埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百八十六回)

   第二十九話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その6>奈良の仏像盗難ものがたり

(8/10)


【目次】


はじめに

1. 各地の主な仏像盗難事件

2. 奈良の仏像盗難事件あれこれ

(1) 法隆寺の仏像盗難

・パリで発見された金堂阿弥陀三尊の脇侍金銅仏
・法隆寺の仏像盗難事件をたどって
・法隆寺の仏像盗難についての本

(2) 新薬師寺・香薬師如来像の盗難

・失われた香薬師像を偲んで
・香薬師像盗難事件を振り返る
・その後の香薬師像あれこれ

(3) 東大寺・三月堂の宝冠化仏の盗難事件

・宝冠化仏盗難事件の発生
・宝冠化仏の発見・回収と犯人逮捕
・三月堂宝冠化仏盗難事件についての本

(4) 正倉院宝物の盗難事件

・正倉院の宝物盗難事件について書かれた本

(5) その他の奈良の仏像・文化財盗難事件をたどって



【宝冠化仏の発見・回収と犯人逮捕】


宝冠が外されていた頃の不空羂索観音像
(佐保山堯海氏撮影)

大事件であった、三月堂不空羂索観音・宝冠化仏盗難事件も、迷宮入り状態になって6年余、人々の記憶も薄れてしまっていた。
まもなく、事件発生から7年が経過し、「時効」を迎えてしまうという時期にさしかかっていた。

そんな折の昭和18年(1943)3月、新薬師寺の香薬師像が盗み取られる事件が勃発する。

これまた、第一級の国宝の盗難事件の発生であった。
奈良県警には、再び捜査本部が置かれることになる。
三月堂の宝冠化仏盗難事件の7年の時効が近付いている時でもあり、両盗難事件を併合捜査することになり、大捜査陣が敷かれた。


昭和12年の宝冠盗難事件以来、宝物盗難捜査に携わっていた丸山警部は、捜査情報入手の一環として、大物古美術愛好家である田万清臣氏に情報提供等の協力を依頼する。

田万清臣氏
田万清臣氏は、社会大衆党の代議士であり弁護士として活躍している人物であったが、それにもまして仏教美術を中心とした古美術コレクターとしてその名を知られる人物であった。

田万氏の収集品は、田万氏の没後、昭和55年に615点が大阪市立美術館に寄贈され、「田万コレクション」と名付けられて、収蔵されている。

大阪市立美術館では、「田万コレクション名品展」と題する特別展も開催され、図録も刊行された。


小川晴暘は、香薬師像が盗難に遭った昭和18年(1943)の8月、田万清臣氏と奈良県警を訪れ、

捜査参考品として取り置かれていた、香薬師像の残された手首や、三月堂宝冠の瓔珞の一房を実見したこと、

丸山警部から田万氏に、「万一、何らかの情報があったら教えてほしい」との依頼があったこと、

を、思い出に語っている。

丸山警部のこの思惑は、見事に的中する。

このことがあって間もなく、田万氏と同じく泉大津の近くに住まいする老人Aが田万家を訪れ、練玉二個、水晶切子玉一個の三点を持参し、その売却を依頼したのだった。

田万氏はこれを見るなり、

「これは宝冠の仏像の蓮座の一部分に相違ない」

と直感した。

田万氏は、早速、親交のあった東大寺の清水公俊管長に、このことを連絡。
管長は、奈良警察に通報して、捜査が始まる。
とはいっても、強制捜査に入れば、肝心の盗難宝冠化仏やその付属品が姿を消してしまうリスクがあまりにも高い。

田万氏を訪ねた老人Aは、古稀の齢に近く、彼が三月堂現場の犯人とはおもわれない。
騒ぎたてれば、真犯人と宝物が姿を消す結果となるのは、眼にみえていると考えられたのだった。
そこで功をあせってはならじと、田万氏ほか関係者の大変な苦心が始まる。

老人Aは、田万氏が著名な代議士で法律家であることから、全面的に信用している様子であった。

田万氏は老人Aに、

「この年の10月15日は聖武天皇大仏発願の1200年に当たり、寺でも記念の大法要が予定されている。
寺側としては、是が非でもこの時までに三月堂宝冠を旧に復したいと切望しているので、金一封の御礼で、宝冠化仏を東大寺に戻すよう」

と、説得に努めた。

この説得に、老人も、60万円程度の対価で、東大寺に戻すことに同意した。

昭和18年9月14日、老人Aは、田万氏宅に宝冠化仏を持参した。
東大寺清水管長が同席して化仏を確認したが、化仏を専門家に鑑定をさせるからという理由で田万氏が預かることに成功した。
隣室には、警察官が息を殺して潜んでいたという。

化仏は回収出来たものの、まだ附属する玉類などは還って来ていない。
そこで、盗難化仏に付属する練玉、勾玉を持参することと引き換えに、老人Aに金一封を渡すということで、話しがまとまる。
金一封は、翌9月15日正午ごろ、富雄の料亭「百楽荘」で、手渡すこととなった。

9月15日、東大寺執事の筒井英俊氏は、老人Aを大軌電車(現在の近鉄電車)の上六駅に迎えに行き、一緒に電車に乗った。

尾行についていた刑事は、生駒トンネルに入る前に、
「闇米の取調とか、中国からの金銀の密輸入とかいう事由」
で、所持品の一斉捜査をはじめ、老人Aの所持品を問い詰めた処、何も答えられなかったので、Aは警察に連行された。

ところが、所持品を調べた処、老人Aのカバンの中には盗難宝物は何も入っていない。
警察が老人Aを追求した処、この夜に至り、盗難品は自宅押入れ内のみかん箱に収納してあると自供したのであった。
家宅捜査の結果、光背、理路、玉類などの付属品が全て発見され、盗難宝物を回収することに成功したのであった。
この時の押収の際には、「瓔珞二房、練玉、切子玉等若干」が、未だ不足していたが、この不足品は、本事件の主犯Bの京都の家から発見され、すべての盗難宝物の回収に至った。


老人Aの自白によれば、
盗難宝冠化仏を田万氏の所に持ち込み、東大寺に返還しても良いと考えたきっかけは、老人の妻が、宝冠仏の隠しである押し入れの前で、「しんどいしんどい」と、言いながら横になり、そのまま死んでしまったという変事がおこったことであったらしい。
仏罰が恐ろしくなり、盗難品を元の東大寺へ返そうとの気持ちになったということであった。



無事戻った宝冠化仏・光背と共に記念撮影の田万氏夫妻・清水管長、筒井執事長



さて、この盗難事件の真相は、次のようなものであることが判明した。

主犯はBという男で、甥のCと共に犯行に及んだ。

昭和12年2月12日、BとCは、午後11時ごろ三月堂に着き、正面南礼堂の階段下の格子を切り取り、内陣の寺役府下の格子二本をはずし、手向山八幡宮から10尺の木製梯子を盗んで内陣に侵入した。

本尊の合掌する右腕に梯子をかけ、右側に昇って窃取に成功し、13日午前5時頃風呂敷に包み、大阪に戻って第一ホテルに投宿した。
少し休んでから、Bは、かねて懇意の骨董商Dを呼び出し、盗品の処分を依頼したということであった。

骨董商Dは、その翌日の2月14日、親交のあった老人Aに、東大寺三月堂の盗品であることを打ち明け、これを捌いてほしいと依頼する。
老人Aは、ひと儲けしようと考えて、買い取る条件でこの盗難宝物を預かったのであった。


この三月堂・不空羂索観音宝冠化仏の発見が、新聞報道されたのは、事件解決後20日余を過ぎた、10月8日であった。

朝日新聞(東京版)は、太平洋戦争の真只中で戦争関連記事であふれる中、わざわざ三段抜きのスペースを割いて、国宝発見を報じた。

「盗難の東大寺国宝 6年半ぶりに発見 竊取犯人一味捕はる」

との見出しで、このように報じている。



宝冠化仏発見を報じる新聞記事(昭和18.10.8付・朝日新聞東京版)



「天平時代の代表的秀作で、国宝の東大寺三月堂本尊不空羂索観音像の宝冠の一部と宝冠中に安置された阿弥陀仏立像がさる昭和12年2月盗難にかかり、以来奈良警察署ではたゆみなき捜査陣を張っていたが、この苦心が酬いられまる6箇年半ぶりで犯人と共に発見。

犯人はこの程奈良地方裁判所検事局へ送局、盗まれた阿弥陀仏その他は同寺建立1200年記念日の10月15日を前に近く同寺に帰ることになった。
盗難にかかった国宝が帰ってきたことは、これが全国最初のことで犯行の全貌判明と共に記事解禁された。」

犯人が検事局に送致されたことをもって、報道解禁になったのであった。



宝冠化仏発見を詳しく報じる朝日新聞奈良版(昭和18.10.8付)



この犯罪の犯人・関係者は、その後、次のように処罰された。

主犯のBは、事件が解決した時、すでに死亡していた。
Bは、三月堂宝冠窃盗の犯行後、別件で逮捕され刑務所に服役中、病気が悪化し仮出獄後に死亡していたのだ。

共犯のCは、西部第七部隊(広島)に入隊中であったが、軍法会議にかけられ懲役刑に処せられた。

骨董商Dと老人Aについては、それぞれ懲役4年・罰金500円、懲役2年・罰金300円の判決が言い渡された。


無事に東大寺に戻った盗難宝冠化仏等は、戦争中はそのまま保管され、終戦後に次のように取り扱われた。

宝冠返還後修理に立ち会う田万氏
昭和22年(1947)6月、事件解決4年後、宝冠は東京国立博物館に修理のため寄託された。

東京美術学校(現在の東京芸術大学)の小場恒吉教授により実測が行われた後、雲野教授が監督となり、山脇洋二、後藤年産助教授、若林助手によって、国立博物館内に作られた修理室で修理が行われ、昭和24年(1949)7月頃完成している。


東大寺へは昭和25年10月26日に戻され、本坊内宝庫(国宝校倉)に保存された。
宝冠は、昭和27年8月2日から24日まで、東京日本橋高島屋で行われた「大仏開眼千二百年記念東大寺名宝展」に出陳された。

その後、法華堂本尊・不空羂索観音の頭上に15年ぶりに、ようやく戻されたのであった。



不空羂索観音像・宝冠





宝冠をつけた不空羂索観音像




【三月堂宝冠化仏盗難事件についての本】


それでは、この三月堂不空羂索観音像・宝冠化仏盗難事件の発生から解決までの顛末やエピソードについて語られた本を、ここで紹介しておこう。


「東大寺法華堂の研究」 村上昭房編 (S59) 吉川弘文館刊 【334P】 12000円


本書は、戦後間もない昭和23年(1948)に、大八州出版より刊行された、東大寺法華堂をテーマにした論文集。

法華堂の研究論集として価値高い一書であるが、戦後困窮期の出版で貴重書化していたため、昭和59年に復刊されたもの。

当時一流の研究者の執筆。
福山敏男「東大寺法華堂の建立に関する問題」、薮田嘉一郎「三月堂創立に関する研究の沿革」「三月堂創立に関する諸問題に就いて」、浅野清「東大寺法華堂の現状とその復元的考察」金森遵「法華堂諸像の一考察」等々、15編の研究論考が収録されている。

この論考の一篇に、「宝冠銀佛の再現」という小川晴暘が執筆した文章が収録されている。

「三月堂・宝冠化仏盗難事件」の発生から、6年半後の宝冠化仏発見回収、犯人逮捕に至るまでの物語を、小川晴暘が回顧談として語ったものだ。
研究論文集の一篇としては、異色の一篇と云えよう。
12ページの文章だが、ドキュメントタッチでこの事件の経緯が描かれている。

なかでも、田万清臣氏の所に、宝冠化仏を所持する老人の接触があり、田万氏が老人に東大寺への謝礼金による返還をもちかけ、そして最後に、大規電車中での警察捕り物となる顛末などは、思わず惹き込まれてしまう。
サスペンス・ミステリーを読んでいるようで、本当に面白い。

この「小川晴暘の回顧談」を読めば、宝冠盗難事件の顛末と、解決に至るストーリーの全容を詳しく知ることが出来る。
貴重な一文。


「誰も知らない東大寺」 筒井寛秀著 (H18) 小学館刊 【255P】 1800円

著者は第212世東大寺別当、東大寺長老をつとめた人。


東大寺で生まれ、東大寺で育った著者が、東大寺にかかわるエピソード、こぼれ話、思い出話をまとめた本。

本書に、「法華堂本尊宝冠盗難事件」という項立てが設けられている。
ここで、宝冠盗難事件の概要と、東大寺サイドの対応などが語られている。
当時、東大寺サイドの事件対応を行ったのは、筆者の父、筒井英俊執事であった。

田万清臣氏から「犯人より接触あり」の報が、東大寺清水管長に連絡が入った後、事件が急展開し、盗難化仏等の回収に至るまでのいきさつについてのエピソードが、判りやすく語られている。

筒井は、当時の思い出を、このように綴っている。

「田万氏からの連絡があってから、・・・・・・ことは内密に進められました。 当時、私は大正大学に在学中で、寺内のことは何が起こっているか知らなかったのですが、私の家では、毎晩行先も告げずに出かける父に不審を抱いていたと、後に母から聞かされたものです。」


「続 行雲流水〜田万清臣追想録」 田万清臣追想録刊行委員会編 (S56) 私家本 【397P】

本書は、標題のとおり、昭和54年(1979)、86歳で没した田万清臣氏の追想寄稿文集。


田万氏は、先にも記したとおり、社会大衆党の代議士であり弁護士として活躍している人物であったが、それにもまして古美術コレクターとしてその名を知られる人物。
田万氏が、三月堂宝冠盗難事件の解決の一番の立役者であり功労者となったことは、これまでに記したとおり。

本書には、80名余の関係者から寄せられた、追悼文、回顧談等が収録されている。

そのなかに、「田万さんと三月堂の宝冠」と題する、倉田文作氏の一篇がある。
当時、奈良国立博物館管長であった倉田氏の3ページの短文で、田万氏の処へ、犯人周辺の老人から宝冠化仏の売却打診があり、事件解決に至るまでのことが、懐かしい思い出として語られている。

倉田氏はこの短文を、次のように締めくくっている。

「それにしても大コレクターとして知られた田万清臣先生の一生を通じて、この三月堂銀造化仏事件は忘れ得ぬ思い出であったろうし、その想い出ばなしはいつも精彩にあふれていた。」


「宝冠」 島村利正著 
「霧の中の声」 島村利正著 (S57) 新潮社刊 【235P】 1300円 に収録


奈良を題材とした小説「奈良飛鳥園」「奈良登大路町」などで知られる、島村利正の短編小説集。


「宝冠」は、三月堂宝冠化仏盗難事件、新薬師寺香薬師像盗難事件などを題材とした、回想小説の小編。

小説の筋立ては、このようなものになっている。

主人公・杉村は、昭和55年に東京で開催された「東大寺展」に、不空羂索観音の「宝冠」が展示されるという話を知り、自身の奈良在住時代や三月堂のことの思い出が、沸々とよみがえってくる。
主人公・杉村は飛鳥園・小川晴暘の下で働いていたことがあり、その頃のことや、「宝冠化仏盗難事件」「香薬師盗難事件」のエピソードなどを懐かしく回想する。

主人公・杉村とは、著者・島村自身のことで、小説の中で、二つの仏像盗難事件のいきさつやこぼれ話などが、巧みに盛り込まれた静謐な小編として出来上がっている。



 


       

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