埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十一回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

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【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




【日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん】


きよのさんは、明治43年(1910)3月3日、桃の節句に奈良県磯城郡河西村で生まれました。

河西村というのは、法隆寺の南東4キロほど、唐古遺跡のあるあたりです。
農家の娘で、19歳の時に田村家の息子・寅造さんとお見合いしました。
当時のことですから、有無を言わさず嫁に行ったというわけです。

寅造さんは26歳、昭和5年1月に氷室神社で結婚式を挙げ、日吉館の人になったのでした。

当時を知る、宮川寅雄氏は、お嫁に来たばかりのきよのさんのことを、このように語っています。

「今の主人、田村きよのさんがお嫁に来られたのは、確か昭和5年ころですから、日吉館の客としては会津先生がずっと先輩だったわけです。
私も覚えていますが、きよのさんはまだ頬っぺたの赤いかわいいお嫁さんでした。」
(「奈良の会津八一」真珠の小箱B・角川書店S55刊所収)

この話を聞くと、

「あれ? 日吉館のオバサンは、吉野の山奥、十津川から奈良に女中奉公に来て、その働きぶりをみそめられて、日吉館の嫁になったのじゃなかったっけ?」

と、云う方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。

私も、そのように思い込んでいました。
日吉館のことをよく知り、オバサンと親しくしている人でも、そう信じている人がいると云います。


NHKグラフ「あおによし特集」表紙・音無美紀子
きよのさんが、「十津川の出身で、奈良に奉公に来た」と思いこまれてしまったのは、NHKのテレビドラマ「あおによし」のせいです。

このTVドラマは、昭和47年、月曜夜8時からの連続ドラマで、1年余にわたって放映されました。
音無美紀子さんがヒロインを演じ、一風変わった奈良の旅館の女主人として、明るく懸命に生き抜く半生を描いた物語でした。
当時、高視聴率の人気番組で、私も見ていた記憶が残っています。

このストーリー創りのモデルになったのが、日吉館であり、田村きよのさんだったのです。
日吉館を知る人は、「日吉館とオバサンのものがたり」として、TVドラマを見ていたのではないかと思います。

番組は、日吉館の話を下敷きにしながらも、創作のストーリーとして、人情味あふれる人生ドラマに仕立て上げられたものでした。



ドラマ「あおによし」の一場面



当時、日吉館のオバサンは、NHKの看板ドラマのモデルに採り上げられるほどに、奈良の名物女将になっていたことは、間違いありません。

きよのさんは、この話になると、いつも、

「信じないでくださいまし」

と言いながらも、

「ハッ、ハッ、ハッ、玉の輿かいな。
山猿の娘が花の都へ・・・・・。
話しとしてはその方が面白いものナ」

と笑い飛ばしていたそうです。


さて、磯城郡の農家からお嫁に来たきよのさん、間もないうちに、日吉館の屋台骨を支えることになります。

嫁に来て3年もたたぬ昭和8年(1933)、日吉館初代のツネオさん、松太郎さんが半年ほどの間に、次々と病に倒れ亡くなったのでした。
きよのさんは、まだ2歳にも満たぬ長男を抱え、23歳の若さで、女将として日吉館を切り回さざるを得なくなったのです。
御主人の寅造さんは、後にふれますが、旅館業にはまったくノータッチでしたので、3年のキャリアしかないきよのさんが、会津八一の揮毫の「日吉館」の看板を背中に、たった一人で屋台骨を背負っていくことになったのです。


きよのさんは、本当に小柄でした。
その小さな体を身を粉にして働き、日吉館を支えていったのです。

田村きよのさん
「学者、文化人中心の宿」としての路線をひいたのは先代の頃のことでしたが、そうした独特の個性を放つ日吉館として、「奈良の名物旅館」に大きく育て上げていったのは、きよのさん、その人でありました。

「奈良の美術と文化を愛し研究する人たちが、気持ちよく学究に取組み、ゆっくりと奈良を探訪できる宿を、儲けは度外視して、誠心誠意提供する。」

きっと、きよのさんは、そんなポリシーを徹底的に貫いて、努めてきたのだろうと思います。

宿賃は驚くほど安く、食事は豪勢で、泊り客の方が逆に心配してしまうほど。
また、研究者やそれをめざす学徒が、存分に打ち込めるよう、議論ができるよう、精いっぱいの心配りをする。

きよのさんのそんな姿勢が、数多くの日吉館ファンを創り出していったのだと思います。

そして、
「日吉館が、お客様を愛する」
というよりむしろ、
「泊り客の方が、日吉館ときよのさんを愛し支える」
といった特別な旅館になっていったのでした。


きよのさんを可愛がった會津八一ばかりではなく、数多くの学者や文化人がきよのさんのファンとなり、日吉館は「奈良の文化サロン」のようになっていきました。
きよのさんは、こんなふうに語っています。

「足立先生(足立康)や会津先生がお泊りになると、人が50人も訪ねてきましたな。
電話はひっきりなしにかかるし、えらいことでしたわ。
一度、お客にみえる方に出した茶碗の数を勘定したことがあるんです。」

日吉館サロンへの人の出入りは、こんなふうであったようです。

日吉館ファンになった人びとの話については、後で改めてふれたいと思います。


一方、学徒、若者にとっては、優しさもあり厳しさもありという、母のような存在であったようです。

戦時中には、日吉館を愛していた学徒が徴兵となり、特攻隊の訓練を受けるため奈良の連隊、で教育されていた時、

「毎朝6時ごろ、日吉館の前を通ります。
おばさんに一目会いたいと思いますが、いつも戸が閉まっていて会えません・・・・」

という手紙が来て、あわてて面会に行ったら、南方前線基地に出発する前日で、その後フィリピン沖に突入した、という哀しい話もありました。

学生たちは、朝、日吉館で寝坊してぐずぐずしていると、きよのさんに

「坊や、あんた奈良を見に来たんでしょ!
はよう起きて出かけなさい。」

と、叱られたと云います。
朝の9時には、皆出かけて、日吉館はいつもガランとしていました。


こんな、日吉館の歴史の流れを振り返ると、昭和30年代ごろまでは、学者や文士、文化人の常宿であり、それをめざす学徒たちの宿であったようです。

40年代に入ると、時代の流れのなか、大学の古美術研究会や、美術史の研究室の学生たちが団体で泊るのがメインというふうに変わっていったようです。
奈良美術を愛好する学生、研究を志す学生たちが賑やかに同宿する宿となっていきました。
4畳半に4〜5人がごろ寝が普通で、いつも学生たちで混み合っているようになっていきました。
昔なじみの学者先生や文化人などは、自分一人で一部屋を占領するのは遠慮するようになり、きよのさんに会いに来て話し込んでも、泊まりは別の宿というようになっていったようです。

私が日吉館に泊った、昭和40年代は、ちょうどそんな頃であったのだと思います。

そして、学生たちにとっては、

奈良美術同好の学生たちが集う宿。
ガタビシで隙間風も吹きごろ寝だが、格安宿賃で、美味いすき焼きが毎日食べられる宿。
夜には、宿帳などを観ながら、きよのさんから日吉館を愛した学者や文化人に話を聞ける宿。

として、愛され続けた宿になっていったのでした。

そんな日吉館でしたので、いわゆる一見、飛び込みの客はとらず、紹介なしには泊れませんでした。

田村きよのさん

世間では、きよのさんのことを、

「おせっかいで、善意や誠意を押し付けすぎる。」

という、批判の声もあったようです。

しかし、それが奈良の名物旅館「日吉館」らしさであり、きよのさんらしさであったのではないかと思います。

日吉館が、これだけ長きに亘り、愛される旅館になったのは
きよのさんの、

「人間性、誠実さ、一本筋の通った営業姿勢」

など、その人に負うものであったのだと思います。

きよのさんなしには、日吉館は語れないし、このような名物旅館にはならなかったと、間違いなく言えるのだと思います。



長々と、日吉館のオバサン・田村きよのさんのことを書いてきましたが、そろそろ夫・寅造さんについて、ふれたいと思います。


寅造さんは、きよのさんより7歳年長、明治36年(1903)生まれで、きよのさんと見合い結婚した時は、26歳でした。

寅造さんは、日吉館の経営は、きよのさんにまかせっきりでノータッチ。
日吉館にいても、まるでよその家にいる様な顔をしていたそうです。
随分大酒のみで、飲み過ぎてへたり込んでいる処を、奈良公園巡回の警官に発見されて、連れて帰ってもらうこともしばしばでした。
きよのさんが心配で迎えに出てみると、
県庁前に寅造さんのオーバーが落ちているので、腹立ちまぎれに蹴っ飛ばしたら、中身が「痛い!」というので、中身ごとオーバーを持って帰った。
そんな笑い話も残されているほどです。



田村寅造さん



こう書いていくと、寅造さんは、どうしようもないぐうたら亭主というふうに思えます。
先にご紹介したTVドラマ「あおによし」でも、寅造さんは、「酒を飲んだくれた、ぶらぶらダメ人間」に仕立て上げられています。

ところが、寅造さんは、奈良の帝室博物館(後の国立博物館)に勤めていて、

「美術品の梱包では、日本一」

との評判が高い人でした。

きよのさんにとっても、寅造さんの酒では結構苦労させられたが、その寅造さんの腕で、奈良の仏たちがどれほど救われたのかも知っており、頼もしく思える。
そんな、御主人であったようです。

寅造さんは、他の追随を許さぬ仏像梱包の腕の持ち主でしたが、そのことについて、

「戦時中や戦後の仏さんの疎開の仕事ばかりやらされてたんやから、仏さんの荷造りぐらいは一人前にならんとどうしますねん。
荷造り上手なんはあたりまえや。」


仏像の梱包をする田村寅造さん
また、展覧会出展の際の仏像梱包についても、

「東京の三越がはじめでした。
三越はよく展覧会をやりましたなア、薬師寺、春日大社、興福寺・・・・高島屋でも東大寺展や法隆寺展をやった・・・・。
・・・・・・
奈良のものだけでなく、日本で開く仏像展なら、殆どわしがやっていますよ。」

こう語っていたようです。

「第28話・仏像の戦争疎開とウォーナー伝説」では、奈良の仏像疎開の有様について詳しく記しましたが、疎開した仏像たちは、その多くが寅造さんのお世話になったのかもしれません。


寅造さんは、昭和49年(1974)1月、71歳で亡くなりました。

生前、寅造さんは、昭和27年、日本橋三越で開催された「春日・興福寺展」の時、あの有名な阿修羅像の輸送用梱包をやり遂げた思い出を、何度も語っていたと云います。
壊れやすい脱活乾漆造りで、クモのように細く長い6本の手を備えた阿修羅像を、一片の剥落も起こさぬよう荷造り梱包するというのは、並大抵のことではないのですが、これを見事にやり遂げたのです。
好物の酒をしばらく断って、万全の梱包に打ち込んだと云います。

人生最大の快事であったのかもしれません。


 


       

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