埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十二回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(7-10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




(3)松岡 光夢

小川晴暘と同じ時期に、奈良の仏像写真家として活躍した人物に、松岡光夢がいる。

私はこの写真家の事は、全く知らなかった。

つい最近、安藤更生が「古代彫刻の写真作家たち」という小文に、このように記していることに気が付いて、その存在を知った。

「飛鳥園と前後して、奈良三条の松岡光夢という肖像写真屋さんも、本職の傍ら国宝を写し始めた。『寧楽』という雑誌の口絵は多くこの人の写真だった。

良い助言者が無かったらしく、小川さんの影響でやった黒バックなどは、像自体が白茶けてしまって失敗作が多い。
黒い布を使はずに、後で膜を切取って黒バックに見せるような投げやりの仕事が多かったせいである。然しその写した乾板は夥しい数であった。」

古美術研究誌「寧楽」
早速、古美術研究誌「寧楽」を取り出して写真を見てみると、巻頭に貼り付けられた数葉の焼付写真には「松岡光夢撮影」と記されていた。
「寧楽」は、栗原武平という人が奈良で発行した古美術研究誌で、大正13年(1924)に創刊、昭和9年(1934)の第16冊まで発刊された。
巻頭写真のほとんどは、松岡光夢の焼付写真が使われている。
この時期はちょうど、小川晴暘の仏像写真が大好評で、飛鳥園が盛業になった頃にあたる。

    
松岡光夢・仏像写真

これら松岡の仏像写真は、上半身アップなどの美術写真であるが、小川晴暘の写真と比べると、それほど主観性を強調することなく、おだやかでありのままを写しだそうとした写真のように思えた。

松岡光夢という写真家について、いろいろ調べてみたが、「本当に忘れられた写真家」であるようで、生没年も判らなかった。
判ったことは、次のようなことだけであった。

松岡光夢は、奈良の写真師・北村武に師事し門下生となり、のちに三条通(芝辻町)にて洋館の松岡光夢写真館を開業。仏像などを撮影していた。
北村武は、明治18(1885)年から奈良市菩提町(猿沢池東畔)で北村写真館を開業していた北村太一の養嗣子。奈良県写真師会の初代会長を、昭和5〜8年まで勤めた人。

松岡の仏像写真は、「寧楽」掲載のほか「日本彫刻精華」という本で見ることができるようだ。
「日本彫刻精華」は、どんな本なのかよくわからない。
国立国会図書館の蔵書検索で見ると、
「松岡光夢編、昭12・昭創書院刊、図版10枚、解説12P」
とあった。
一度機会があったら、どんな写真集か見てきたいと思っている。



(4)入江泰吉

写真家、「入江泰吉」の名を知らない人は、まずいないだろう。

入江泰吉
戦前の奈良の仏像写真家の代表が小川晴暘であるとすれば、戦後を代表する奈良の仏像写真家は、入江泰吉をおいてはない。
入江は、奈良に在って奈良大和路の美しい風景を撮り続けた写真家であった。
そして、巨匠と呼ばれるにふさわしい写真家であった。

東大寺戒壇堂の石段を下って、水門町の住宅が並ぶ静かな道を往くと、右手に「入江泰吉」という墨書きの表札がかけられた住まいを見つけることができる。

入江泰吉の旧宅だ。

生垣に囲まれた数寄屋風の瀟洒な門の前で足を止めると、その静かなたたずまいに、自然に心が和み落ち着いた気持になるような気がする。
門の向こうに、年を経た純和風の住まいが見える。
立派な邸宅というわけではない。
どちらかというと質素な家だ。
入念な気配りが行き届き、静かで抑制が効いた住まいのように伺える。

  
入江泰吉邸

この入江邸の前に佇むと、

「あの静謐で、穏やかで、心落ち着く写真は、この住まいの住人に本当に相応しい」

そんな気持ちになってくる。

入江泰吉の風景写真、仏像写真は、その写真をじっと見つめているだけで、心静かな気持ちになる、仏様に掌をあわせたくなるような気持に自然とさせてしまうような写真だ。
「仏像の美しさに魅せられてしまう」とか「仏像彫刻の造形表現の素晴らしさに感動する」という写真ではない。
「魅惑とか感動という世界」とはちょっと違う、「静かで穏やかな精神世界の境地」を求めているように思えてくる。

  
入江泰吉・仏像写真

同時代に活躍し、入江泰吉と並び称される巨匠に、土門拳がいる。

ご存じのとおり、土門も「古寺巡礼」など、多くの仏像写真、古寺風景を撮影している。
「魂の人・土門拳」「絶対非演出の絶対リアリズム」などと称される、土門拳。

  
土門拳・仏像写真

この二人の写真の対比は、それぞれが写真というものに求めた「めざすもの」の違いを象徴的に物語っていると思う。
入江泰吉と土門拳の写真を、キーワードで対比すると、こんなふうに例えることができるのかもしれない。

「静と動、静謐と気迫」
「穏やかさと烈しさ」
「ありのままの姿を写す写真と、徹底して美を追求する写真」
「奈良の四季と共に在る仏像と、芸術表現の被写体としての仏像」

いずれにせよ、仏像写真の世界に、「入江芸術」「土門芸術」という大きな足跡を残した。
いずれの写真が好きだとか、魅力的だというのは、なかなか難しい。
私にとっては、その時々、どのような心模様にある時に、どのような心象にある時に、どちらの写真を見たくなるかということのように思える。

入江泰吉の写真は、このような表現で評されることが多い。

入江泰吉 薬師寺遠景
「奈良・大和路の情感あふれる風景を生涯にわたって追い続けた写真家、入江泰吉。
麗しくもたおやかな情感とともに、太古にさかのぼる神話や伝説にも通ずるような静謐な気配が伝わってくる作品群は、『奈良』の醸し出す情緒そのものを見事にとらえています。
その作品と一対一で相対したとき、あたかもその場に居合わせたかのような感動と澄みきった心の平穏を感じさせてくれることでしょう。」
(2008年・入江泰吉写真展解説)

また、小林秀雄は、このように記している。

入江泰吉 法隆寺遠景
「近頃新聞雑誌で、よく見かけるコンクールで、直ぐ目につく事だが、・・・・・いつも見損なったり、見すぎたりしている肉眼への、レンズの眼による挑戦だ。
挑戦がもたらす勝利の優劣が問われている。
入江さんの作品の特色を否定的に定義するのは、極めてやさしい。
それは、全くコンクール向きには出来ていない。
この人も『レンズの眼』という言葉を使うが、使い方がまるで逆で、何とかして、これが肉眼と折り合えないものか、ということになっている。」
(入江泰吉写真集「仏像大和路」序文)


入江泰吉自身は、自らの写真について、どのように語っているであろうか。

「私の写真は、一見して平凡に見られやすい。
アマチュアの方に、『なんだ。これなら俺にも撮れる』と言われたことは、一再ならずにあった。
そうした意味では、むしろ写真にかかわりのあるなしを別にした、初めは作家、画家、文芸評論家といった専門外の方々に認めていただく方が多かった。
それは、表面の映像の良し悪しでなく、そこから響いてくるリアリズムを汲み取っていただけたからではないかと思う。」
(入江泰吉自伝)

「仏像写真を撮りはじめた頃、私は仏像を単なる彫刻作品としてみる気持ちが強かった。・・・・・
しかし、考えてみれば仏像は本来、芸術作品である前に、祈りを捧げる神聖な偶像である。・・・・・・仏像が持つそうした側面を、私は見落としていたのだ。
・・・・・・・
ともかく、うかつにライティングをもてあそんだり、アングルに奇をてらったりすると、実際のイメージとはかけ離れたものになりかねない危険を、この時(秋篠寺伎芸天をろうそくの明かりで色々な角度から照らしてみることがあった時)、強く教えられた。・・・・・
仏さまを撮る場合は、あくまでそれ自体がすぐれた造形芸術であり、本来は祈りの対象であるから、その姿をできるだけ忠実に再現する、ということを大切にしたい。・・・・・
なまじの技巧は、ほんとうの美しさや味わいを壊してしまいかねず、それを恐れるのである。」
(入江泰吉自伝)

  
法隆寺百済観音             薬師寺東院堂聖観音

「30年来、この大和路をカメラと共に歩んできて感じたことは、日本人の心、あるいは大和路の心をつかんでみたい、ということです。・・・・・・
豊かな自然があって、そこにそういう文化が生まれ、日本人の思想形成あるいは文化形成がなされていった大和路……無意識のうちにも、そこに惹かれていたのでしよう。」
(私と大和路)


少々引用が長くなってしまったが、これらの「評論や語り」のそれぞれが、入江泰吉の写真の本質と魅力を言い尽くしているように思える。
入江泰吉は、奈良に生まれ、古き奈良を愛し、仏像に祈り、奈良の四季と共に生きた写真家であったという思いが、あらためてよぎってくる。



 


       

inserted by FC2 system