埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十八回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

(2/12)


【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




【東京帝室博物館の館蔵品疎開移送の状況〜時系列表】


東京帝室博物館の館蔵品疎開移送の有様を、時系列に一表にまとめてみた。

以下のとおりである。






この表をご覧になると、東京帝室博物館の宝物館蔵品が、戦争が激しさを増し本土空襲が始まるという状況に的確に対応し、むしろ早め早めに着々と安全な遠隔地や地方に、疎開移送が進められているのが見て取れる。


奈良帝室博物館への移送が行われた以降の、疎開移送の有様などを振り返ってみたい。


【南多摩郡横山村倉庫の建設と疎開移送 S17/7〜】


先に記したとおり、昭和16年(1941)8月から、奈良帝室博物館への法隆寺献納宝物等の疎開移送が行われた。

一方、当初計画通りの防空地下室の建造は出来ず、見送り状態となっていた。

そこで、博物館では、宝物疎開を早急に進めるということで、東京府南多摩郡横山村の武蔵陵墓(多摩御陵)の地内に、木造モルタル塗倉庫一棟を建設することとした。
倉庫の完成とその乾燥を待って、昭和17年7月に第一回の宝物移送が実施された。

この時は、最優秀品は奈良博物館へ移送済みということで、「常時陳列には大なる支障を来さざる範囲内のもの」などの基準で、移送品が選定された。
疎開移送品は、近世の絵画120点、能狂言面等彫刻16点、法隆寺献納御物等金工100点、陶磁30点、漆工60点など合計663点と貴重図書5点であったそうだ。

その後も戦況の悪化に伴い、昭和18年5月、昭和19年4月、11月にも、館蔵品が疎開移送されている。


【福島県翁島村の高松宮別邸への疎開移送 S19/7〜】


昭和18年にはいると、5月にアッツ島玉砕、9月にイタリア降伏など戦局は緊迫の度を加える。

そこで、政府は12月に「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定し、それを受けて翌19年1月に文部大臣は「防空施設の実施要項」を発表した。

それによると、

「宝物に対しては安全なる地帯に分散疎開せしめ収蔵庫等に厳重保管すること」

とされている。

こうした動きを受けて、東京帝室博物館では、福島県翁島村の猪苗代湖畔にある高松宮別邸に宝物移送することと決した。

福島県翁島村・高松宮別邸
別邸は、明治41年建築の木造2階建ての洋館。
昭和19年7月には、貨車3両で140個の荷物が、高松宮別邸に送られた。
国宝185点、重要美術品117点ほか計347点が疎開された。
また、文部相からの依頼で、華族所有の国宝・重要美術品209点も併せて移送されたそうだ。

高松宮別邸で疎開宝物の管理は、結構のんびりしたものであったようで、当時帝室博物館の庶務担当であった有本利三郎は、このように思い出を語っている。

「宝物を納めた高松宮御別邸の構内は、朝夕2回ほど随時見廻るのが仕事で、ほかにそれほどの用事もありませんから、宿所のすぐ前の猪苗代湖畔で、夕方にハヤ釣りなどをしたこともあります。
私の後、交代になってきた尾崎元春さんは、有名な釣り好きですから、戦局緊迫の折にも関わらず、一夕を共に思いがけぬ楽しみに恵まれたこともありました。」
(戦中戦後「博物館の思い出」所収)

この時、宝物疎開にあわせて、社寺・個人の出品寄託品をリスク分散の疎開の意味から、所有者に照会の上、返却することも決められた。
昭和19年4月から5月にかけて、職員2名一組13班に分かれて、宝物返却疎開に旅立っている。


【博物館・館蔵宝物の悉皆疎開 S20/4〜】


昭和20年(1945)に入ると、戦況はますます悪化、首都東京の空襲も一段と激しさと加えた。
そして、3月10日の「東京大空襲」を迎える。

  

東京大空襲により焼け野原となった東京市街


この時、東京に焼夷弾の雨を降らせた米軍爆撃機は約300機。
都心は火の海となり、東京市街地の東半部を焼き尽し、死者8万4千人、被災者100万人と云われている。
その後も5月にかけて、大規模な東京空襲が続いた。
幸い東京帝室博物館は無事であったが、3月10日をもって博物館は閉館となった。



農地として開放された帝室博物館構内


このような切迫した状況となり、博物館では、全ての館蔵宝物を悉皆疎開移送することを、4月に決定する。

疎開移送地には、次の三か所が選ばれた。

・岩手県二戸郡浄法寺町の町長・大森彦四郎家、素封家・小田島閑二家の邸内倉庫

・京都府桑田郡山国村の常照皇寺、弓削村の弓削旅館

・福島県耶麻郡翁島の高松宮別邸(先に一部館蔵宝物を疎開していた場所)

  

岩手県浄法寺町・大森家            岩手県浄法寺町・小田島家



  

京都府・常照皇寺                  京都府・弓削旅館



ご存じのとおり、浄法寺町は鉈彫りの仏像で有名な天台寺がある処、

山国村・常照皇寺は、光厳天皇の隠棲地で、美しい枝垂れ桜で有名な処。

これらの場所は、先に疎開先になっていた高松宮別邸のある翁島ともども、空襲の心配などは無用の大変山深い僻地と云っても良い。

この悉皆疎開は、4月14日、武蔵陵墓(多摩御陵)地内倉庫の宝物が京都に移送されたのを皮切りに、7月まで行われた。
いずれの場所へも十数回に分けて疎開移送がされたようで、総計で58600点もの館蔵宝物が、悉皆疎開されたのであった。
あの、戦争末期の戦災大混乱期に、よくぞこれだけの膨大な量の館蔵宝物を、何度にも分けて列車輸送することができたものと、感心してしまう。

東京帝室博物館へ閉館後は、本部を奈良に写し、浄法寺町、山国村、翁島の疎開地には、2〜3名ずつの職員が派遣され常勤することになった。
この人事発令は、8月13日付で行われている。
15日に終戦の詔勅が発せられ、17日にそれぞれの任地に赴いたということだが、この時には、進駐軍に備える役目を負って赴任したということだそうだ。


【疎開宝物の還送と博物館の再開】


昭和16年8月に始まった、東京帝室博物館の宝物疎開であったが、その後、4年間にわたって続けられ、終戦を迎えることになった。

疎開していた館蔵宝物は、終戦後、順次もとの古巣の博物館に還送された。
浄法寺のものは、昭和20年のうちに、京都弓削村のものは翌年21年1月半ばに、翁島のものは5月に、京都山国村のものは7月に、それぞれ戻されている。
疎開宝物は、幸いにして、火災に遭ったり盗難に遭ったりすることもなく全てが無事で、損傷らしい損傷もなく、還送することができたそうだ。

この還送に有様については、西川新次氏はこのような思い出を綴っている。

「昭和21年の秋だったかと思いますが、疎開の宝物を戻す仕事で、尾崎元春・飯島勇・岡田譲氏などとリュックを担いで翁島まで行きました。
浄瑠璃寺・吉祥天像
高松宮別邸の一室で、浄瑠璃寺吉祥天が、何事もなかったかのように裾をたなびかせて立つ、美しい姿に再会した時には、ああよかったなと、あらためて戦の日々が思い起こされました。
疎開先からからすべての宝物が帰って来てからは、毎日毎日荷解きの仕事が続きました。・・・
倉にホウタイでくるんだ彫刻が運び込まれると、後の始末はほとんど一人か二人でしなければなりませんでした。
ホウタイを解き、くるまれた綿を除くと、薄様でていねいに包まれた仏像があらわれます。
紙を除く度に懐かしいお顔と再会です。
倉の中の然るべき位置に仏像を戻して、ホウタイや薄様や綿の始末をする日が凡そ半年以上も続いたような気がします。」
(戦中戦後の思い出「博物館の思い出」所収)


昭和21年(1946)3月24日、東京帝室博物館は、開館に漕ぎ付ける。
再開にあたっては、「日本風俗展」が開催された。



 


       

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