埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百五回)
第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
〈その8>明治の仏像模造と修理 【模造編】
(4/9)
【目次】
1.はじめに
2.明治の仏像模造〜模造された名品仏像
3.模造制作のいきさつを振り返る
(1)仏像模造に至るまで
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
(3)仏像模造制作の推進と途絶
(4)その後の模造制作
4.仏像模造に携わった人々
(1)竹内 久一
(2)森川 杜園
(3)山田 鬼斎
5.昭和・戦後の仏像模造
6.仏像模造についてふれた本
(1)模造作品展覧会図録・模造事業の解説論考
(2)仏像模造に携わった人々についての本・論考
(3)仏像模造制作の推進と途絶
さて、天心の提出した仏像模造制作の計画伺いは、着々と実現に向け推進されていきます。
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当時の彫刻科教官
(前列真中・高村光雲、後列右・竹内久一)
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天心は、これらの仏像の模造を、自らが校長職に在る、東京美術学校に制作委嘱します。
天心は、東京美術学校・彫刻科の設置にあたって、日本固有の木彫のみを採用し、その教授陣に、竹内久一、高村光雲、山田鬼斎、石川光明を起用していました。
その教授陣のなかから、竹内久一と山田鬼斎が、仏像の模造制作の任にあたっています。
天心の模造制作の企図には、
先にふれた、
「美術の沿革を示す、模範的傑作を展示し、日本美術の啓蒙、教育をはかる。」
という目的に併せて、
「名品仏像の模造制作を通じて、美術学校の教授陣の技術、技量を向上させる。」
という狙いもあったようです。
古典に学び、古典に還るとでもいうのでしょうか。
天心は、明治19〜20年に、美術教育視察に、フェノロサと共に、欧米諸国を巡ります。
この時、ローマ彫刻が、ギリシャの古典彫刻の模刻から学んでいることを目の当たりにしたことが、古典に学ぶ仏像模造を企図した一因になったのではないかとも言われています。
いよいよ、仏像の模造制作が始まります。
模造制作は、天心が校長である東京美術学校が、引き受けることとなります。
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竹内久一
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天心が「計画伺い」を提出した明治23年(1890)から、早速、取り掛かることになりましたが、
「とても一時には、出来かねる。」
ということで、
第一年目、明治24年(1891)には、東大寺法華堂の執金剛神像・月光菩薩像、興福寺の無着像の三体を制作しました。
この三体の制作委嘱代金は、各一体500円であったそうです。
模造の制作にあたったのは、三体とも竹内久一です。
竹内は、この模造のために美術学校の講義はほとんど高村光雲、石川光明の二人に任せ、模造に専念したということで、大変な気の入れ方が伺えます。
明治24年に竹内久一が制作した模造3体
高村光雲もこの事業の主任となっていたのですが、光雲が模造制作をしていないのは、ちょうどこの年、皇居前に現在も在る「楠正成像」の銅像制作の方にあたっていたからだと思われます。
楠正成像は、明治24年(1891)4月に制作に着手し、26年(1893)に、木造原型が完成しています。
銅像・楠正成像 高村光雲
これに引き続き、明治25年(1892)には、東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像、法隆寺・九面観音像の模造が行われました。
委託製作費は、広目天像が600円、維摩居士像が720円、九面観音像が350円でした。
この3体とも竹内久一に制作委嘱されたようですが、うち2体は竹内が自ら制作、九面観音像は、竹内からの依頼で森川杜園が制作しました。
明治24年に竹内久一が制作した模造2体
森川杜園は、東京美術学校の人ではありません。
奈良在住で「真写し」の名人、奈良彫りの名手、との定評があった人物です。
竹内久一とも親交があった縁で、竹内が制作を依頼したということのようです。
森川杜園と法隆寺・九面観音像模造
竹内久一の仏像模造制作は、明治25年が最後になります。
翌明治26年には、東京美術学校の美術教師であった山田鬼斎が模造制作を担当しています。
山田は、明治26年に、薬師寺・聖観音立像と興福寺・世親像の模造を制作しました。
製作費は、聖観音像が764円、世親像が550円でした。
東院堂・聖観音模造完成記念撮影写真(最前列右が山田鬼斎)
明治26年に山田鬼斎が制作した模造2体
以上のとおり、明治24年から26年の3年間で、8体の仏像模造が制作されました。
これらの像は、当初の目的通り、東京帝国博物館の3号館に、陳列展示されました。
明治30年ごろの、模造仏像の展示風景の写真が残されていますので、ご覧ください。
東京帝国博物館3号館に展示された仏像模造(明治30年頃)
この写真を見ると、当時、東京帝国博物館での仏像展示は、「メイン展示」というか、「館の主役」の地位を占めていたように思ってしまいますが、実はそうでもないようです。
当時の帝国博物館・1号館正面
当時の帝国博物館の展示品は、今の東京国立博物館の展示品とは大きく中身が違っていました。
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帝国博物館での動物剥製(キリン)展示風景
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動物、鉱物、天産品などの展示と、古美術品、文化財などの展示が混在、一体となっていました。
今でいうと、自然科学博物館と産業博物館と美術博物館の三者合体のようなものであったようです。
正面1号館のメイン建物の1階の陳列は、動物、鉱物、化石、風俗などといったものになっています。
彫刻や絵画が展示された3号館は、1号館の脇に建てられた小さな建物でした。
陳列できる美術品が貧弱であったことにもよるのでしょうが、「日本美術の展観」には、その程度のスペース、ウエイトしか、割かれていなかったということなのだと思います。
帝国博物館建物位置図 (彫刻絵画などの日本美術は3号館に展示) 仏像模造は、3号館の一階に展示されていた
こうした状況下、博物館美術部長である岡倉天心主導で推進されていた、仏像模造事業ですが、明治26年までに8体の制作を終えたところで、バッタリと途絶えてしまいます。
そもそも計画では、50体の模造制作を実現するはずであった筈です。
このまま事業が継続されていたら、誠に壮観な、仏像模造群が完成したはずで、残念な気もします。
どうして突然、模造制作が途絶えてしまったのでしょうか?
佐藤昭夫氏は、その事由についてこのように論じています。
「模造事業の中心となった久一が、このように他の仕事(福岡市に建設する日蓮の巨像の制作)を始めたために模造事業のほうも中断した形になってしまい、加えて明治31年になると天心が美術学校を追われ、同時に博物館の美術部長をも辞任した結果、あの壮大な模造計画も頓座してしまったのはまことに惜しいことであった。」
(明治中期における博物館の彫刻模造事業について・ミューゼアム277号)
岡倉天心が美術学校を追われたという話は、ご存じのとおりよく知られている話です。
明治31年(1898)に、天心を誹謗中傷するスキャンダルを書き連ねた怪文書が配布され、結果として天心は、東京美術学校校長非職を命ぜられます。
帝国博物館の美術部長も辞職します。
天心直下の東京美術学校教授陣が、大挙して天心と共に連袂辞職することとなる大事件でした。
美術学校を辞任した天心は、天心の後を追って美術学校を辞職した同志たちと共に、「日本美術院」を組織するのです。
橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草など近代日本美術史上に輝かしい名を遺した人たちが、天心に従って日本美術院を結成したのは、あまりにも有名な話です。
佐藤氏は、仏像模造事業を牽引していた竹内久一が、新たな大型制作に為に多忙ととなり、模造に体力を避けなくなってしまって、明治27年以降模造制作が中断していた。
そうこうするうちに明治31年に、計画主導者である岡倉天心が失脚してしまったため、模造事業が頓挫してしまったと述べています。
50体の模造制作計画であった事業が、途絶、頓挫してしまった理由は、それだけだったのでしょうか?
実は、並行して進められていた、古画、仏画の模写事業は、仏像模造制作が中断した明治27年も、継続して進められているのです。
浅見龍介氏は、このような推測を述べています。
「ところが彫刻の模造は、当初の計画通り進まず、明治26年に山田鬼斎が聖観音像と世親像を収めて以降は、何故か途絶えてしまう。
絵画はそれ以降も続いているので、理由がわからない。
佐藤(昭夫)氏は、竹内久一が別の仕事にかかりきりになったことが理由ではないかと推測されている。
私はまた別の理由があるように思う。
というのは、彫刻の模造が絵画の模写に比べて圧倒的に費用がかさむからである。
展示室も埋まったならば、少し遠慮しろと、天産部や歴史部から抗議の声が上がったのかもしれない、と思うのはあまりに現代にひきつけて考えすぎだろうか。」
(「明治30年ごろの模造彫刻の展示」模写・摸造と日本美術展図録所収2005年)
たしかに、彫刻の模造費用は、模写に比べて大変高価であったようです。
ここでは、同時並行して行われていた模写の話までは、ふれないようにしようと思っていますが、多くの仏画、古画が模写され、帝国博物館が買い上げています。
模写の購入価額ですが、明治29年の帝国博物館購入リストから目につくものをピックアップしてみると、
菱田春草模写の無量寿院・文殊菩薩像は40円、
横山大観模写の知恩院・阿弥陀三尊像は39円、
小堀鞆音模写の観智院・十一面観音像は26円、北野神社・北野縁起は26円50銭、
になっています。
仏像模造の製作費は、先に記したように、一体500円〜700円ぐらいですから、桁が違うという感じです。
仏画・古画の模写購入は、継続していますので、仏像模造に要する制作費が多額であるという問題が、大きかったのかもしれません。
当時の帝国博物館は、自然科学博物館と産業博物館と美術博物館の三者合体のような博物館で、メインスペースは天産、歴史といった分野の展示となっていました。
美術部は、岡倉天心が美術部長ではありましたが、天産部や歴史部との力関係も働いていたでしょうし、そうは大きな顔ができなかったのかもしれません。
とりあえず8体の模造が完成し陳列されたところで、金喰い虫の仏像模造制作は、継続困難になったというのは、納得的な話のような気がします。
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