埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十六回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(10-2/10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




(7)井上 博道

奈良の写真家、井上博道氏が亡くなった。

平成24年(2012)12月12日のことであった。
享年81歳。

井上博道氏
亡くなる2か月前の10月6日のこと。
井上氏は、京都府木津川市のJR関西のトンネル内で倒れているのが発見された。
倒れていたそばにデジタルカメラと三脚があり、電車が写っていたそうだ。
撮影のためにトンネル内に入り、通過電車の風圧などで転倒した可能性がある、という話が新聞に掲載されていた。
これが原因となったのであろう、敗血症で亡くなったということであった。

井上博道氏の、奈良大和路を撮影した美しい風景や仏像、建物の写真を、写真集などでご覧になった方は、数多いことであろう。

80歳を過ぎてなお、写真撮影に取組み、その撮影の真っ只中で倒れて逝ったという「写真人生」であった。

井上氏が亡くなった新聞記事を見たのは、この稿を書き終えて、ホームページに掲載を始めてからのことであった。
実は、「奈良の仏像写真家たち」の話には、井上博道氏を採り上げていなかった。
まだまだ、現役の写真作家であったからだ。
この訃報に接して、井上氏の写真業績を偲んで、急遽、井上博道氏の話を採り上げさせていただくこととした。


井上博道氏の仏像写真と云えば、私の頭に思い浮かぶのは、「東大寺大仏の俯瞰写真」と、「隠れた仏たち」という写真集。

「東大寺大仏の俯瞰写真」




井上の代表的写真と云われている。


東大寺大仏の頭の上から大仏全身を見下ろすように俯瞰して撮影された写真だ。
すごいインパクトのある写真で、圧巻そのものだ。
この写真は、 東大寺が写真集を作るにあたって、井上氏に撮影を依頼されたときのもので、
井上氏は大仏様のお身拭い用の場所へ登り、魚眼レンズを用いて撮影したそうだ。

ここ数年、各地を巡回して開催されていた井上の写真展「井上博道の眼展」のポスターにも、この大仏の俯瞰写真が使われている。


「写真集・隠れた仏たち」

これは、近畿地方の古仏の中で、啓蒙的な写真集に載っていないような「隠れた仏たち」を、井上氏の眼で選んだ写真集。


近畿の45ヶ寺の古仏写真、10集・100葉で編まれている。
例えば、第一集には、蓮城寺、霊山寺、金勝寺、東明寺、達磨寺、高雄寺、湯川阿弥陀堂、同聚院、即成院の仏像が選ばれている。
このラインアップを見てみても、なかなか渋い処のこれという古仏の写真集であると感じていただけるだろう。
顔面だけを大きくクローズアップした握力ある写真などもあるが、こうした写真も含めて、静かで落ち着いた叙情性を感じさせる写真と云えるのではないだろうか。

私は、なかでも東明寺薬師如来像、威徳寺仏像群、同聚院不動明王像といった写真が好きだ。


  
東明寺・薬師如来像                  同聚院・不動明王像


  
威徳寺・仏像群                 達身寺・兜跋毘沙門天像

井上博道氏の写真集、写真掲載の本は、数多く刊行されており、30冊以上あるのではないだろうか。

「美の脇役」淡交社、産経新聞社<編>(1961年)
「室生寺」淡交社、矢内原伊作<文>(1964年)
「邪鬼の性」淡交新社、水尾比呂志<文>(1967年)
「不動の怒」淡交社、高階秀爾/中野玄三<文>(1969年)
「奈良大和路 都・山・道・里(全4巻)」京都書院 (1988年)
「東大寺」中央公論社 (1989年)
「やまとのかたち」「やまとのこころ」講談社(1993年)
「奈良万葉@〜E」光村推古書院(1998〜9年)

あたりが、代表的著作と云って良いのではないかと思う。


井上博道氏は、松葉ガニの水揚げで知られる兵庫県美方郡香住のお寺の家の出身だが、約半世紀50年余を奈良で過ごし、仏像ばかりではなく、奈良大和路の美しい風景、花、建物を撮り続けた。

井上氏もまた、「奈良と共に在った、奈良の写真家」であった。



井上博道氏の写真家人生を振り返ってみたい。

井上の写真家人生は、司馬遼太郎との縁をおいては語れない。

井上が写真家として世に出ることが出来たのも、その後奈良の写真家として活躍し続けることになったのも、生涯の友、司馬遼太郎が大きくかかわっている。


井上の写真が世に認められるようになったのは、「美の脇役」という産経新聞の文化欄連載シリーズであった。

戒壇堂四天王の邪鬼、宇治平等院屋根の鳳凰、東大寺大仏連弁の毛彫、春日大社釣り燈篭、高山寺石水院のくぎかくし、新薬師寺の鬼瓦等々・・・・・

目立たぬ存在ながら、捨てがたい興趣、価値の持つものを精選してクローズアップし、井上の写真と共にその道の学者や評論家が寄稿するという企画であった。
読者の好評を博し、なんと週1回、足かけ3年、150回余も続いた。




東大寺戒壇院・持国天の邪鬼(東大寺管長・上司海雲・文)


  
平等院の鳳凰(造幣局・葛城一郎・文))         二条城東大手門の鋲(京大助教授・高安国世・文)


実はこの「美の脇役」の企画をし、写真に井上博道を指名したのが、当時、産経新聞社文化部デスクの福田定一、即ち司馬遼太郎であった。
昭和33年(1958)、井上27歳の時であった。


司馬遼太郎
司馬遼太郎が、当時、産経新聞社写真部の井上博道を、「美の脇役」写真担当に指名したのには、このようなエピソード、いきさつがある。

井上は、龍谷大学入学後、写真部に入部、高価な写真機を買う金もなく借り物のカメラで写真コンテストに何度か入賞をしていた。
被写体は、大学の向かいにある西本願寺。
大学の図書館の大屋根にのぼり、国宝の唐門や飛雲閣にカメラを向けた。
その姿が、西本願寺が出していた雑誌「大乗」の編集長、青木幸次郎の目に留まる。
青木は、雑誌「大乗」に井上の写真を使いたいと声をかけ、当時、西本願寺にあった宗教記者クラブに所属していた司馬遼太郎に紹介したそうだ。

その後、井上は産経新聞社に就職する。
面接試験で「誰か社内に知り合いはいるの」と聞かれて、「福田(司馬)さんを知っています」と答えたが、口添えをしてくれたのかどうかはわからないとのこと。

入社して4年経ったころ、井上は司馬に、入社後初めて声をかけられる。
司馬は、斬新な写真企画「美の脇役」の構想を熱っぽく語り、井上はこれに共鳴した。
その意欲を察したのか、司馬は写真部のデスクに
「井上君を今度の企画の専任にしてほしい」
と頼んだという。

司馬遼太郎は、後に「井上博道氏のこと」という短文を、寄せている。
司馬は、井上の思い出について、このように語っている。

「井上博道氏のこと」所収本
「井上博道氏との交友も、三十年になってしまった。
自分の小さな履歴と重ねあわせていうと、私が二十六、七のころ、新聞社の宗教担当の記者で、毎日のように、西本願寺に通っていた。
西本願寺の境内に、龍谷大学の図書館がある。青瓦ぶきのこの大きな建物の屋根の上に、毎朝未明に這い登っては唐門を見つめている学生がいるという話をきいた。それが、井上博道氏だった。
唐門には過剰なほどに透かし彫り彫刻がほどこされていて、その彫刻の間に小さな透き間がある。
そこへ昇り初めた朝日の日影が射す瞬間を、大屋根の上でかまえたレンズでとらえようというのである。」

「彼は偶然、私がいた新聞社の写真部に入ってきた。
このことで、たれよりもとくをしたのは私で、当時、私は「美の脇役」という文化欄の写真企画を考えていたのだが、その仕事をやれるのは、日本の造形にたれよりも明るいかれ以外になかった。
私は、かれの知識と熱意と非凡な感覚に頼ってこの長期連載の企画をやり遂げることができた。
ついでながら、かれのこのときの仕事は、その後淡交社によって同名の書名で写真集としてまとめられた。」
(「司馬遼太郎が考えたこと9」所収)


「美の脇役」で、世に認められた井上は、昭和41年(1966)、独立してフリーのカメラマンとなる。

井上は、この時、出版関係者の多い東京に活動の拠点を移そうと考えて、司馬に相談したという。

司馬は、
「きみは何を撮りたいんだ。奈良や京都だろう。
東京へ行って何を撮る。たとえ富士山のてっぺんにいても、いい仕事をしたら人は来てくれる」
このように話したという。

井上は、その言葉に従って、奈良に居を構え、終生、奈良を離れなかった。

井上は、50年余、奈良に在る写真家として過ごしてきたことを振り返り、このように語っている。

「司馬さんからのアドバイスもあって、撮影のテリトリーを京都・奈良といった関西圏に決めました。
奈良には、およそ1300年、平城京の昔から脈々と受け継がれてきた文化の深さがあり、世界の中でも誇れるものだと信じています。
現在の私たちの習慣や芸術などは、すべて奈良から発祥したと言っても過言ではないと思っています。
プロの写真家として、作品のテーマの多くを奈良に求めた理由もそのためです。」




「明日香村などをじっくりと巡り、さまざまな自然と対峙していると、遥かな時代の垣根を越えて、日本人の心に共通するアイデンティティのようなものを感じることができますね。
そうした奈良の魅力に惹かれてシャッターを切り続け、気がついたら半世紀を過ぎていました。
それでもなお、撮り切ることのできない奥深さを感じながら、奈良の自然を追いかけています。」





井上は、ご存じのように、奈良に在って、数多くの奈良の写真集を出版、多くの人々にその奈良の風景や表情を切り取った、静かで温かみのある写真で感動を与え、親しまれた。

また、入江泰吉のもとに集った「水門会」の創立(昭和40年頃)以来の会員として、奈良在住在勤の美術家の集まり「奈良市美術協会」会員として、奈良の芸術文化のための活動を続けていた。


井上は、平成17年(2005)に出版された「美の脇役」の文庫版のあとがきで、人生を振り返り、このように語っている。

撮影する井上博道氏
「学生時代、司馬さんや青木さんに逢っていなかったら、写真をやっていなかったら、今頃は年老いた田舎の好々爺の僧だったかもしれない。
今は、司馬さんも青木さんも彼岸に在住され、この世で今も重いカメラを担いで右往左往している私を見て、早く成仏してこちらに来たらもっと楽しいことが待っているよ、と私を呼んで下さっているようだ」

写真撮影の真只中で倒れ、そうして逝った井上博道氏の「写真人生」を、自ら予言しているような感慨を覚える。



ここで、井上の代表的著作だけを紹介しておきたい。

「美の脇役」 産経新聞社編、写真・井上博道 (S36) 淡交新社刊 【209P】 550円


この本ができるまでの話は、先に記したとおり。
この連載企画への井上の入れ込みようは、尋常ではなかったようで、休日も返上してこの企画に打ち込んだという。
写真撮影だけにとどまらず、週一回、150回余の連載の、題材を選び、各回の執筆者を探すことにも力を注いだという。

司馬遼太郎は、
「おかげで、私はいま思い出しても微笑がとまらないほどの楽をした。
なにしろ『脇役』をさがしてきてくれるのは、井上氏なのである。
撮るのはむろん彼だし、いちいち執筆者をさがすことまでしてくれた」
と、当時を述懐している。

そして、この「美の脇役」により、井上は世に出ることができ独立を果たすことになる。
井上の、代表作、出世作の書と云えよう。


「写真集・隠れた仏たち」写真・井上博道、解説・松本包夫 (S56) 学生社刊 27300円

この写真集の内容も、先に記したとおり。
解説の松本包夫は、正倉院の織物に関する著作で知られるが、龍谷大学で井上博道の同期生であったそうだ。

私が、井上博道と仏像写真作家を知り、その魅力を知ったのは、この本。
現在でも、落ち着いた叙情性ある仏像写真は、光彩を放っている。
カラー写真35葉、モノクローム写真65葉で構成されているが、モノクロ写真の方が隠れた仏たちの魅力を存分に引き出しているように思える。

この本は、平成22年(2010)に、ハンディーな単行本で再刊された。

「隠れた仏たち」、松本包夫著 高岡和也編纂 井上博道写真 (H22)  ピエ・ブックス刊 【263P】 2940円

    



長々と書き綴ってきたが、近代仏像写真の先駆者たちと、奈良在住の写真作家たちについての話を、そろそろ終えることとしたい。

仏像写真作家たちが、それぞれの思いを込めて撮った仏像の写真。
それは、仏像の美しさや魅力を写し出し、仏像好きにしてくれた。
また、仏像の知られざる美しさを引き出してもくれた。

それぞれの作家の仏像写真を眺めてみると、小川一眞の、小川晴暘の、入江泰吉の、それぞれの「仏像の美」を、また新たに発見することができる。
写真家たちの仏像写真集のページをめくれば、それぞれの「古寺巡礼、仏像巡礼の世界」へ我々をいざなってくれるのである。

今回は、仏像写真の先駆者と、奈良在住の仏像写真作家をたどる話であったが、いずれ機会があれば、このほかの仏像写真作家についても採り上げてみたい。





 参  考
  第 二十七話近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
 〈その4〉 奈良の仏像写真家たち 

〜関連本リスト〜

書名
著者名
出版社
発行年
定価(円)
写された国宝  東京都写真美術館企画監修

H12

月刊文化財517号〜特集・写真と文化財
文化庁文化財部監修
第一法規
H18
734円
横山松三郎〜140年前の江戸城を撮った男
岡塚章子編
東京都江戸東京博物館
H23

中橋和泉町・松崎晋二写真場
森田峰子
朝日新聞社
H14
2500円
写真界の先覚 小川一眞の生涯
小澤清
近代文芸社
H6
1800円
百年前にみた日本〜小川一眞と幕末・明治の写真

行田市郷土博物館
H12

奈良百題
高田十郎
青山出版社
S18
5.1円
奈良美術研究
安藤更生
校倉書房
S37
1200円
南都逍遥
安藤更生
中央公論美術出版
S45
1200円
工藤精華・作品集

徳島県出版文化協会
S56
600円
酔夢現影〜工藤利三郎写真集
写真が語る近代奈良の歴史研究会編
奈良市教育委員会
H4
非売品
国宝を写した男 明治の写真師・工藤利三郎
中田善明
向陽書房
H18
1500円
奈良いまは昔 
北村信昭
奈良新聞社
S58
8000円
三月堂
安藤更生
飛鳥園
S2
1.8円
美術史上の奈良博物館
安藤更生
飛鳥園
S4
2.8円
日本美術史資料
美術資料刊行会編
飛鳥園
S10〜12
7.4円
上代の彫刻 
上野直昭・小川晴暘
朝日新聞社
S17
15円
大同の石仏
小川晴暘
アルス社
S16
1.2円
大同雲岡の石窟
小川晴暘
日光書院
S19
18円
日本文化図説
小川晴暘編
養徳社
S21
60円
アジアの彫刻
小川晴暘写真、小川光暘監修
読売新聞社
S43
5000円
雲岡の石窟
小川晴暘
新潮社
S53
5500円
小川晴暘の仏像
毎日新聞社編
毎日新聞社
H24
16800円
奈良飛鳥園
島村利正
新潮社
S55
1100円
奈良登大路町
島村利正
新潮社
S47
700円
飛鳥園仏像写真百選
小川光三編集
学生社
S55
24000円
続飛鳥園仏像写真百選
小川光三編集
学生社
S56
24000円
小川晴暘と奈良飛鳥園のあゆみ
飛鳥園編集
奈良県万葉文化館
H22

大和古寺風物誌
亀井勝一郎著・大鍬四郎写真
天理時報社
S18
3.1円
大和古寺風物誌
亀井勝一郎著・入江泰吉写真
創元社
S28
450円
天平・復刻合冊

刊行事務局・楠田三郎
H3
価格表示なし
大和路
入江泰吉
東京創元社
S33
2800円
大和路 第二集
入江泰吉
東京創元社
S35
3000円
大和路遍歴
入江泰吉
法蔵館
S56
1300円
入江泰吉自伝〜「大和路」に魅せられて
入江泰吉
佼成出版社
H5
1500円
大和路雪月花〜入江泰吉写真人生を語る
入江泰吉
集英社
H3
2200円
「写真家・入江泰吉が残そうとした奈良」芸術新潮1992年4月号

新潮社
H4
1100円
仏像の表情〜入江泰吉写真集
入江泰吉
新日本美術振興協会
S53
24000円
仏像大和路
入江泰吉
保育社
S52
38000円
東の大寺
カメラ・佐保山堯海、文・上司海雲、絵・杉本健吉
淡交新社
S35
480円
東大寺
佐保山堯海
座右宝刊行会
S48
4500円
知識と鑑賞・仏像彫刻
岡直己解説
鹿鳴荘
S27
120円
日本彫刻美術
小林剛・松本楢重編集解説
永野鹿鳴荘
表記無
500円
奈良の仏像七十
写真・永野太造、解説・青山二郎
岡村印刷工業
H2
非売品
美の脇役
産経新聞社編、写真・井上博道
淡交新社
S36
550円
写真集・隠れた仏たち
写真・井上博道、解説・松本包夫
学生社
S56
27300円
隠れた仏たち
松本包夫著 高岡和也編纂 井上博道写真
ピエ・ブックス
H22
2940円




 


       

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