埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十九回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜


新納忠之介は、仏像修理のかたわら、いくつかの仏像模造の制作をしています。
近代仏像模造については、前話【模造編】で、詳しく書かせていただき、新納忠之介の仏像模造についても、紹介させていただきました。

繰り返しになりますが、簡単にふれておきたいと思います。

新納が模造した仏像は、ご覧のとおりです。





   
中尊寺・一字金輪像模造            東博蔵・慈恩大師像模造

    
観世音寺・大黒天模造             法隆寺金堂天蓋・天人像模造


明月院・上杉重房像模造

中尊寺・一字金輪菩薩像は、中尊寺金色堂の修理修復が東京美術学校に委嘱された折に、新納が、修理とは別に模造制作したものです。
おそらく、岡倉天心が、帝国博物館に展示するために、新納に模造制作させたのではないかと思います。

東大寺戒壇堂・広目天像、法隆寺・百済観音像の模造は、それぞれボストン美術館、大英博物館からの依頼を受け、両館での展示用に模造制作したものです。

以上の模造は、いわゆる「真写し」の原像通りの模刻ですが、その他の像は、完全な真写しではなく、新納の創意の表現などが加えられたものになっているようです。


百済観音の模造の話をご紹介します。

百済観音の模造制作については、そのいきさつ制作経緯など、大変興味深いエピソードが遺されています。
少し詳しく振り返ってみたいと思います。

百済観音模刻像は、昭和4年(1929)に来日したローレンス・ビニョンの依頼により、新納が制作したものです。
ビニヨンは、大英博物館の美術部長であり、また高名な詩人でもありました。
2体の模造が、約1年をかけて造られ、1体が大英博物館に、もう1体が東京帝室博物館(現東京国立博物館)に納められました。


    
新納忠之介作・百済観音像模造

新納は、奈良を訪れたビニヨンを、博物館や東大寺、興福寺、法隆寺などに案内しました。
この旅行で、百済観音像に感銘を受けたビニヨンが、その模刻像の制作を新納に依頼したのでした。
ビニヨンが奈良を訪れたのは、晩秋の昭和4年11月のことです。

新柄の回想によれば、ビニヨンは新納が仏像修理の第一人者であることを知らなかったようです。

「(ビニヨンは)
『日本の古彫像のうち百済観音が大いに気に入った。誰か模造品を造ってくれる人はいないものか』
と僕(新納)に相談をしてきた。

まさか僕がやりませうともいへないじやないか。
『誰か通常な人を考えてあげよう』
ぐらゐなところで別れたのだったが、その後手紙が来て

『東京で原田治郎氏(当時、帝室博物館在勤)に相談したら、新納翁を措いて他に適任なしとのことだからぜひお願いする』・・・・・・・・」
(松本楢重「古拙翁懐旧談叢」1949〜50【仏像修理五十年】2013年美術院刊所収)

ということで、新納自身が模刻像をつくることになったという話です。

矢代幸雄
美術史学者・評論家の矢代幸雄氏は、この模造制作に自らかかわったとして、このように語っています。

「されば、ビニヨンは、この百済観音を愛する心に堪えず、彼は日本滞在中、はるばる本国の大英博物館と電報で交渉して経費を支出させ、また法隆寺との交渉は私(矢代)が引き受けて、特別の許可を得、百済観音の実大の模造を奈良の故新納忠之介氏の下に作らせ、ビニヨンはそれをロンドンに送らせた。

私はそんな関係から法隆寺の上の堂で、仏像彫刻に一生を捧げた新納翁の指揮の下に、百済観音の鄭重なる模造が作られるのを、しばしば見に行った。」
(矢代幸雄著「百済観音」【歎美抄】1970年鹿島研究書出版会刊所収)


こうしたいきさつで、翌昭和5年から百済観音の模刻像制作に取り掛かることになりました。

模造も百済観音像と同じクスノキ材で造りたいということで、用材探しを始めますが、十分な大木のクスノキ材がなかなか見つかりませんでした。
困っていると、新納の郷里の島津家が、私有林の樹齢300年はある樟材を提供してくれることになり、同年末の12月、鹿児島現地で樟の發遣式(魂を抜く式)を行ないました。
樟脳の樹液を抜くために二昼夜、風呂で焚きしめたという大木は、最大径で4尺(約120p)以上あったそうです。


百済観音の模刻のため、島津家山林から伐採されたクスノキの大木


翌年の昭和6年(1931)の年初から、あまり気が進まない法隆寺の佐伯管主に頼んで、百済観音像を金堂から大講堂裏の上の堂に運び出し、模造に取り掛かり、翌7年初めには完成したといいいます。
この模刻像二体の制作にあたっては、鷲塚輿三松(1897〜1938戦死)という人物(東京美術学校彫刻科卒)が新納の右腕となり敏腕を振るったとのことです。


ところで、百済観音の模造、大英博物館からの制作依頼であったのにかかわらず、どうして2体も作ったのでしょうか?

この際に、日本にも百済観音の精巧な模像を残しておきたいということもあったのでしょうが、制作費の問題も絡んでいたようです。

新納は、模造費用について、

「外国の博物館では・・・・・・多くは石膏でぞんざいにコッピーされて、学生の写生題材になるくらいなものなので、僕もこの模造の注文を引き受けて700磅(ポンド)を請求しただけだった。」
(松本楢重「古拙翁懐旧談叢」1949〜50【仏像修理五十年】2013年美術院刊所収)

と語っています。

完成した2体の百済観音模造
ところが、この制作費では、到底その費用を賄えず、大赤字になってしまうということで、対応策がたてられたようです。

南日本新聞所載の「郷土人系・新納忠之介」(昭和38年・1963)の記事には、このように書かれています。

「(百済観音像模造のいきさつを記した後・・・・・)
もう1体同じものが、東京博物館にもある。
予想以上に困難な仕事でかなりの赤字を出した。
弟子の小林剛らが見かねて、東京博物館に交渉し、赤字の埋め合わせに彫った仏像が、今日、同館の貴重な遺産となった。」

東博所蔵分を、もう一体発注することにより、何とか制作費用を賄うことが出来たというのが真相のようです。
この記事に名前が登場する小林剛氏は、後に奈良国立文化財研究所長を務めた、著名な仏教美術史学者で、当時は東京帝室博物館勤務(監査官補)であったと思われます。


私も、東京国立博物館蔵となっている百済観音模刻像の方を実際に見たことがありますが、本物と見紛うほどの見事な出来で、その素晴らしさに目を奪われた記憶があります。


実は、2体の百済観音模刻像のほかに、もう1体、「百済観音半身模刻像」が存在したという話があります。
それも、上半身だけしかない模刻像で、新納忠之介が作成したらしいというのです。


かつて、こんな本が、出版されました。

  「百済観音半身像を見た」 野島正興著 (H10)  晃洋書房【234P】1500円
 
完成した2体の百済観音模造
著者は、NHKのアナウンサーですが、「百済観音像の半身模刻像」というものが、世に存在するという話を知り、その現物を追い求めて探り歩き、ついに半身像を発見するというドキュメンタリータッチのルポ的作品です。

あわせて、新納忠之介の偉大な業績、足跡や、百済観音像模造のいきさつなどを丁寧にたどった、興味深く面白い本です。

百済観音の上半身像は、名古屋市昭和区に在る「龍興寺」に在ることが判りました。
お寺では、台座の上に大切にお祀りされています。
台座裏には、「昭和7年11月 新納忠之介謹刻」との朱墨書がありました。



龍興寺に祀られている百済観音半身模刻像

新納は、何故にこんな半身像を制作したのでしょうか?
実は、百済観音の模刻にあたって、新納は法隆寺で本物を前にして、まず半身像を造ったのです。
この半身像を、美術院の作業場に持ち帰って、今度はこの半身像を見本にして、2体の百済観音模造を完成させたということでした。
大英博物館、東博に在るものは、あえて言えば、模刻の模刻ということになるのです。

それでは、そんな貴重な「百済観音上半身像」が、何故、名古屋・龍興寺に在るのでしょうか?

御住職の話によると、なんと骨董屋から、この半身像を求められたとのことです。

「私はねえ、20年ほど前(1975年頃?)に、骨董屋さんでこの観音様をお見かけしたんですよ。
法隆寺の百済観音にそっくりで・・・・・・・・・
その姿が余りにお痛わしくて、うちの寺に安置してさしあげようと思ってお譲りいただいたんです。」
(「百済観音半身像を見た」所収)


この、「百済観音半身模刻像」が、美術院の下を離れたのは、敗戦の年、昭和20年(1945)の秋の頃のようです。
先にもふれましたが、当時美術院は、給料も払えないという経済的苦境に陥り、奈良水門町の事務所を処分して給料支払いに充てるという事態となりました。
この時の財産処分により、この半身像も売却されたということのようです。

この「百済観音半身像」、2004年に鹿児島市立美術館で開催された「没後50年・新納忠之介展」で展示されました。
東博所蔵の「百済観音模刻像」も共に出展され、当時の百済観音の模造に至るのいきさつや、新納の冴えわたった模刻の技を眼前に偲ぶことが出来ました。



新納忠之介作・百済観音半身模刻像


 


       

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