埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十四回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

(8/12)


【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり


「ウォーナー博士が、奈良、京都を爆撃から救った。」

という話は、何時頃から言われるようになったのだろうか?


驚くべきことに、太平洋戦争中から、この噂が囁かれていたようなのだ。
文豪・志賀直哉が、昭和20年(1945)7月に、奈良の知人に宛てた葉書が残されている。

この葉書には、このように書かれている。

「噂だから事実かどうか分りませんが 博物館の役人が奈良と京都は爆撃せぬようにとトルーマン(大統領)に進言したら、
約束は出来ぬが考慮には入れて置こうといった由、
敵ながら文化を尊重する事 感心、これが本統(ママ)なら大した事、恐らくボストンのウォナー(ママ)だろうと思います。
・・・・・・・・・
但しこんな話 評判になると、忽ち軍シセツが出来るかも知れず 御要心々々。」
(新カナ・新字体に改め、原文のまま)

    
.       志賀直哉               志賀直哉が知人に宛てた葉書

戦争末期になり、東京、大阪をはじめ各地の主要都市がアメリカの爆撃に遭うなか、奈良、京都に空襲がないことは不思議に感じられることであった。

当時の文化人たちは、
「これには何らかの理由があるに違いない」
と考えたようだ。

そこで、ささやかれたのが「米軍の文化財保護説」とも云うべきもので、爆撃回避の進言者として、志賀直哉の口からウォーナーの名前が出たということらしい。
ウォーナーは、日本美術の研究者として、奈良にも長く滞在していたことがある。
志賀直哉は、奈良に住んでいた頃、ウォーナーと交友があった。
ウォーナーが日本の古い文化を愛する学者であり、妻が元大統領・ルーズベルトの姪という家柄でもあることから、政府に顔が利くのではと推測されたらしい。
そんなこともあり、知識人の間で、このような噂話が囁かれるようになったのだと思われる。

このような噂話が、戦後、「ウォーナー伝説」が創りだされていく下地にあったのであろうか?


「ウォーナー伝説」が、確かな事実として、新聞に報道されたのは、終戦直後の昭和20年(1945)11月のことであった。

11月11日付の朝日新聞に、

「京都・奈良無傷の裏
  作戦、国境も越えて『人類の宝』を守る。米軍の陰に日本美術通」

という大見出しで、このような記事が掲載された。

ウォーナー伝説を最初に伝えた記事
朝日新聞(1945.11.11)

「京都と奈良はなぜ爆撃されなかったか 〜たとえ軍事施設がないにしても、これはあの猛烈な空爆期間を通じて誰もが疑問としたところであろう。
終戦後三箇月いま初めてこの疑問が解けた・・・
美術と歴史を尊重するアメリカの意志が、京都と奈良を「人類の宝」として世界のため、日本のために救ったのである。

この計画を貫くために活躍の中心となったのは、開戦とともにアメリカに出来た
『戦争地域における美術および歴史遺蹟の保護救済に関する委員会』
である。

アメリカ大審院判事ロバーツ氏を委員長とする同会の使命は、東洋および欧州の諸戦場における貴重な美術や史蹟を戦火から救わんとするもので、日本の諸都市に空爆が開始される時に、京都、奈良を作戦目標から除外しようとハーバード大学附属フォッグ美術館東洋部長の職にあるラングドン・ウォーナー氏が献身的な努力を尽したのである。

・・・・・・・・・

著名な美術研究家で現在マックァーサー司令部の文教部長たるヘンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである。

戦争の激化につれ、戦略上に文化的考慮をとり入れさせることは決して容易ではなかったにちがいないが、ウォーナー氏の熱意は遂に京都、奈良を救うことに成功したのだという。・・・・・」

この記事には、美術評論家・矢代幸雄氏のこのような談話が掲載されている。

矢代幸雄
「開戦とともにこういった委員会を設けて軍と連繋をとって行った米国政府の文化尊重方針に、私はまず敬意を表したい。

もちろん日本のためでもなくアメリカの為でもなく、国境を、時代を越えた高い意図から出発した組織であろうし、何物をも破壊しつくす近代戦争の遂行中でのことだから百パーセント所期の目的を達することはできなかっただろうが、この線に沿って万全の努力を払ったことに対しては脱帽したいと思う。」

この中で、矢代氏はウォーナー博士と30年来の友であるとコメントしている。
矢代氏は、当時55歳で、美術史界の大重鎮。
この矢代幸雄氏が、親友の美談を世間に公表すべく、この話を朝日新聞社に持ち込んだのであった。

この新聞記事が出て以来、ウォーナー博士は、たちまち「時の人」となり、新聞・雑誌は競ってこの美談を追いかけたという。

矢代は、自著「私の美術遍歴」で、このように語っている。

「この発表の日本全国への影響は大変なものであった。
その頃は、アメリカは戦利品として法隆寺でもアメリカに持ち帰り戦勝記念館にするのではないか、などと真面目に囁かれたころであったから、ウォーナーの建言により奈良・京都その他文化上日本の最も大切なものが、戦禍から救われたということは、日本人の胸に深くこたえたのであった。
・・・・・・・・
感激しやすい日本国民は、ウォーナーを奈良京都の救い主として、国民的感謝感激の大渦の中心点にしてしまった。」


ウォーナーは、戦後に2度(昭和21年・27年)来日しているが、その際には日本で国賓並みの待遇で大歓迎を受けた。
2回目の来日の時などは、ウォーナー夫妻は時の吉田首相から箱根の別荘に招かれ、その労をねぎらわれ感謝の念を表されたりもしている。

  
ウォーナー                      吉田茂(当時の首相)

ところが、ウォーナー自身は、

「ウォーナーこそ古都を救った恩人であるという説」

を、折々、事あるごとに、きっぱりと否定し続けた。

「それは、ただ噂だけであって、自分がどうこうしたのではない。
アメリカ政府が(マッカーサー)司令官と密接に協議して行った政策である。」

「合衆国の政策であって、私自身の責任ではありませんから、これは申さないでください」

といったコメントを、何度もしているのだ。

矢代との親密な関係も、このことで一時はひびが入ったようになってしまったらしく、矢代自身も自著の中で、このように語っている。

「(その大歓迎ぶりに)彼はすっかり癇癪を起して、すべては矢代があんなことを新聞に発表したから悪いのだと、むやみに私に腹を立て、自分は奈良も京都も救ったのでもなんでもないと言い張ったらしい。」

「一度こじれたウォーナーの感情は、なかなか解けず、私としてもやがて時というものが自然に解決してくれるのを待つより仕方ないと観念した。」

だが、ウォーナーが自分の功績を否定すればするほど、

「東洋風な謙遜ぶり」(毎日新聞「余禄」欄)

「雲つく大男に似ず、謙虚で純情なはにかみやさん」(朝日新聞「天声人語」欄)

という評価が定着して、日本人の間での評判は、益々高くなっていったとのことだ。


ウォーナー博士は、昭和30年(1955)6月、73歳でその生涯を閉じる。

その死を契機として、ウォーナー博士に哀悼の意を表しよう、記念碑を建てようといった動きが大きく盛り上がる。
奈良県議会は弔文決議を早速採択し追悼式も行われたし、鎌倉・円覚寺では吉田茂をはじめとする発起人で追悼法要が行われたりしている。
さらには、日本国政府はウォーナーに、外国人に与えられる最高の栄誉である勲二等瑞宝章の授与を決定した。

まさに「ウォーナー伝説」は、日本政府公認の「美談」となって、世に定着したのであった。

そして、その後6つのウォーナー記念碑が、次々と日本各地に建立される。
リストにして示すと、次のとおり。





それぞれのウォーナー顕彰碑の写真は、このようなものだ。


  
法隆寺・五輪塔と記念碑(左側)右は平子鐸嶺碑           阿部文殊院・五輪塔と記念碑


      
.      霊山歴史館・胸像(平櫛田中作)     茨城大学五浦美術文化研究所・胸像(平櫛田中作)


     
勝常寺・記念碑                    鎌倉駅前・記念碑


京都霊山歴史館のウォーナー胸像は、平櫛田中の手によるものということであるが、現在は、ここに置かれていないようだ。
(私自身確認していないが、2008年に訪れた方のブログによると、霊山歴史館の管理人に「そのようなものは、全く知りません。」と云われたとのこと)


このようにして、「ウォーナー伝説」は、ウォーナー自身の懸命の否定にもかかわらず、真実として日本国民の中に浸透して行く。

そして、ウォーナー没後になってから、益々その功績が喧伝され、定着していったのであった。



 


       

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