭打ち春秋欠かさず仕事を続けていた荒井寛方が、終戦直前の4月、法隆寺へ向かう汽車中で倒れ急逝、最も仕事がはかどっていた入江波光も、昭和23年完成を目前に長逝する。
 最も懸命に模写の仕事に打ち込んだこの二人の画伯が、壁画を焼くという痛ましき惨事を知らずに逝ったことは、両人にとっては、むしろ幸せだったのかもしれない。

 

 当時の模写の有様などを語ったり、偲んだりしたものには次のようなものがある。

 和田英作は、

「いつのまにか、音も無く座右に置く筆洗の水の上に壁の絵具が落ちて浮いているのを発見して驚いたのも一再ではない。それほど瞬刻の間に壁画は失われつつあるのである。惜しい!」(昭和15年朝日新聞〜浄土再現の歓び〜)

 入江波光は、

「模写していると、壁画の絵具がハラハラと落ちてきたのを今も思い出す」(日本経済新聞〜古画の心を模写〜)

 と回想している。

 

 『法隆寺ノート』「美しきものとの出会い」 井上靖著所収 (S48) 文芸春秋社刊 

 井上靖は、当時毎日新聞社の美術担当記者をしていたが、何度も法隆寺を訪れ壁画模写の有様を取材した時の思い出の小文。
 戦時下における厳しい模写状況や、模写画家の思い出などを懐かしく語っている。
 入江波光が新聞記者嫌いで井上もなかなか近づけなかったこと、荒井寛方とは親しくなり、気安く話をし、原稿も引き受けてくれたこと。その荒井の口から、「形あるものは亡びますよ」という言葉が出たことが、忘れ得ぬ思い出であることなどのエピソードが綴られている。

 「阿弥陀院雑記」 荒井寛方著 (S18) 鵤故郷舎刊

 10号壁を模写する荒井寛方は、法隆寺西里の阿弥陀院を模写に携わる宿舎にしていた。
 その阿弥陀院で綴った随筆集が、この「阿弥陀院雑記」。
 大和絵日記、斑鳩夜話などの題目で、気楽に当時の有様や出来事、印象などを語っている。

 「大和路・信濃路」 堀辰雄著 (S41) 岩波文庫

 誰もが良く知る名著だが、昭和16年秋10月、大和路を旅した時、法隆寺を訪れて壁画模写を実見したことが綴られており、足場の櫓に上がって壁画を鑑賞し、模写の有様を克明に見た感動が、2ページに亘って書かれている。

 

 終戦後の昭和22年、壁画模写が再開される。
 壁画保存調査会は、金堂の修復作業の開始予定もあり、23年10月に「24年中に模写作業を打ち切る」ことを決定、それまでに人数を増やしてでも、模写を完成させるよう要望した。

 模写作業は、これまで酷暑・厳寒を避け、春・秋に行われてきたが、その完成を危ぶむ画家たちは、模写促進のため冬も作業することとした。
 そして、奈良の底冷えを金堂内で少しでも凌ぐため、コタツなどの暖房を要望した。
 工事事務所では、火気はまずいので電気座布団を配備する事とした。

 そして、電気座布団を使い始めて、8日目。
 運命のその日を迎えることとなる。

 


      

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