埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百五十回)

   第二十六話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その3>明治の文化財保存・保護と、その先駆者

〜町田久成・蜷川式胤

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【目次】


はじめに

1.明治の古美術・古社寺の保護、保存の歴史をたどって

2.古器旧物保存方の布告と、壬申検査(宝物調査)

・古器旧物保存方の布告
・壬申検査
・正倉院の開封調査

3.博覧会・展覧会の開催と博物館の創設

・博覧会の季節〜博物館は勧業か、文化財か?
・奈良博覧会と正倉院宝物、法隆寺宝物

4.町田久成と蜷川式胤という人

・町田久成
・蜷川式胤

5.日本美術「発見」の時代〜フェノロサ、岡倉天心の活躍

・古美術展覧会(観古美術会)の開催と、日本美術への回帰の盛上り
・フェノロサと岡倉天心

6.古社寺の宝物調査への取り組み

・日本美術の発見
・臨時全国宝物取調局による調査と、宝物の等級化

7.古社寺の維持・保存、再興への取り組み

・古社寺保存金の交付開始
・古社寺再興、保存運動

8.古社寺保存法の制定と、文化財の保存・修復

・文化財保護制度の礎、古社寺保存法
・奈良の古建築、古仏像の修理修復〜関野貞と新納忠之介〜

9.その後の文化財保護行政

・古社寺宝物の継続調査
・その後の、文化財保護に関する法律の制定




3.博覧会・展覧会の開催と博物館の創設


明治初期、殖産興業をはかるための博覧会が多く開催され、併せて古器古物の収集展示も博覧会で行われる。

町田久成は、この博覧会を主導担当する立場にあり、博覧会などでの資料収集を進めると共に、それを展示することのできる博物館を、我が国に創設することを念願として、その実現に総力を挙げて取り組む。
そしてついに念願の博物館を、明治15年(1882)に「上野の博物館」として開設し、初代館長に就任する。

そこに至るまでのいきさつや、奈良での展覧会の開催とそれにまつわる話などを、たどっていきたい。


【博覧会の季節〜博物館は勧業か、文化財か?】

明治維新後の政府は、殖産興業を最重要政策とし、これに資する物産、製品などの見本市としての「勧業博覧会」の開催が急務であった。

町田は、明治3年(1871)この推進担当として大学(文部省)に着任する。
明治6年(1873)には、ウィーン万国博覧会が開催される。新興国日本の存在を知らせる好機として、国を挙げての参加準備が始まる。

この前後、国内では次のような博覧会が開催されている。

・明治4年5月、旧幕府西洋医学所薬草園で「物産会」開催。
・明治5年3月、湯島聖堂で「博覧会」開催。
・明治10年8月、上野の山で「第1回内国勧業博覧会」開催


湯島聖堂博覧会錦絵(一曜斎国輝画)

これらの博覧会、大変な人気で、大賑わいであったようだ。

この博覧会で展示されたものは、いわゆる天産物と古器古物が入り混じっていた。
湯島聖堂博覧会記念写真
(前列左から2番目・蜷川式胤、4番目・町田久成)

殖産興業のための博覧会ということからは、当然に工業、農業、天産物品が展示されるし、博物資料としては、植物、動物などが展示され、古器古物ということでは、工芸品、絵画などということになる。
今でいうと、産業見本市と自然科学館と美術博物館が、渾然と同居していたような感じであったのだろう。


ウィーン万国博では、日本の漆工芸、陶磁器などの工芸美術品が大人気となり、最有力の輸出振興手段として位置付けられたりしたので、殖産品と文化財が益々渾然としたものだと思われる。

そして当時、「博物館」という呼称は、これらすべての博物を収集展観する場所の呼称として使われていた。

内山下町・博物館
明治6年には、「博物館」は湯島から内山下町の旧薩摩藩邸(その後の鹿鳴館用地)に移転するが、博物館の正式名称は「博覧会事務局博物館」と云い、勧業博覧会の施設群の一部として位置付けられていた。
「博物館」と共に、動物館、動物細工所、生糸所といった施設も設けられており、殖産興業色の強いもので、家畜と同居する博物館という状況であった。


こうした中、政府は、町田久成や佐野常民の建言もあり、東京に「大博物館」を建設する方針が決定する。

「大博物館」建設となったが、その中身、性格をどのようなものにするのかは、大きな問題であった。
「殖産興業のための大博物館にするのか」「古器古物など文化財展示のための大博物館にするか」という戦いであった。
殖産興業派の急先鋒は、田中芳男。文化財展示派は、町田久成であった。

町田久成は、明治4年「古器古物保存方発布」の建言の時に、早くも「博物館を建設すべきである」と言っているが、実は、「博物館」という用語を使っていない。
「集古館」という言葉を使っている。
この当時、もう「ミュージアム」の訳語として「博物館」の用語は存在していた。
町田が、この用語をあえて避けて「集古館」という言葉を使ったのは、当時の「博物館」という訳語は、「常設の物産会や博覧会」という意味で用いられることが多かったからだ。
町田は、古器古物(文化財)を展示することを目的とした博物館の建設を目指したかったので、あえて「集古館」という古い言葉を用いたのだった。
我が国に「大英博物館」に倣った文化財展観のための大博物館を、創りたかったのであった。


この「大博物館」は、明治15年(1882)、上野の山にコンドルの設計で建設され、開館する。
現在の、東京国立博物館の場所である。

  
コンドル筆・上野の博物館              開館当時の上野の博物館

開館に至るまでには、田中芳男と町田久成との大変な確執があり、策謀もいろいろと謀られたようだ。

熾烈な攻防の末、3月の開館時には、文化財展示派の町田久成が館長に就任する。
ところが、7か月後には町田久成が館長を解任され、殖産興業派の田中芳男が館長となる。
そしてその7か月後、この田中芳男もまた更迭され、宮内省の杉孫七郎が館長に就任する。
この裏に、何があったのかはわからないが、「上野の博物館の国家的性格付け、意義づけ」について、殖産興業派と文化財展示派の、ドロドロした政治的策動がうごめいた結果であろうことは、間違いないだろう。

宮内省出身の新館長・杉は、町田を博物館に呼び戻す。
元館長であった町田は、史伝課長として1年半在任し杉をサポート、日本の古き文化を伝える文化財博物館として、その皇室化に向かう取り組みを行った。
その後、「博物館」は、明治19年には農商務省から宮内省所管に変更され、帝室博物館となる方向付けの基礎が固められた。


今振り返ると、我々は、町田久成に「大いなる感謝」をしなければならないように思う。
町田の深慮遠謀による「文化財展示博物館」建設への執念がなければ、今あの上野の地の「東京国立博物館」の姿はなかったのかもしれない。
それにもまして、我が国の古文化財保存の重要性への取り組みや、文化財展示博物館の充実は、大変な後れを取ってしまったのかもしれない。



【奈良博覧会と正倉院宝物、法隆寺宝物】

東京における博覧会の開催のありさまと博物館開設の経緯について振り返ってみたが、その当時、古都奈良方面での文化財の保存や展示については、どのような状況であっただろうか?

実は、奈良でも博覧会が開催されている。

第一回奈良博覧会は、早くも明治8年(1975)4月に、東大寺大仏殿と回廊を会場にして開催された。
この展覧会、町田久成や蜷川式胤の助力によって行われたといわれる。
開催にあたっては、当時の奈良県令・藤井千尋の勧めで地元有力者が奈良博覧会社を設立して開催され、書画、古器古物、動植物標本、機械類が展示された。
東大寺・法隆寺・春日大社など大和の有力な社寺や諸家が所蔵する什宝や書画などが、多数出品された。

   
第一回奈良博覧会・物品目録              第一回奈良博覧会目録・華原磬

なかでも、明治5年の壬申検査で開封された正倉院御物が出陳されたことは、特筆すべき出来事で、約220件にのぼる品目が展示され、非常な反響を呼び観客数が17万人を超え人気を集めた。
この博覧会は、以降15回にわたって明治23年まで開催される。

この奈良博覧会、町田、蜷川の意向が反映したことによるのだろう、「古美術品、文化財展覧会」の性格が色濃く出たものであったようだ。
殖産興業色よりも古文化財展示色の強い展覧会が、東京よりも早く、この奈良という地で開催されたのは、古都ならではと感慨深いものがある。


正倉院からは、鳥毛立女屏風、紅染象牙尺、黄熟香、紫壇碁局、金銅投壷、木製黒漆水瓶などの超名品が出品されている。
法隆寺からも、玉虫厨子、橘夫人厨子、伎楽面、金銅四十八体仏をはじめ多数の寺宝が出品され、寺が空になるのではないかと心配になるほど大挙しての出品であった。


   
鳥毛立女屏風                         紅染象牙尺

     
玉虫厨子                     橘夫人厨子・阿弥陀三尊

この奈良博覧会の開催は、正倉院御物の東大寺から国家管理への移行や、法隆寺の宝物の皇室献納といった出来事と、密接な関係があるように思える。
町田久成は、奈良博覧会開催を、博物館の収蔵展示資料の収集推進の一環として考えていたようだ。

町田は、博物館資料収集の方針として、
「東大寺が管理する正倉院の宝物は、博物館に移管する方向で、法隆寺の小金銅仏などについても、皇室から下賜金を渡して献納してもらうという方法で、博物館資料に加えることを検討する」
としていた。

そして現実には、正倉院宝物は、明治5年(1872)町田等によって開封調査された後、明治8年(1875)4月、東大寺の保管から内務省の博物館の所管に移される。
この国家移管と同時に、大量の宝物が奈良博覧会に出品されており、正倉院宝物の博物館資料化への布石のようにも思える。

この移管に際して、東大寺が「何か物を申した」という記録はない。
勅封、聖武天皇の遺愛品とはいえ、千年以上続いた東大寺の所有権というか保管権が、なんの代償もなく国家管理に移されるというのだから、寺側から一言あってもよさそうだが、東大寺にとってみれば、むしろ「廃仏毀釈、古物排斥」の風潮の中、保存に汲々としているのを、有難くも国家管理にしてもらえるという感覚だったのかもしれない。


法隆寺献納宝物のいきさつを振り返りたい。
法隆寺は、明治11年、所蔵の宝物332件を皇室に献納する。

聖徳太子及び二王子像
「聖徳太子及び二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」「金銅四十八体仏」などである。
明治9年、法隆寺は、堺県令・税所篤宛に「古器物献備御願」を提出。11年献納の儀が決定し、酬金として一万円が下賜されるのである。
この一万円で、困窮の極みであった法隆寺も息を吹き返し、8千円で公債を購入、金利年6百円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたという。

この宝物献納も、町田久成の構想によるものであった。

町田は、「壬申検査」(明治5年)や明治8年の奈良博覧会で調査・展観した法隆寺宝物のうち、献納可能なものを、一絡げにバサッと献納宝物に選定したらしい。
面白いことに、まだ献納が裁可されていない明治9年に、法隆寺から「漆塗りの御沓」「七曜剣」「露盤覆鉢」等、寺になくてはならぬ物の「宝物一部返還願い」が提出されたりしており、選定に寺の意思が尊重されたとは到底思えない。
献納宝物は、第2回奈良博覧会終了後、法隆寺へは戻されず、一時、東大寺に保管。
皇室への献納が決まった後、正倉院の宝庫へ移されている。
明治15年(1882)、上野の博物館が開館すると、法隆寺宝物はそちらへ移された。

実現はしなかったが、東大寺や法華寺にも、「宝物を献納して下賜金をもらおう」という動きがあったようだ。

この頃、奈良の大寺は皆、廃仏毀釈の余風の中、寺の維持運営に汲々とし、維持のためには寺宝を売り食いせざるを得ないといった、厳しい状況の中にあった。
町田が主導したこうした動きは、正倉院宝物の散逸、法隆寺宝物の散逸をはじめ、奈良諸大寺寺宝の散逸を防ぐに、大いなる力となったに違いない。


正倉院宝物の方は、博物館の所蔵資料とはならず、宮内省管理となり正倉院にとどめ置かれた。
現在では、東京国立博物館に「法隆寺宝物館」が設けられ、奈良国立博物館では毎年秋「正倉院展」が開催されている。

  
法隆起宝物館と四十八体仏の展示

これを見ると、明治初期に町田が描いた正倉院・法隆寺宝物の博物館展示のビジョンは、今日見事に実現されていると大きな感慨を抱かざるを得ない。



ここで、正倉院の壬申検査での開封から国家管理移管へのいきさつ、奈良博覧会と法隆寺宝物献納実現へのいきさつについて書かれた本を、2冊紹介しておきたい。

「正倉院小史」 安藤更生著 (S47) 校倉書房刊 【203P】 850円


「明治時代の開封と御物整理」という項建ての中で、壬申検査での開封調査のありさまや、国家管理から皇室財産化されるまでのいきさつについて、述べられている。
本書は、昭和22年出版されたものの復刊。
正倉院について書かれた本は随分沢山あるが、明治維新以降の開封から皇室財産化までについて語られた本は、この本を置いてあまり見ない。
経緯だけでなく、著者・安藤更生の法隆寺宝物の明治以降の管理主体と公開の在り方などの所論が述べられており、興味深く読める。


「追跡!法隆寺の秘宝」 高田良信・堀田謹吾著 (H2) 徳間書店刊 【290P】 1800円


本書は、昭和63年NHK特集で放送された「追跡・聖徳太子の秘宝」をもとにまとめられた本。

法隆寺宝物の流転について、面白く書かれている。
「宝物献納の真相」「献納宝物の選定と謎の解明」の項では、奈良博覧会の開催と法隆寺宝物の展示についてや、宝物献納と選定にあたっての町田久成の関与とその動きなどについて、詳しくドキュメントタッチで述べられ、誠に興味深い。


 


       

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