埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十三回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)


大正2年(1913)、岡倉天心が没します。

天心の他界を機に、これまで2部制となっていた日本美術院は、それぞれ独立することとなります。
天心の逝去は、奈良に在る仏像修理部門が独立した途を歩んでいくことになる大きな契機となりました。

第1部は「日本美術院」として独立しました。
「日本美術院」は、「院展」を主催運営する公益財団法人として、現在も広く知られています。

第2部は「美術院」と改称します。

「美術院」は、新納忠之介を総責任者として、多数の技術者を集め、国宝修理を手掛けていきます。
この時、事務所は勧学院から水門町に移されていました。(明治44年移転)
この独立後、奈良・水門町に本拠を置いて事業活動していた時期の美術院時代を、一般に「奈良美術院」と呼称されています。

独立後は、経済的に自立しなければならないということで、仏像など国宝修理とともに正倉院御物や奈良の寺社の工芸品を模造して販売するという事業も進められました。
この時期、美術院は、言ってみれば手広く事業を営んだということになるのでしょう。
それは国宝仏像の修理修復、研究が本旨という側面からは、むしろ危機の状態であったともいわれるようです。


大正12年(1923)、この状況を、大きく変革する出来事が起こります。
関東大震災が起きたのです。
この大災害によって、関東地方の仏像、特に国宝の多い鎌倉地方の仏像をすべて修理しなければいけないことになったのです。
この一大事に対応するため、職員の全て、修理技術者も新作模造技術者も皆、鎌倉へ出張し、3か年の滞在で災害仏像を修理します。


鎌倉の臨時修理工房(旧鶴岡八幡宮憲兵駐屯所バラック)

このことにより、美術院は新作模造を一切中止し、仏像の修理修復に専心していくようになりました。
昭和4年(1929)には国宝保存法が公布され、国宝指定も次第に全国に及んで数を増し、これに伴って修理仏像も全国に広がっていきました。


昭和10年(1935)、新納忠之介は、67歳で美術院総責任者・主事を退任します。
2代目の主事は、明珍恒男が就任し、跡を継ぐことになりました。

  
新納忠之介(昭和10年・67才)            明珍恒男      .

明珍の主事就任直後、美術院の歴史上最大の事業といわれる大修理事業が始まります。
京都・三十三間堂の千躰千手観音像修理事業です。
千体にも及ぶ仏像を全部修理するというわけですから、今後二度とはありえないと云われるほどの長期の大事業となりました。
昭和12年(1937)から33年(1958)まで、実に20年余の長きにわたる大修理事業となりました。






三十三間堂と千体千手観音像




(4)美術院〜戦中戦後の苦境


ご存じのように、この間は日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦後という時期にあたります。

美術院でも、若者はみな戦場に出ているため、老技術者だけが細々と三十三間堂などの国宝修理にたずさわりながら、多くの仏像疎開を手伝っていました。
「戦時中に仏像修理をしているものは、国賊である」
と隣近所の人達から言われていたそうです。

こうした戦時下ではありましたが、いわゆる仏像修理の国家予算がなくなることはありませんでした。
政府の文化財に対する見識が、当時どのようなものであったかは良く判りませんが、特筆されるべきことだと思います。
修理技術者は、戦争は国家の大事であるが「国宝も大切」という気概で、仕事に励んだと云います。

昭和15年(1940)、新納から美術院・主事を引き継いだ明珍恒男が、57歳で急逝します。
新納忠之介は、再び美術院代表の地位に就き、戦時下の三十三間堂仏像修理事業を続けていくことになります。


昭和20年(1945)8月、敗戦を迎えます。

この時が、美術院最大の危機であったと云われます。
敗戦と同時に、国の補助事業がストップしてしまったのです。
経済的苦境に陥った美術院は、2か月分の給料を払えない状況に陥り、ついに奈良水門町の事務所を処分して給料支払いに宛てなければならぬ事態にまで立ち至りました。
77歳になっていた新納忠之介は、美術院を引退します。

細々と、かろうじて続けられていた仏像修理でしたが、昭和22年(1947)以降になると、修理計画が認められるようになり、計画的な仏像修理が再開します。

事務所を処分してしまい、修理拠点がなくなってしまった美術院メンバーは、三十三間堂、奈良、東京の3グループに分かれて、仏像修理活動を進めます。


昭和29年(1958)4月、新納忠之介は、87歳で逝去します。


晩年の新納忠之介(昭和27年・85才)

明治以来の仏像修理の草分け、美術院の歴史の最大の功労者の逝去でしたが、時の美術院は、経済的に苦境に在り、相応しき葬送が叶わなかったとのことです。

後の美術院所長・西村公朝は、当時を振り返って、
「この美術院の最高の功労者に、何一つ報いることもできず、誠に恥ずべき見送りであった。」
と回想しています。

昭和32年(1957)、20年余の長きにわたった三十三間堂千躰仏修理事業がついに完了しました。
戦中戦後を通した大事業が完成したわけです。

ところが、事務所を売り払ってしまった美術院は、帰る家もなく途方に暮れます。
三十三間堂本坊の妙法院の温情により、境内に事務所を置ことが出来ましたが、仮住まい生活を余儀なくされたのです。

この頃から、美術院は、美術院国宝修理所という名称を使用するようになりました。

昭和38年(1963)に、事務所を仮住まいの妙法院から、やっとのことで京都国立博物館校内に移ることが出来ました。



(5)財団法人・美術院の発足から今日まで


昭和43年(1968)、これまで任意団体であった美術院国宝修理所は、文部省所管の「財団法人・美術院」として法人化されました。

この年は、文化庁が新たに設置され、文化財保護委員会の業務が文化庁に移行される時でしたが、この時を以て、美術院は国所管の文化財修理機関として、公的に位置づけられたともいえるのでしょうか。
岡倉天心の日本美術院創設から、ちょうど70年を経た道程でした。


三十三間堂千躰仏修理事業完了(昭和32年・1957)以降の、美術院の主要な仏像修理としては、次のようなものが挙げられるでしょう。

昭和36年(1961)法隆寺中門・塑像金剛力士立像の修理

昭和40年(1965)東寺食堂・千手観音立像の修理

昭和46年(1971)唐招提寺・木心乾漆薬師如来立像の修理

昭和63年(1988)東大寺南大門・金剛力士立像の修理

平成3年(1991)臼杵磨崖仏・古園石仏大日如来坐像の修理

平成5年(1993)薬師寺講堂・銅造薬師三尊像の修理

平成9年(1997)東寺講堂・諸仏像の大修理

平成12年(2000)唐招提寺金堂三尊の大修理(平成21年まで)

平成15年(2003)平等院・本尊阿弥陀如来坐像等の大修理

まだまだ、数多くの国宝、重文仏像が修理されているのですが、美術院の年表から目についたものをピックアップしてみました。

こうした主要な修理仏像をみていると、美術院が仏像を中心とする文化財の修理保存にいかに大きな役割を果たしている存在なのかが、あらためて認識されると思います。

現在は、公益財団法人美術院以外にも、各地の仏像の修理修復に携わる修理工房や機関もいくつもあるようですが、美術院は、国の指定となった仏像または神像、あるいは大型の工芸品を中心とする木造文化財の修理を一貫して行う機関として、今日に至っています。


美術院百年余の歴史の中で、修理修復された仏像は、どのぐらいあるのでしょうか?
余りに膨大な数で、数えきれないのではないかと思われますが、財団法人美術院発足の昭和43年(1968)までに、美術院が手掛けた修理点数推移グラフが残されていますので、ご覧にいれておきたいと思います。


美術院修理件数推移表(明治30年・1897〜昭和43年・1968)
西村公朝執筆「美術院70年の沿革」所収グラフ







明治以降の近代仏像修理の始まりから今日までを、美術院の歴史とともに、振り返ってきました。

昨今のように、文化財の保存、保護の重要性が、当たり前のように認識されている時とは違い、古仏像が文化財であるとか美術品であるという風に考えられていなかった時代から、仏像修理にたゆまず取り組んでいくという道程は、大変困難で険しいものであったろうと思われます。

しかし、そうした頃や戦中戦後の苦境などを乗り越えて、仏像の修理修復が進められてきたからこそ、我々は、現在、美しく素晴らしい仏像の姿を拝することが出来るのでしょう。

「岡倉天心」「美術院」「新納忠之介」

やはり、忘れてはならない3つのキーワードであると、今更ながらに感じました。


次回からは、近代仏像修理の黎明期である、明治大正期の仏像修理に絞って、美術院や新納忠之介の話、主要な仏像修理の話などをみてゆきたいと思います。


 


       

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