埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

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【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




(2)奈良ホテルを訪れた賓客


奈良ホテルは、明治42年(1907)の開業以来、奈良の迎賓館ホテルとしての格式を誇ってきました。

いわゆる賓客の奈良滞在は、「奈良ホテル」です。

戦後は、皇室の方々の奈良滞在の時は、必ず「奈良ホテル」となっているようです。
昭和天皇・皇后両陛下も滞在されていますし、今上天皇・皇后両陛下、秋篠宮・同妃両殿下、皇太子・同妃両殿下は、畝傍御陵へのご成婚報告ご成婚ご奉告の際、奈良ホテルに滞在されています。

奈良テルの廊下の壁面には、皇室の方々が奈良ホテルに滞在された折の写真が、沢山飾ってあります。



奈良ホテル廊下に飾られている皇室の方々滞在時の写真



また、時の首相をはじめ政府の要人なども、奈良滞在の折は「奈良ホテル」ということのようですので、ここでいちいち名前を挙げてもきりがありませんので、やめておきます。


外国人の賓客の奈良ホテル滞在についてご紹介しておきます。

奈良ホテルのHPに、奈良ホテルの年表があり、そこに主な外国人賓客も掲載されていましたので、ピックアップして一表にしてみました。




ご覧のようなとおりで、これまた奈良ホテルが外国要人迎賓館であったことが判ります。
話しのネタに、ちょっと御紹介してみました。


奈良ホテルでピアノを弾くアインシュタイン
奈良ホテルのロビーには、こうした外人賓客を偲ぶモニュメントとも云えるものが、二つ残されています。

ひとつは、大正11年(1922)に奈良ホテルに滞在した時、アインシュタインが弾いたアップライトピアノです。

このピアノは、終戦後、奈良ホテルが連合軍に接収された時に、ホテルから避難させ長らく大阪の倉庫に眠っていたものを、2009年に奈良ホテルへ里帰りさせたものです。

アインシュタインが当時演奏していた写真と共に、ロビー・桜の間に据えられています。




ロビー桜の間に据えられたアインシュタインが演奏したピアノ



ラウレル元大統領の胸像(ロビー桜の間)
もうひとつは、太平洋戦争下、フィリピン共和国の大統領であった、ホセ・ラウレル大統領の肖像です。

ラウレルは、日本の敗戦が濃厚になった昭和20年(1945)3月に日本へ脱出し、奈良ホテルで亡命生活を送りました。
ラウレルは、その年9月には連合軍に戦犯容疑で連行されるまで、ラウレル一行は奈良ホテルに滞在します。
昭和44年(1969) ラウレル元大統領の一家が奈良ホテルに訪れ、亡命生活時の感謝の胸像を造ってホテルに設置しました。
この胸像も、ロビー・桜の間に今も置かれています。



(3)奈良ホテルの歴史をたどる


奈良ホテルは、明治42年(1907)に開業しました。

その時に建てられた桃山御殿風の建物は、今も変わらずに在り、クラシックホテル「奈良ホテル」の看板になっています。

現在は、JR西日本と都ホテルの折半の出資による「株式会社奈良ホテル」の経営となっています。
奈良ホテルは、開業以来107年を迎えますが、現在の経営形態になるまでには、さまざまな変遷がありました。

ここで、開業から今日に至る奈良ホテルの変遷について、振り返ってみたいと思います。

経営の変遷を5つの時代に区切り、そのポイントを一覧にすると、次のようになります。







【開業から大日本ホテル時代】


奈良ホテルは、明治42年(1909)10月17日に開業しますが、まずは、開業に至る道程をたどってみたいと思います。

奈良ホテル建設は、日露戦争の戦勝が契機となったと云えるものです。
日露戦争戦勝後、日本を訪れる外国人が急増しました。
政府は、その受け入れ体制づくりのため、外国人宿泊設備建設に、必要は保護特典を与える旨の発表をします。

西村仁兵衛
これを受けて、古都奈良では、明治39年(1906)、奈良市と関西鉄道(株)と西村仁兵衛の三者協働して、ホテル建設を行うこととなりました。

西村仁兵衛とは、都ホテルの創設者として知られる人です。

ところが、同じ年(明治39年)に鉄道国有化法が成立し、関西鉄道(株)が国有化されることが決まると、ホテル建設問題は一時凍結したようになってしまいました。
奈良市に変わって、奈良県が敷地斡旋を引き受け、大仏参道の東側の土地を提示しますが、この土地は、眺望も悪く好立地とは言えないものでした。

ホテル建設に意欲を燃やす西村は、立地の良い高畑町飛鳥山の土地を坪1円で買収します。
この土地が、現在の奈良ホテルの地で、もともとは興福寺の旧大乗院の御殿山であったところになります。
西村は、大日本ホテル(株)の名義で、土地は手当てしましたが、資金難からホテル建設に着手するには至りませんでした。

西村の購入したこの土地を、鉄道国有化法施行(明治40年10月1日)の直前(4日前)に、関西鉄道が買い取ります。
実質的に国有(鉄道院)としたのです。
当時の鉄道院総裁であった後藤新平の指示によるものではないかと云われています。

以来、奈良ホテルの土地建物は、鉄道院〜鉄道省〜国鉄〜JR西日本の持ち物として受け継がれていくことになりました。


そしてホテルの建設が始まります。

ホテルは、鉄道院が建設することになりますが、総費用は35万円かかっており、金に糸目は付けない豪華建築と云って良いものとなりました。
鉄道院の、外国人賓客用ホテル建設への、強い意気込みが伺えます。

設計は、日銀本店、東京駅などの設計で名高い辰野金吾と、大阪市庁舎や大阪中央公会堂などを設計した片岡安によってなされました。
当時の日本を代表する設計家です。

 

辰野金吾                  片岡安


建物は、日本の伝統建築をベースにした、御殿風総桧造りとされ、屋根には鴟尾を置き、桃山風の意匠も随所に取り入れたものとなりました。

こうした和風建築を意識したものになったのは、明治27年に建設された奈良帝室博物館が、レンガ造りの洋風で、「奈良の景観にそぐわない」と県民から不評を買ったことによるものだそうです。

県議会では、
「建物新築に際しては、古建築との調和を保持すべし」
という決議がされたりしています。



建築工事中の奈良ホテル全景



新大和新聞に掲載された
奈良ホテル開業広告

そして、明治42年(1909)10月17日、ついに奈良ホテルは開業に至ります。

竣工した奈良ホテルの経営は、西村の大日本ホテル(株)が担うことになりました。


創業間もないころのレジスターブック(宿帳)が残されていますが、それを見ると外国人客が9割以上です。
外国人向けの迎賓館ホテルとしてスタートしたことがよく判ります。

日本人客は1割にも満たないのですが、皆、英文字で署名しており、当時のホテルの雰囲気を感じさせます。




創業時のレジスターブック


宿泊客は、1日4〜5人しかなかったようです。
従業員は50〜60人抱えたいたそうですので、一人の接客のために10人以上を擁していたことになります。
当然に、営業面は順風と云えるものではなく、厳しいものとなりました。

西村は鉄道院に窮状を訴え、補助金を申請します。
結局、この申請は受け入れられることはなく、鉄道院自身が、奈良ホテルの経営に乗り出すことで決着します。
大正4年(1915)、5月のことです。

西村の大日本ホテル(株)が、奈良ホテルを経営したのは、約3年半だけということになりました。



開業初期の玄関ロビー風景



 


       

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