埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百八十五回)

   第二十九話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その6>奈良の仏像盗難ものがたり

(7/10)


【目次】


はじめに

1. 各地の主な仏像盗難事件

2. 奈良の仏像盗難事件あれこれ

(1) 法隆寺の仏像盗難

・パリで発見された金堂阿弥陀三尊の脇侍金銅仏
・法隆寺の仏像盗難事件をたどって
・法隆寺の仏像盗難についての本

(2) 新薬師寺・香薬師如来像の盗難

・失われた香薬師像を偲んで
・香薬師像盗難事件を振り返る
・その後の香薬師像あれこれ

(3) 東大寺・三月堂の宝冠化仏の盗難事件

・宝冠化仏盗難事件の発生
・宝冠化仏の発見・回収と犯人逮捕
・三月堂宝冠化仏盗難事件についての本

(4) 正倉院宝物の盗難事件

・正倉院の宝物盗難事件について書かれた本

(5) その他の奈良の仏像・文化財盗難事件をたどって



(3)東大寺・三月堂の宝冠化仏の盗難事件


この事件も、大変有名な国宝盗難事件であるだけに、皆さんご存知のことだろう。

東大寺・三月堂
昭和12年3月、東大寺三月堂の不空羂索観音の宝冠の正面に付けられている銀製の化仏と瓔珞の幾房かが、盗み取られているのが発見されたのだ。


天平時代を代表する第一級国宝の盗難であり、大事件として新聞にも報じられた。
警察当局は懸命の捜査を続けたが、その行方は全く判明せず、糸口すらつかめなかった。

その後、6年余が経過した昭和18年。

盗まれた宝冠化仏などを所蔵しているという人物が現われた。
そして、慎重で粘り強い捜査の結果、9月に、無事、宝冠化仏の回収に成功、犯人も逮捕された。
盗難発生後6年半ぶりに、事件は解決し、盗難宝冠は東大寺に戻されたのであった。



三月堂・不空羂索観音像





不空羂索観音像・宝冠部


この化仏が盗まれた不空羂索観音の宝冠。
その豪華さと見事さは、言い尽くしようのない素晴らしいもので、奈良朝工芸の最高峰とも云える名品だ。
金属部分は、正面中央に立つ化仏も含めすべて銀製鍍金で、翡翠、琥珀、水晶、真珠、吹玉など、二万数千個に及ぶ宝玉できらびやかに荘厳されている。
盗まれた銀製の化仏は、螺髪まで同鋳で鍍金され、螺髪には群青の彩色がされている。

 
不空羂索観音像・宝冠と化仏


三月堂で不空羂索観音像を拝していると、この宝冠の眼を見張る豪華さになかなか気がつかない。
なんといっても、不空羂索観音は362pの巨像。
我々は4〜5メートル上方を見上げて、観音像の頭上の宝冠を仰ぐこととなり、鮮明にみることが出来ないからである。

これまで何度か、この宝冠と化仏が博物館に出品されたことがあり、その折にこの宝冠を眼近にご覧になった方も多いのかと思う。
最直近では、昨年(2012)新設された東大寺ミュージアムに展示された。
この時に、私も何度目かになるが、華麗な宝冠を眼近に観ることが出来た。
そのまばゆいばかりの豪華さや、精巧の極致と云って良い造形に、魅入られるように惹きつけられ、当時の権力者が贅を尽くして制作させた最高峰の工芸作品であることを、今更ながらに納得した。



不空羂索観音像・宝冠の、銀製工芸と玉類で飾り立てた美しさ



それでは、この盗難事件の発生から、宝冠化仏の発見回収、犯人逮捕に至るまでの、経緯や顛末について振り返ってみよう。
幸い、この盗難事件は、世間の大注目を惹いたこともあり、新聞報道による詳しい記事や、この事件の顛末を語った本が残されているので、詳しくご紹介できると思う。



【宝冠化仏盗難事件の発生】


不空羂索観音像の宝冠化仏が失われていることに気が付いたのは、昭和12年(1937)3月7日のことであった。

堂守の中田栄吉氏が三月堂を巡視した時のこと。
中田氏は、大慌てで筒井英俊執事に、このことを報告した。

照明のない薄暗い堂内では、丈の高い不空羂索像の宝冠化仏がなくなっていることに、しばらくの間、気が付かなかったとしても無理からぬことであった。
実際に盗難に遭った日は、犯人が捕まってから判明したのだが、2月12日の夜のことであった。
盗難から1ヶ月弱、気が付かなかったことになる。

東大寺では、即刻警察に通報。
警察が実地検証した処、寺役席の下の格子二本はずされており、電灯を挿入した手のあとが点々とあったのを発見した。
また、高札堂の階段の格子切り取られているのも判明し、賊はここから侵入したものと思われた。


早速、宝冠を不空羂索像から外して取り降ろして、宝冠を精査した処、盗難に遭った宝物は次のとおりであった。

1.前立仏(後背、鏡つき)ならびに蓮台の蓮実と蕊玉類

2.前飾曲玉、11顆のうち1顆と、瓔珞13個のうち11個で、瓔珞の着いている前飾銀唐草数か所

3.宝冠周囲の帯飾8間のうち3間〜1間の玉数はキリコ玉2個とフキ玉8個


この宝冠化仏盗難事件は、事件発覚の4日後の3月11日に、大きく新聞報道された。

朝日新聞東京版の記事の見出しは、次のとおり。

「奈良東大寺に怪盗   国宝をもぎ取る  無比の阿弥陀仏像   海外流出を恐る」




宝冠盗難事件発生を報じる記事(昭和12..3.11付・朝日新聞東京版)



記事では、三月堂の不空羂索観音とその宝冠が貴重な国宝であることを説明した後、このように記している。

「三月堂は一般に拝観を許しているが、賊は暗夜床下から床板を繰上げて内部に侵入、胸のあたりに合掌した本尊の手を踏み台にして攀じ登り阿弥陀仏をむしりとったものらしい。

二万余個の宝石を身につけた仏像の価格は、骨董的価値から見れば恐らく数千万円に上ると見られているが、盗まれた仏像もこれと相俟って価格は付し難く、同県社寺課では海外への流出を考慮し港方面へも厳重手配し、一方、胡内県刑事課長は、同課員奈良署員を督励し、骨董商方面から端緒を得べく大活動を開始した。」


それにしても犯人は、何故、4メートル以上ある高所へ攀じ登って、宝冠化仏を盗み取ったのだろうか?
どうして好き好んで、あんなに高いところにある宝冠を、狙ったのであろうか?


飛鳥園の小川晴暘は、その理由についてこのように語っている。

「三月堂本尊、不空羂索観音像の宝冠は世界無比の美事なもので、文字通り金銀宝玉をちりばめた実に立派なものである。

堂守の中田栄吉老は、内陣拝観の人々を案内しては、口を極めてこの宝冠の価値を褒めたたえた。

翡翠の勾玉一個でも、よいものになると数萬円もするので、比の賓冠は実に薮千萬円からの価値がある。
宝冠前立の阿弥陀如来の御像は、七寸八分の純銀の上に金の鍍金がほどこしてあり、相好もめでたく天平芸術の極致であると、堂守のほめ方は正しいのではあるが、これを毎日繰りかえしている内に、俗人の拝観者中に、数千萬円という金額だけが頭に残って欲心を起す人が出来るのは、考えて見ると無理はなかった。

こうした説明の仕方が、盗心をそそったであろう事に気がついた時は、もう遅かったのであった。」
(「宝冠銀佛の再現」東大寺法華堂の研究所収)

犯人がこの宝冠化仏を狙ったのは、確かに、このような動機によったもののようだ。


警察も、超一級の国宝盗難事件ということで、大捜査陣を敷いて、早期の犯人逮捕、宝冠発見に懸命の努力を行った。
奈良県警では、全国的に写真入りの印刷物を配布し各方面に手配するなど、捜査の網は綿密を極めた。

新聞各紙も、大事件として大きく取扱い、毎日のように3段抜き、4段抜きの見出しをつけて捜査状況の報道を行った。


地元紙の盗難事件続報記事の見出しをピックアップしてみよう。

「事情にあかるい仏像専門の曲者? 必死の捜査陣を張る奈良署」

「掴めぬ手がかり 新事実発見に躍起の当局 宝冠仏盗難事件」

「国宝物を蔵する神社仏閣は恐慌  古物商人を参考に調べたが手がかり無い模様」

「古物商らを調べたが相変わらず五里霧中 検事正が捜査本部に出勤し経過を聞いて督励」

「国宝の盗難は時効を無期に  法律の改正方を政府に請願 きのう協議会の意見」

このような感じで、世間の関心の高さが伺われる。




宝冠盗難事件続報記事(昭和12.3.12付・大阪朝日新聞)





宝冠盗難事件続報記事(昭和12.3.13付・大阪朝日新聞)





宝冠盗難事件続報記事(昭和12.3.18付・朝日新聞奈良版)



これほどの大事件として扱われたが、当局の必死の捜査にもかかわらず、事件は迷宮入り状態に陥ってしまう。
県警本部は、奈良署に捜査本部を置き、古物商、仏像愛好者、素行不良僧侶、仏像窃盗、社寺荒らしの前科者など、約500人の身辺を洗ったが成果はみられなかった。
10ヶ月後には、捜査本部も解散される。
当局により、新聞記事も禁止されるようになり、時が経つにしたがって人々の関心も薄れて行ったのであった。


その後、宝冠化仏発見を期待させる、こんな事件や出来事もあった。
しかし、残念ながら、事件解決の糸口に繋がるものではなかった。

盗難事件から半年ほどたった11月には、詐欺事件がおこった。
東大寺に「盗難宝冠事件を匂わせる投書」があったのだ。

接触をはかると、
「盗難宝物の所在を知っている。返還の労を取るから金五百円を謝礼せよ。」
との要求があった。
東大寺が奈良警察と連携して、面会をはかるなどの対応をとった処、投書者は警察に連行され、全くの詐欺であることが判明したのだ。


盗難発生から3年半も経った頃には、こんな人騒がせな出来事もおこっている。

化仏の模像が見つかった法華堂前の池
昭和十六年八月十日のこと。
法華堂前の池から、化仏に似た仏像が発見されたのだ。
「ついに盗難品発見か?」
と思われたが、この仏像はアンチモニー製であることが判った。

製作者は大阪南区の人物(当時死亡)で、近畿、九州一円にわたって相当数売りさばかれたものであった。
結局、盗難事件とは何の関係もないものであった。



 


       

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