埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十一回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

(5/12)


【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




【東大寺の仏像疎開】


東大寺の国宝疎開、仏像疎開は、そうすんなりとは進まなかった。

とりわけ、三月堂(法華堂)の仏像疎開、お堂の解体疎開問題については、「文化財保護か、信仰か」ということで、寺内でも紛糾した。

東大寺・三月堂(法華堂)
東大寺の国宝疎開問題は、昭和19年(1944)1月27日に東大寺本坊に於いて、県当局と「国宝防空施設協議会」が開催された時に始まる。
3月、東大寺本坊の調査済み国宝物件が、興福寺国宝66点と共に円照寺に搬出されたのは、先に記したとおり。

4月には、三月堂の諸仏像疎開問題などをテーマに、第2回の「国宝防空施設協議会」が開かれた。
会議には、丸尾彰三郎文部省監査官、美術院・新納忠之介、県当局、東大寺側僧侶が出席している。
ここで、三月堂の仏像など主要仏像の疎開方針が決められた。



三月堂(法華堂)内陣の諸仏


それによれば、

・三月堂本尊・不空羂索観音、執金剛神は現在のまま
・日光月光菩薩その他は、観音院など境内に疎開
・乾漆・梵天帝釈天、四天王像は円照寺、大蔵寺に疎開移送
・戒壇院四天王像は結論出ず保留

ということになった。

このような方針になったものの、三月堂諸仏の疎開は、すんなりと実施に至らなかった。
天平の乾漆像、塑像がほとんどで、移送中の損傷が憂慮されたからであった。
また、仏像と堂字は一体のもので、参詣したのに礼拝する仏像がないのはおかしい、との信仰上の問題もはらんでいた。

こうしたなか、同年(1944)9月には、奈良博物館から、木造西大門勅額、二月堂本尊銅造舟形光背、快慶作地蔵菩薩像の国宝3点が東大寺に返還され、その後大蔵寺に疎開移送されている。

        

.      西大門・勅額                     二月堂・本尊舟形光背



翌昭和20年3月には、大阪大空襲があり、事態は一段と急迫する。
大仏殿の大屋根に迷彩擬装網がかぶせられたのも、この頃のことである。
この、激しい大阪大空襲を受け、文部省・県当局は、仏像の疎開だけでなく、「三月堂ほかの建築物の解体疎開の断行」を強く求めてくる。

この建物解体疎開問題については、昭和19年(1944)中から、議論されており、文部省と東大寺の意見対立があった。
東大寺では、大仏殿袖廊、二月堂登廊、三月堂の解体疎開について、「不同意」の方針としていたものであった。

この当局要求に対し、東大寺では塔頭協議会を開催。

大仏殿袖廊、二月堂登廊の解体疎開は同意するものの、

「法華堂解体の件は信仰上の支障あり、又その解体始末に不徹底と思考せらるに付不承諾之旨回答するに決」(東大寺日誌)

となった。

東大寺側が三月堂の仏像疎開・解体に全面的に同意しなかった理由については、

「お祀りしている仏像は、日々拝んでいるのであるから、絶対疎開させるべきではない。
疎開させることは僧として忍び難い。
乾漆像は運事のが困難、堂字の周囲に爆風よけの屏をつくればよい。
参詣したのに礼拝する仏像がないのはよくない。
仏像と堂とは本来一体であるべきもの。
いつまで疎開しておくのか期限不明。」

等々の意見が出たと云う。

そして、結局、全面的な疎開には応じなかったのである。

大仏殿袖廊の解体は、昭和20年4月20日に奈良刑務所の工作隊によって工事がはじめられ、二月堂の登廊も解体される。

  

大仏殿と袖廊                     二月堂・登廊


三月堂(法華堂)解体の不承諾の回答は、簡単に当局に受理されず、この後も繰り返し会議が開かれ、結局堂宇の周囲に爆風除けの塀をつくるということで、一応の決着となる。


ところが、状況が大きく変化する。

6月1日に、奈良市一条通り沿いにB29爆撃機によって焼夷弾が投下され、民家7戸が全半焼したのである。
県下最初の空襲であり、大仏殿や三月堂まで2キロメートルそこそこの至近での空襲であった。

衝撃を受けた東大寺では、翌2日、三月堂解体疎開問題について、緊急の本山会が開かれた。
寺内での解体同意・不同意の意見対立のなか、「貫主意志優先」の形で解体承認とし、県にこれを通告することとなった。
ただ、山内には三月堂の疎開解体に反対する意見が根強かった。

この解体同意通告により、三月堂仏像疎開の段取りが早急に進められる。
7月13日には、三月堂では仏像疎開をひかえて、仏像の撥遣法要(仏像の魂を抜く儀式)が営まれた。


三月堂仏像疎開が現実のものとなったこの前日(7月12日)、事件が起こる。

東大寺執事長が、
「法華堂疎開解体問題に関連して、信条に於いて相容れざる所あり」
として、辞表を提出したのだ。

辞表は受理されたが、東大寺山内においても、戦時下における「文化財保護か、信仰か」という問題は、大変な葛藤と軋轢を生み、大きな傷跡を残すことになったのだった。


7月24日の東大寺日誌
「法華堂仏像の第一回搬出本日より」
と記されている

7月下旬、三月堂四天王像2体と梵天・帝釈天が柳生・円成寺に疎開移送された。
8月8日には、四天王像2体、仁王像2体などが、添上郡・正暦寺に送られた。
(前掲の竹末勤氏作成の仏像疎開一覧表では、円成寺に四天王像が皆疎開されたように見てとれるが、諸資料によれば、上記が正しいと思われる)

執金剛神は荷造りを待って手水屋に安置(柳生村・南明寺に疎開予定)、日光・月光菩薩の荷造り作業中に、8月15日の終戦を迎えたのであった。

疎開移送にあたっては、県が刑務所に頼んで受刑者を動員し、大きな担架をこしらえて、歩いて運んだ。
牛車で運ぶことも考えられたが、それではもろい乾漆像が壊れてしまう恐れも多く、歩いて運ぶことになったという。



      

三月堂・脱活乾漆四天王像(広目天像・多聞天像)



 

三月堂・執金剛神像            三月堂・日光月光菩薩像




この三月堂仏像疎開、解体のいきさつについて、二つの秘話、不思議な話がある。

一つ目の秘話は、

三月堂の解体が、東大寺の同意にも関わらず、着手されなかった「わけ」についての話だ。
三月堂は、閼伽棚の屋根瓦がめくられて、まさに解体に入らんとする処であった。

東大寺の元長老・筒井寛秀は、自著「誰も知らない東大寺」のなかで、このような思い出話を綴っている。

「こうした時、当時執事をされていた橋本聖準さんのところに朝日新聞奈良支局長の松本楢重さんが来られたのです。
東大寺元長老・筒井寛秀
橋本さんは、ちょうど友人の病気を見舞いに行った日だったのでその日が8月9日だったとよく覚えているとのこと。
で、松本さんはこう話されたというのです。
『戦争は終わりました。理由はいわないで知事に法華堂の解体を1週間待ってほしいと頼みなさい』と。・・・・・

管長は小田成就知事を訪ね、法華堂の解体を1週間だけ待ってほしいと要請されました。
知事に訳を問いつめられた管長は、仕方なく橋本さんが松本さんから聞いた話をされたとのことです。・・・・・・
それから数日後の8月15日、ラジオで終戦の詔勅の放送があり、法華堂の解体はまぬかれることになりました。」


もう1つの不思議な話は、

三月堂四天王像の疎開先、柳生村・円成寺に遺された、公文書の「日付」の話だ。

円成寺には、県から出状された「仏像疎開受け入れを求めた文書」が、今も残されている。
この県内政部長の公印が押された文書は、
「時局緊迫ニ伴ヒ」で始まり、三月堂の本尊・不空羂索観音像のほか四天王像2体の預かりを求める内容となっている。

 

      柳生村・円成寺             円成寺に残された仏像疎開受入要請文書
                    8月18日付けになっている



問題は、文書の「日付」。
終戦3日後の昭和20年(1945)8月18日付けになっているのだ。

後に続く条項では、
「右国宝格納ノ上ハ本堂ハ閉鎖シ濫リニ開扉セザルコト」
と、厳重管理を指示している。

この文書の日付が、終戦後の18日付けであることに気が付いたのは、平成23年(2012)1月、資料を奈良大学へ貸し出した時のことということだ。

三月堂の仏像が円成寺に疎開輸送された日は、従来7月下旬とか、7月24日と29日とされており、終戦最末期ギリギリに行われたと云われている。

東大寺出身の学者、堀池春峰も自著「東大寺史へのいざない」に、このように記している。

「疎開先は、柳生へ行く途中の忍辱山円成寺と山の辺の道の奥にある菩提山正暦寺でした。
私は、狭川明俊さんと円成寺に行きましたが、二体運んだところで終戦となりました。」

と、自らの体験として語っているほどである。

一方、三月堂の仏像疎開は、もともとは空襲を回避するためのものであったが、
終戦の日以降は、
「進駐軍の国宝仏像接収を恐れ、それを逃れるため」
疎開した、という見方もあるそうだ。

たしかに、終戦以降、米軍が国宝仏像などを賠償物としてアメリカ本国に持っていく計画だ、という話は真実味を帯びて噂されたのは間違いない。

この話の冒頭で紹介した、入江泰吉の思い出話の中にも、
「おそらくこの仏さまたちも、いずれはアメリカに持ち去られるだろう。」
と堂守から聞いたと語られている。

不思議なことには、東大寺日誌の8月25日の項に、
「東大寺三月堂の四天王・仁王疎開搬出。日光月光もまた搬出準備できるも見合わせ堂内安置とする」
という主旨の記述がある。
疎開実施後、事後でこの日に記録されたのか、この日に行われたのかは判らない。


終戦前後の混乱状態のときのことである。
本当は、どうだったのだろうか?

・終戦前に疎開されたのか、終戦後にも疎開があったのか?

・終戦後の疎開だとすれば、米軍接収を恐れたからなのか、終戦と云えども既定路線通りに疎開を継続したのか?

・「疎開受け入れ依頼文書」が、疎開終了後に事後的文書として、(終戦後)形式的に作成されただけなのか?

どうでも良いような話ではあるが、「不思議な謎」と云っても良いかも知れない。


正暦寺から3月堂に戻ってきた疎開仏像
疎開していた三月堂の諸仏は、11月9日には円成寺から戻され帰山、11月16日には、正暦寺から搬送され戻された。

写真家・入江泰吉が、疎開から戻ってくる三月堂の仏像たちを目撃し、その写真を撮影したのは11月16日、正暦寺から仁王像などが戻されて来たときのものである。
正暦寺から戻ってきた仁王像は、大きく破損していた。
東大寺から正暦寺に疎開する際、空襲警報がありあわてて繁みの中に退避した際に、巨大な脱乾漆像が壊れたのだった。
仁王像の阿形像の頭が取れ、吐形像は背中に穴があき、四天王像は手が折れるという状態になっていたそうだ。

これらの像は、美術院の吉川政治や辻本干也等の手で、昭和21年(1946)5月より、修復がおこなわれた。

   

破損した三月堂・仁王像腕部    三月堂・仁王像を修理する吉川政治(下)、辻本干也(上)




 


       

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