埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百五十九回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(4-10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




【工藤精華・人物伝】

工藤利三郎は、嘉永元年(1848)、徳島市川内町に生まれた。

どのような家に育ち、青春期を過ごしたのかは詳らかではない。
明治10年(1878)には、西南戦争に従軍、戦後にその戦功により金5百円を受け取ったという。

工藤利三郎・愛用のカメラ
そしてこの5百円を写真機の購入に充て、写真師の道に入った。
明治11年の事であった。

工藤は写真師を志した動機を、
「当時、貴重な美術工芸品が外国人に安値で買いたたかれ、しかも無造作に売り払っている日本人の無知をあびせられているという状況を目の当たりにして義憤を覚え、写真技術を身につけて日本の文化財を永久に記録にとどめておきたいと考えたからだ」
と、後に語っている。

東京で写真技術を身につけた後、明治16年頃、故郷に錦を飾るかのように徳島に戻り、写真館を開業した。
記念写真や、肖像写真撮影を業とする写真館であった。
ところが、徳島では同業写真館5店が入り乱れる熾烈な営業競争が巻き起こってしまう。
定価値引きの過当競争で、工藤写真館はこの競争に敗れ、営業不振に陥る。


明治26年(1893)、工藤は、不振の徳島の写真館を閉じ、奈良に移り住む。
猿沢池東畔の菩提町245番地に写真館を開いた。

工藤は後の日記に、
「好古ノ癖愈長シ、終ニ居ヲ美術ノ淵叢タル奈良ニ移ス」
と、記しているように、
奈良では古美術写真専門の写真家としてスタートした。

ようやく、写真師を志した時の初心の道を歩み始めたわけであるが、工藤精華はこの時、もう熟年とも云える45歳となっていた。
徳島の写真館が順調に営業出来ておれば、工藤はきっと奈良の地に移ることもなかったのであろう。
不思議な人生の縁という気がする。

奈良定住をきっかけに、美術写真家・工藤利三郎の新しい人生が開花し、本領が発揮されるのであるが、その真価が評価されるまでには、未だ十数年の時間を要した。

当時は、古寺の仏像の撮影了解を得るのも一筋縄ではいくものではなかったし、撮影を許可されても、フラッシュをたくなどということは許されず、自然光で撮影するしかなかった。
後に弟子となった橋本孟貴が、工藤から伝え聞いた話によれば、法隆寺の壁画や釈迦三尊像などはシャッター不要でレンズキャップを開放したまま2〜3時間も待ち続けたとのことだそうだ。

こうして苦労を重ねて撮影した焼付写真を、工藤は写真館に並べて販売した。
工藤の写真は、当時の文化人には好評で、明治42年(1909)に開業した奈良ホテルの売店では外国人向けの土産物として販売されていた。
まだまだ高価なもので、裕福な人や外人観光客でないとなかなか買えなかったようだ。


そして、古美術写真の撮影に憑りつかれ続けた弛まぬ苦労が、日の目を見る時が来る。

古美術写真集「日本精華」第一輯の刊行である。

明治41年(1907)のことであった。
コロタイプ印刷、布クロス装、掲載写真は100点、定価は20円であった。
有名な腕の折れた興福寺阿修羅像の写真は、この第1輯に収録されている。
「日本精華」の表題の字は、近衛文麿の父、近衛篤麿の書によるものだ。

   
日本精華 第一輯               日本精華第一輯掲載の興福寺阿修羅像

工藤は、奈良で開業した直後に近衛篤麿との何らかの接点があったようで、近衛に手紙で「あなたの写真は日本の精華である」というほめ言葉をもらっている。
工藤利三郎が「精華」と号したのも、この近衛の言葉をいただいたものであり、工藤写真館の屋号も、工藤精華苑と称するようになっていたのであった。(精華堂と称していた時もあった)

この「日本精華」、高価に過ぎたためか、評価の高さに較べて売れ行き好調とまではいかなかったようだ。
米10キロの値段が1円56銭であった頃の、定価20円である。
しかし工藤は、頑固一徹の一念とでもいおうか、決して採算に合ってはいないであろう「日本精華」の続編を、たゆまず刊行し続ける。

「日本精華」は、大正11年、10輯を以て完結する。その後大正15年に特別号が刊行され、第11輯が全巻となった。
第1輯刊行から、実に18年の長い道程であった。


工藤精華苑は、当時の奈良では一番の古美術写真店であったので、奈良を訪れる学者や著名人が仏像写真などを求めて訪れたようだ。

「日本精華」第一輯が刊行された明治41年ごろ、奈良の精華苑を訪れた、里見敦の文章が残されている。
木下利玄、志賀直哉、里見敦の三人で奈良を訪れた時の紀行文である「若き日の旅」(S15・甲鳥書林刊)に、このように記されている。

「荷を預けて置いた博物館前の茶店により、絵葉書や写真などを見ながら、発って来るまえに園池に頼まれた、戒壇院の四天王のうち、右に槍を突き、左を腰にあてがっているやつはないかと、と訊くと、猿沢の池のそばの、工藤という店なら、
『どないなとすいたのがござりやす』
との答に、荷を提げて、そこに行く。

店番をしていた50格好の、でっぷり肥った婆さんが、真鍮縁の眼鏡越しにぢろりと見迎えて、
『いらしゃい』
故郷を出て、もちと大袈裟すぎるが、いつかもう9日目、『おいでやす』に馴れた耳へ、いきなりこの関東弁は、ばかに歯切れよく、それ以上、懐かしくさえ聞きなされた。
成程、写真は、大抵なんでも揃えてあったし、どこそこの何々と、習わぬ教にもせよ、建築、彫刻、絵画、悉く現物の名称も暗記じていたが、それが、清教徒のわれわれにとっては、少々どぎつすぎる代物で、あとで、『自然派婆』と名づけられることになったが・・・。

・・・・・・・・・・

天平時代の十二神将は、これから新薬師寺に行って現物を見る筈だが、写真も素晴らしいので、めいめいたしない小遣から、成可く重複しないように、二三枚、或は四五枚づづ買った。
園池に頼まれた四天王の、槍を持ったやつもあって、いづれも鶏卵紙の四つ切、一枚いくらしたか、我々の財布にとっては、かなりの痛手だった。」

この紀行文でも見られるように、当時、工藤精華苑の古美術写真は、結構高価なものであったこのがうかがえる。


会津八一と工藤精華との交流が始まったのも、この頃のことである。

会津八一
会津八一が工藤精華を訪ねたのは「日本精華」第1輯が刊行された明治41年(1908)頃、会津27歳、工藤60歳の時であった。
こんなエピソードが、残されている。

工藤は、若き会津を可愛がり、拓本の撮り方を教えたり、何かと面倒を見ていた。
若い会津のことを「博士」と呼んだり、「娘を嫁にもらえ」などと良く口にした。

ところが、小川晴暘が大正11年に古美術写真館「飛鳥園」を開業し、会津が小川の「飛鳥園」に肩入れするようになると、
「あんな奴は恩知らずだ」
と会津に口も利かなくなった。
会津が歌集「南京新唱」を出版し評判になっても
「田舎者の若造が奈良に住まないで、なにを偉そうに古都の美術がわかるのか」
と、反発していた。

工藤の一徹の頑固親父ぶりが、うかがえる話だ。


もう一つ、工藤精華の養女コトノのことについても、ふれておきたい。

工藤は生涯独身で過ごしたが、徳島時代に二人の女の子を養女に迎えた。
一人は、その後折り合いが良くなく家を出るが、工藤はコトノを溺愛していたようだ。
コトノはなかなかの美人で聡明であったようで、工藤はその才能を磨くため、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学させ、生田流筝曲を学ばせると共に、名古屋の松阪検校に弟子入りさせ、芸事に精進させている。
その実力は、大正4年、御大礼奉祝演奏会に特別に選ばれ演奏するなど、かなりの評判であった。
工藤は、著名人が奈良を訪れると、コトノを自慢するためにも、琴の演奏で賓客をもてなした。

明治37年(1903)奈良を訪れたベルツ博士の日記にも、琴を弾いた話が、このように記されている。

ベルツ博士夫妻
「例の写真師のところで、たくさん写真を買い求めた。・・・・・・
二十歳になる写真師の一人娘は非常に美しくて誰の眼にも立つらしく、自分もすでにそのうわさを聞いていた。・・・・・この娘も往々にしてウリのつるにナスのなることを証明している。」

(そして頼みに応じて娘を診断したところ)

「両親は嬉しさのあまり、娘に命じて自分のために琴を弾き、歌を歌わせたが、この慰みは自分の苦手で、寧ろお断りしたかった。
ところで、これらの人々の生活状態が、主人の能力から考えてつつましいのに驚いた。
明らかにかれらは、全財産を娘の教育にささげているのだ。」


「日本精華」の刊行で、美術写真家・工藤利三郎の名声が高まると共に、学者や著名人との交流の増えていったのだが、大正15年、第11輯・完結編の刊行が終えた工藤精華は、体力の衰えから撮影の機会も少なくなり、また長年の酒びたりともいうべき飲みすぎがこたえ、昭和3年には胃潰瘍で病の床に臥す。

昭和4年7月、養女コトノに看取られ、81歳の生涯を終えた。
葬儀は、後に法隆寺の管長になる興福寺執事・佐伯良謙が導師となって執り行われた。

「大覚院酔夢現影居士」

佐伯が亡き工藤精華に諡った戒名であった。



工藤の撮影した写真とガラス乾板は、その後コトノにまもられてきた。

猿沢池東畔に残されていた頃の工藤精華堂の旧居
一時は、売却を考えたこともあるようだが、そのコトノも昭和39年に80歳で亡くなる。

葬儀の世話をした鹿鳴荘主・永野太造が、その後、すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた膨大な量のコロタイプ写真を保存に心を砕く。

写真原版と共に市に寄託、工藤利三郎の名を残すことを提唱し、昭和42年に、その実現を見たということだ。
鹿鳴荘主・永野太造は、奈良国立博物館そばで仏像写真の販売や美術出版を手掛けてきた仁で、この稿の後段で紹介していきたいと思っている人物。

このおかげで、工藤精華の写真・原版は救われることになり、現在は、奈良市写真美術館に収蔵され、国登録有形文化財に登録されるまでに至った。
「一時期は忘れられた古美術写真家、工藤精華」の名を残し、功績を今に伝えることが出来たのであった。



【工藤精華についてふれた本】

文中でも工藤精華を採り上げた本についてふれたが、ここでまとめて紹介しておきたい。


「奈良百題」 高田十郎著 (S18) 青山出版社刊 【350P】 5.1円


郷土史家で奈良通の高田十郎が、奈良の古文化や古美術に因むエピソードや人物紹介を、百話にまとめた本。
第25話に「古美術写真草分けの翁」と題して、工藤精華の話が語られている。
工藤精華の業績と共に、生い立ちと人柄、行状などが、面白可笑しく描かれている。

この本は、当時の奈良古美術エピソード随筆というもので、ほかにも「古仏頭と仏手の出現」「細谷氏発見の法隆寺吉祥天」「明珍恒夫氏の急逝」「五十円の五重塔」等々、面白い話が盛り沢山に載せられている。


「奈良美術研究」 安藤更生著 (S37) 校倉書房刊 【225P】 1200円


安藤更生の仏教美術関係の研究論文、小論集として出版された本。

「古代彫刻の写真作家たち」と題した小論が載せられている。
仏像写真作家の歴史をたどり回顧した小論で、草分け工藤精華から始まり、小川晴暘、坂本万七、藤本四八、入江泰吉等が、安藤一流の辛口論評で採り上げられている。


「南都逍遥」 安藤更生著 (S45) 中央公論美術出版刊 【208P】 1200円



安藤更生の遺作随筆集。奈良美術研究外史とでもいえる、こぼれ話や思い出話が沢山収録されている。


「奈良雑記」という章の中で、「工藤精華」という項を立て、小文の思い出随筆が載せられている。内容については、先に記したとおり。



「工藤精華・作品集」 (S56) 徳島県出版文化協会刊 【32P】 600円


副題に、「徳島県が生んだ美術写真の先覚者」とある。
この副題のとおり、徳島県人としての工藤の功績を讃えて、発刊された小冊子。

解説文等はほとんどなく、工藤精華の撮影写真集となっている。
資料提供者に奈良市教育委員会の名が挙げられているので、写真・原版が奈良市に寄贈されて後、文化的功績大なる郷土人として再認識されたのではないだろうか。


「酔夢現影〜工藤利三郎写真集」 写真が語る近代奈良の歴史研究会編 (H4) 奈良市教育委員会刊 【176P】 非売品


先に記したように、工藤の写真資料が奈良市に寄贈され、その整理保存完了を機に、工藤利三郎の遺作の復元出版が企画され、刊行された本。
「日本精華」11輯収録写真を中心に、202点の写真が掲載された豪華写真集。

工藤精華の関係年譜、「工藤利三郎評伝」(中田善明)も収録されている。
この研究会の調査と本書の発刊で、忘れられていた工藤精華のことが、再び世に知られ再認識されるようになったのではないだろうか。


「国宝を写した男 明治の写真師・工藤利三郎」 中田善明著 (H18) 向陽書房刊 【310P】 1500円


工藤利三郎の生涯を描いたセミノンフィクション評伝小説。

著者・中田善明は、あとがきに、
「今回の本書の出版は、『写真が語る近代奈良の歴史研究会』の一員として参画したことによって知り得た工藤利三郎の大きな足跡を少しでも多くの人に理解していただければとの思いで書きまとめたものである」
と記している。

工藤という、偉大であったが、ちょっと変わった人物への愛惜の情が込められた本。
工藤の生涯を詳しく知ることができる。


「奈良いまは昔」 北村信昭著 (S58) 奈良新聞社刊 【232P】 8000円


近代奈良の昔話、思い出話を、写真と小文で綴った本。奈良新聞に連載されたものをまとめた本。

著者は、奈良在住で長らく新聞記者をつとめ、奈良通中の奈良通といわれた仁。
「工藤精華堂」という項立てが設けられ、「ベルツ博士とお琴さん」という副題で、工藤精華堂の様子と養女コトノさんの回顧が綴られている。
コトノさん逝去後、写真・原版の奈良市寄託へ至るいきさつは、本書の中で語られている。



 


       

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