埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十三回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(8-10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




【入江泰吉・人物伝】

入江泰吉は、明治38年(1905)、奈良市片原町に生まれた。

古美術の鑑定修理を営む父、呉服商の老舗に育った母の七男一女の末っ子であった。
兄弟はそれぞれ、絵画、鋳金、彫刻、古美術などの途をめざすという家庭環境に育った。 入江の、古美術品への造詣の深さや、落ち着いた美的感性などは、こうした家に育った故のものかと思われる。
11歳の時、東大寺の戒壇院に近い、水門町に転居している。
現在の、入江の旧宅の地であろう。

十代では、画家のへの夢を抱き、油絵に熱中するが、次兄の反対で画家の途を断念。
長兄から譲り受けたコダックカメラを手に、写真に打ち込むようになり、20歳の時、写真家を志望して、大阪のカメラ卸店に就職。
26歳の時、独立して大阪の鰻谷仲之町に写真店「光芸社」を開いた。

昭和6年(1913)の事であった。

    
昭和7年頃の入江泰吉            光芸社前での入江泰吉

「光芸社」では、写真機材の販売のほか、PR写真、記録写真、映画撮影などを手掛けた。
事業は順調な時もあり、経済的困窮に陥った厳しい時もあったようだ。
昭和10年代に入ると、世の写真熱の高まりと共に、写真研究会「光芸倶楽部」を設立し、自らも写真美術展に出展、受賞するなどしている。


入江泰吉が、プロの写真作家として認められるようになったのは、「文楽」を撮影した写真によるものであった。

入江は、昭和14年(1939)に、知人で文楽通の斉藤清二郎から、著作に挿入する文楽写真の撮影を依頼される。
そして文楽座に通うようになり、文楽の「かしら」の魅力にとりつかれてしまう。
以来、5年間、文楽座に通いつめ「かしら」から舞台裏の隅々まで、黄金期の文楽を写し納めた。

そして、この渾身の成果を、昭和15年、「春の文楽」と題する組写真で「世界移動写真展」に出品、最高賞を獲得する。
この写真展はプロ作家の登竜門とも云える写真展で、長年の努力が報われる。

    
入江泰吉  文楽写真

余談であるが、この賞の副賞に「世界一周旅行」がついていたが、日中戦争拡大のために中止になってしまった。
「この時は本当にがっかりした」と自伝で語っているが、結局の処その後も、入江は生涯一度も海外に出向くことはなかった。

翌年、毎日新聞社主催の「日本美術写真展」にも組み写真「文楽」を出品、文部大臣賞を受賞する。
入江泰吉は、これにより写真家としての地歩をしっかりと固めることができた。
昭和16年(1941)、入江36歳の時であった。


昭和20年(1945)3月、大阪大空襲で自宅が全焼し、全てを失ってしまう。

仕方なく、奈良へ引き上げ、夫婦下宿住まいで終戦前後の日々を過ごすことになる。
入江は、この時期に、感銘を受け心に残る二つのことを体験する。
この体験が、写真人生にとっての大いなる転機となり、「奈良大和路を写す美術写真作家」の途を歩ませることとなるのだった。

その一つは、亀井勝一郎著の「大和古寺風物誌」という本に出会ったことであった。

入江は、ある日ふと立ち寄った古本屋で、この本を見つけて、その題名に惹かれて買い求める。
そしてこの本に触発されて、ふるさと奈良の古寺遍歴を思い立ち、東大寺を振り出しに、薬師寺、唐招提寺、法隆寺、法起寺など数々の古寺を訪れる。

入江は「大和古寺風物誌」との出会いを、このように語っている。

昭和18年初版・大和古寺風物誌
「昭和18年発行の初版本で、紙質はザラ紙同然の粗末な本だったが、家財道具はもとより、座右に一冊の蔵書もない侘しさを痛切に感じていたので、帰るなりむさぼるようにしてページをひもといた。
読み進むうちに深い感銘を受け、夜遅くまで読みふけった。
大阪時代に和辻哲郎先生の随想集「古寺巡礼」は愛読していたが、亀井勝一郎という名に接するのはその時が初めてだった。

和辻先生の本は、・・・・・・文化的、美術的な側面から大和の仏教美術にふれた感動を印象記ふうにまとめられている。
これに対して亀井先生の本は、・・・・・・歴史を通して大和への思慕を痛々しいまでに熱く綴った、大和鑚仰の書であった。・・・・・
自分の置かれている状況を重ね合せ、強く惹き込まれたのである。」

また、敗戦後に斑鳩を訪れ、おだやかな自然の風景に接し、このようにも記している。

「やがてはるか彼方の集落の上に、法起寺の塔がうっすらと見えはじめ、大和ならではの風趣に溢れた景観を目にすると、思わず『国破れて山河あり』という言葉が口をつき、この言葉がしみじみと実感されるのであった。・・・・・・・

こうして、『大和古寺風物誌』と題する一冊の本との巡り合いは、私に大和の風物への眼を改めて見開かせてくれ、それからのちの私の人生を決定づける大きな役割を果たしてくれた。」


もうひとつは、東大寺三月堂四天王像が疎開先から戻され、お堂に運び込まれるのを目撃した時のことであった。

昭和20年(1945)11月、入江がたまたま三月堂を訪れたとき、白布にくるまれた担架に載せられた四天王像が、二月堂の裏参道から運ばれてくるのを目撃する。

疎開先から三月堂に運び込まれる四天王像
行列に付き添っていた監視員と堂守から、

「これらの仏像は、いずれは日本の古美術品を欲しがっているアメリカに持ち去られるであろう。
無条件降伏である以上、日本は拒むわけにいかないのだから、仕方がない。」

という話を耳にする。

入江はこの話を聞いて愕然とし、動転しながらも、

「そうだ、自分はカメラマンではないか。
せめて写真に記録しておこう。
いやそうすることが私の使命ではないか。」

と、意を決したと語っている。


入江は、闇市で撮影機材を何とか手に入れ、仏像の写真を撮影し始める。
最初は東大寺戒壇院の四天王像を撮影、それ以後も、東大寺、法隆寺、唐招提寺、薬師寺など著名な諸像をがむしゃらに撮り回ったそうだ。

その頃のことを、入江はこのように語っている。

「罹災によってふるさとに帰り、何気なく買い求めた一冊の本に触発され、古寺遍歴を思い立ち、たまたま思いがけない噂話を耳にしたことから仏像の撮影をはじめたわけであるが、仏像を撮り続けていくうちに、私は次第にその魅力に憑りつかれていった。
需要など考えられない時期であり、発表の機会すら与えられるかどうかわからない写真を、食うや食わずの生活の中で、私はその後も撮り続けた。」

    
唐招提寺講堂・如来立像                東大寺三月堂


こうしたなか、昭和21年春、三月堂の撮影の時、幼馴染みの上司海雲と再会する。

上司海雲
上司海雲は、後に東大寺管長になるが、観音院の住職で、僧としてよりは文化人として著名な人物。
「観音院さん」とか「壺法師」とかと呼ばれ、上司を中心とした文化人サロンは「観音院サロン」とも呼称された。
上司海雲との交遊が再開、深まるにつれ、入江は、著明な文化人との交遊が拡がっていくこととなる。

この頃、観音院に足しげく通っていたのは、志賀直哉、会津八一、広津和郎、小林秀雄、亀井勝一郎、吉井勇、棟方志功、杉本健吉、須田剋太といった面々であった。
昭和21年6月には、これらのメンバーで「天平の会」が発足、機関誌「天平」を創刊する。
3号までしか続かなかったが、入江はこの機関誌の写真を担当した。

    
第1回「天平の会」例会  後列中央・志賀直哉、前列左端・入江泰吉         機関誌「天平」   .

これらの人々との出会いは、入江の写真家としての世界を大きく拡げ、その飛躍をサポートするものであった。
これらの人々が、入江を「奈良大和路の仏像・風景写真家」として、世に送り出したと言っても良いのかもしれない。

杉本健吉、須田剋太は、その後入江の生涯の友となる。


亀井勝一郎は、戦時中天理時報社から発刊した「大和古寺風物誌」を、昭和28年、東京創元社から写真版の「大和古寺風物誌」として出版する。

その際、掲載写真に入江泰吉の写真を指名したものと思われる。
入江にとってみれば、写真家人生を決定付けた「思い出の一冊の本」の掲載写真を担当することができ、その喜びは一方ならぬものであったろう。
その後「美貌の皇后」「唐招提寺」などの著作も、入江の写真が掲載されることになった。
これらの本は、当時、随分売れた本であったので、入江の写真家としての名も広く知られるようになっていく。

    
亀井勝一郎(向かって右端)               写真版・大和古寺風物誌


昭和33年(1958)には、はじめての個人写真集「大和路」を出版する。

これは、小林秀雄の口添えによるものであった。
小林秀雄が東京創元社社長と共に入江宅へ立ち寄り、撮り貯めた写真をみて、
「これを写真集にまとめて出版してはどうか」
と勧めたことによって、出版が成就したという。
序文は、志賀直哉が書いている。
その頃はまだ、古寺や仏像の個人作品集などはほとんど出版されておらず、土門拳「室生寺」が、わずかに発刊されていたという状況。
冒険出版であったらしいが、幸い売れ行き好調で、昭和35年(1960)には「大和路・第二集」が刊行されることになる。
入江、55歳の時であった。

    
小林秀雄                            写真集「大和路」       .


ここに至って、入江は、奈良大和路の仏像写真家、風景写真家としての定評をゆるぎなきものにすることができたのではないだろうか。
昭和34年には、奈良県文化賞・奈良市功労賞を受賞している。

これ以降は、入江泰吉は、仏像写真家、大和路風景写真家として、売れっ子の人気写真家といっても良いような定評を得て、数多くの美術関係書に入江の写真が掲載されるようになる。
また、入江の個人写真集もまた数多く出版される。

和辻哲郎「古寺巡礼」の掲載写真も、昭和30年代からは、小川晴暘に替わって入江の写真が掲載されるようになった。


入江泰吉写真掲載「古寺巡礼」


その後も、入江の活躍は続く。

入江泰吉・79歳(昭和59年)
・昭和51年(1976)には、保育社から出版の豪華大型写真集「古色大和路」「萬葉大和路」「花大和」三部作に対し、日本文学振興会から「第24回菊池寛賞」を受賞。
・昭和52年(1977)には、豪華大型写真集「仏像大和路」を出版。
・昭和53年(1978)には、撮影に8年をかけた労作、写真集「吉兆」を出版。

大変な話題を呼んだ。

まさに、土門拳と並び称される、写真界の巨匠となった。


入江泰吉は、平成4年(1992)、86歳の生涯を閉じた。

妻・光枝さんによれば

「亡くなる日の朝まで、この自選作品集(大和路〜春夏秋冬)につける写真のタイトルを考えていました。
1月16日午前11時5分、自選作品集の巻頭を飾る興福寺阿修羅像の、阿修羅の「羅」の字を書いたところで、突然字が乱れ、横に平仮名で「ら」と正し、それで安心したのでしょうか、それから二時間後に眠るように息を引きとったのです。
主人は興福寺の阿修羅像が好きな仏像の一つでした。
それを最後につけて息を引きとったというのも、なにか不思議な気がいたします。」

という、大往生であった。

 



    
興福寺五重塔                   東大寺二月堂 裏参道


入江逝去の年、平成4年4月、入江泰吉記念奈良市写真美術館が開館した。

奈良市写真美術館
入江は、撮影した写真のすべて、8万点余を奈良市に寄贈し、奈良市はこの寄贈を機に、高畑の新薬師寺のそばに入江の写真他を収蔵、展示する写真美術館を建設、開館することとなっていた。

入江は、開館を楽しみにしていたそうだが、残念ながら、そのオープンの日を迎えることができなかった。
ご存じのとおり、奈良市写真美術館は、入江泰吉の写真作品の企画展を折々開催しており、今も入江の名をたからしめていると共に、我々に入江泰吉の美しい写真を楽しませてくれている。



 


       

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