埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第三十一回)

  第八話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

《その3》昭和の法隆寺の出来事をたどって(3/6)

【8-3】

2.金堂炎上と壁画模写

 法隆寺金堂が炎上したのは、昭和24年1月26日の早朝のことであった。

  「ああ惜しや世界的至宝 建物、壁画もろとも烏有に 模写画家たちの目ににじむ涙」
  「世界に誇る文化財 四壁晝十二面など焼失 惜しまれる千古の建築美」

 新聞各紙は、法隆寺金堂の火災をこのように報じた。

 千三百年余伝えられてきた、世界の至宝とも云うべき佛教絵画が、一瞬のうちに焼け落ち喪われてしまったのであった。
 金堂壁画の素晴らしさは、明治の頃から認識され、その保存や模写が検討・議論されたり、試みたりされてきたが、昭和大修理により金堂の解体修理が検討される状況にいたり、昭和15年から、金堂壁画の本格的模写事業が開始される。
 そして、大戦を経ながら苦労に苦労を重ねて取り組まれてきたこの模写事業が、もう完成間近という時、金堂炎上という悲劇に遭遇することとなる。

 この大惨事から二十年が過ぎようとしていた昭和40年に、失われた金堂壁画の再現事業に取り組むこととなり、昭和42年から1年余をかけて、安田靫彦ら当代を代表する画家による再現模写が完成した。
 金堂内陣には、この再現壁画が壁面に収められ、今日に至っている。


 昭和の法隆寺にとって、忘れようにも忘れられない金堂炎上と壁画を巡る出来事などについて、金堂壁画の保存検討、模写事業、金堂炎上、再現模写という流れを追って、辿ってみたい。

 【壁画の保存と模写】

 〜昭和の模写事業以前の模写〜

 アジャンターの石窟壁画と並び称され、佛教絵画の最高傑作といわれる、法隆寺金堂壁画。

 金堂壁画が、世に一般的に知られるようになったのは、江戸時代中頃からのことだそうだ。法隆寺が、伽藍修復の浄財を得るためのご開帳を行ったとき、それまで閉鎖的であった金堂を公開することとなったことに始まるという。その美しさと荘厳さに参拝者達が賛嘆したであろうことは想像に難くない。

 この金堂壁画の模写は、昭和の模写が初めてかと思っていたが、それ以前にも何度か行われている。

 記録に見られる壁画の模写は、幕末嘉永5年(1852)に法隆寺を訪れた浄土宗の高僧養徹定(うがいてつじょう)が、法隆寺僧・千純の協力を得て侍僧・祐参に命じて模写させたのが最も古い。
 今も、山梨・塩山市の放光寺に所蔵されているが、写真で見ると鮮やかな原色で描かれ、大まかな感じで細密模写という感じではない。

塩山放光寺所蔵 養徹定模写


 明治17年には、博物局(帝室博物館)の備品にするため、大阪の画工・桜井香雲に模写をさせる旨の博物局長の命が、法隆寺に出されている。
 桜井は、堂内に足場を掛け灯火を点じて、かなり本腰を入れて模写を行ったらしい。外陣十二壁すべてと山中羅漢図を模写した。
 岡倉天心は、東京美術学校の日本美術史講義の中で、桜井香雲の模写を採り上げ、種々の困難を乗り越え、二ヵ年余を費やして完成したと述べている。
 この時の模写は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。
 私がこの実物を見ることが出来たのは、今年(H17)8月。
 東京国立博物館で「模写・模造と日本美術」という展覧会が開催され、桜井香雲模写の阿弥陀浄土図(6号壁)が展示されたのだ。
 眼の当たりに鑑賞出来たが、見事な出来映えの模写であった。

 香雲は、天保11年(1840)生まれ。大阪の人で、田中友美の門人となり絵を修行、古画の模写を得意とする画家であったらしい。その後、画塾を出て按摩などをしながら地方を巡ったとも言われるが、古社寺宝物保存事業に関与していた田中友美の推薦で、壁画模写を依頼されたのだろうと思われる。
 昭和の金堂壁画模写のことは、良く知られているが、明治の時代にこれだけの立派な模写を行った桜井香雲のことは、もう少し世の知られても良いのではないかと感じる。

桜井香雲模写 阿弥陀浄土図


 その後、明治22年にも法隆寺僧・佐伯寛応が、金堂壁画の薬師浄土を模写して西円堂ご本尊の後背に張ることを企画、この時の模写させたものが、多数世間に出回っているというが、私は実見したことはない。

 明治27年ごろには、大塚榛山という人が、当時の千早定朝住職や北畠治房男爵の援助を受け6号壁阿弥陀浄土図を模写している。
 大塚榛山は、明治4年群馬県吾妻郡生まれ。明治23年ごろ京都・奈良で古美術を研究、先述の桜井香雲より壁画着色の秘法を教わり、法隆寺金堂壁画の模写を委託されたという。

 さらに大正年間には、鈴木空如という画家が、壁画十二面全部を模写している。空如は、東京美術学校を出て仏画の模写に打ち込んだ画家で、壁画の剥落したところもよく観察描写され、桜井香雲の模写に勝るという。

 鈴木空如については、次の本が出版されている。

 「信仰の仏画師 鈴木空如」 大岸佐吉著 (H4) 春秋社刊

 本書は、信仰と清貧に生きた無名の仏画家、鈴木空如の事績と金堂壁画模写の偉業を、掘り起こそうと出版された本。
 鈴木空如は、明治6年、秋田県太田町生まれ。
東京美術学校を出て、仏画を志し、修行僧か洒脱な俳人のような端然枯淡な生活を送った。
画家たちによる展覧会に出品しないことを信念とし、仏画を描くことを天職と出来たことを無上の喜びとしたという。
 空如は、桜井香雲模写の金堂壁画に接したことが契機になり、自ら壁画模写に取り組む。誰の助けもなく、単身堂内に足場を組み、汗にまみれ、時にこごえる身で、ロウソクの明かりだけを頼りに大紙をあやつり、すべて自己の負担で遂に壁画12面を模写し終えた。
 生涯に三回、三組の模写を行っており、その制作時期は、大正5年から昭和11年の20年間に亘っている。

 

鈴木空如模写法隆寺壁画         鈴木空如  

〜壁画保存への取り組み〜

 金堂壁画保存への取り組みは、明治まで遡る。

 古社寺保存法が施工された明治31年、一つの保存方法として壁面にガラスをはめ込もうという計画が持ち上がる。
 住職千早定朝は、この年「法隆寺金堂内壁保存ノ為メ硝子障子新設ニ付補助金下賜願」を奈良県知事の提出している。ところがこの計画は、壁面をガラスで覆うことによって、かえって壁面を害するとして沙汰止みになった。

焼失前の金堂内陣

 大正2年岡倉天心が、壁画保存研究会を設置するように発案、大正4年から8年まで「法隆寺壁画保存方法調査委員会」を設置し、壁画硬化等の試験や破損程度の調査を行い、大正9年3月には、壁画の硬化法による保存と副本調製を提言する調査報告書を出している。

 「法隆寺壁画保存方法調査報告」 文部省 (T9) 印刷所・彰国社

 この報告書の結論の要旨としては、

*根本保存に関しては、(天然樹脂等を塗って行う)硬化法が、各種試験の結果その効果確実であることを立証した。

*8号壁に、硬化法の局部的試験を実施し予期の効果を収めたにもかかわらず、8号壁全面を試材とするについて、法隆寺がいまだこれを承諾しないのは、保存方法の実施急を告げるに際し、深く遺憾とするところである。

*硬化法の効果に、世上疑惑を抱くもののあるが、この調査結果を見れば問題なきことは明らかである。

*また根本保存と共に、壁画副本の調製も保存事業として重要。壁画は不慮の変災に遭うこともあり、また自然的頽勢も免れ得ないので、我が国唯一の名画にして完全な副本を有するべきである。

 というものであった。

 法隆寺側が、硬化法の8号壁全面拡大を承諾しなかったのは、信仰対象である大事な壁画に、異物を注入されたり固められたりするのは、我慢がならなかったからで、また8号小壁・文殊菩薩の一部を使ったテスト後、その部分が変色し光沢を生じてしまったことが、管長・佐伯定胤の逆鱗に触れ、作業は中断された。委員会は、この報告書を出すに留まり、その後解散したという。

 大正昭和の壁画保存問題は、壁画をあくまで信仰の対象として、あるがままに拝すことにこだわる、佐伯定胤管主に代表される法隆寺側と、文化財美術品としての保存・保管を実行したい文部省・学者サイドとの「信仰か文化財か」の対立の構図であったといえよう。

 一方大正7年、奈良県は、壁画の保存上拝観を春秋二期の制限し、カーテンと木の手すりを設けた。

 昭和に入り、「昭和の大修理」による金堂の修理時期が近づいてきたことから、昭和14年には、各界の権威を集めた「壁画保存調査会」が組織された。
 保存調査会は、【壁画は現在のまま保存】【解体して保存】【取り外して保存】の三つの方法を検討したが、管主の佐伯定胤は、「私たちは壁画の仏様を拝んでいる。抜き取って、なんとなさる」と、解体や取り外しにあくまで反対した。
 文部省は、17年から始める予定にしていた金堂の解体修理を、上層部だけにとどめ、まず壁画の忠実な模写を行うことに決定したのであった。

 保存方法のあり方については、世間の議論を呼んだようで

 「法隆寺の壁画」 夢殿論誌編纂所・夢殿選書 (S16) 鵤故郷舎刊

 には、「金堂壁画保存に関して諸家に聞く」と題した特集が組まれている。
35名の学者、評論家、文化人などに、【金堂解体に関する総括的意見】【保存の一方法として壁画切取り説に賛成や否や】【壁画模写完成後の用途】の三点のアンケートを、35ページに亘り掲載している。
 壁画切取りについては、信仰・保存の立場から賛否両論で、当時なかなか決断の難しかった問題であることが伺える。

 


      

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