埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十八回)

   第二十六話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その3>明治の文化財保存・保護と、その先駆者

〜町田久成・蜷川式胤

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【目次】


はじめに

1.明治の古美術・古社寺の保護、保存の歴史をたどって

2.古器旧物保存方の布告と、壬申検査(宝物調査)

・古器旧物保存方の布告
・壬申検査
・正倉院の開封調査

3.博覧会・展覧会の開催と博物館の創設

・博覧会の季節〜博物館は勧業か、文化財か?
・奈良博覧会と正倉院宝物、法隆寺宝物

4.町田久成と蜷川式胤という人

・町田久成
・蜷川式胤

5.日本美術「発見」の時代〜フェノロサ、岡倉天心の活躍

・古美術展覧会(観古美術会)の開催と、日本美術への回帰の盛上り
・フェノロサと岡倉天心

6.古社寺の宝物調査への取り組み

・日本美術の発見
・臨時全国宝物取調局による調査と、宝物の等級化

7.古社寺の維持・保存、再興への取り組み

・古社寺保存金の交付開始
・古社寺再興、保存運動

8.古社寺保存法の制定と、文化財の保存・修復

・文化財保護制度の礎、古社寺保存法
・奈良の古建築、古仏像の修理修復〜関野貞と新納忠之介〜

9.その後の文化財保護行政

・古社寺宝物の継続調査
・その後の、文化財保護に関する法律の制定




はじめに

この春(2102/3〜6月)、東京国立博物館で「ボストン美術館展」が開催された。

法華堂根本曼荼羅図、馬頭観音像仏画、快慶作・弥勒菩薩像、吉備大臣入唐絵巻、平治物語絵巻をはじめとして、いずれ劣らぬ日本美術、仏教美術の超名品ぞろい、大盛況の展覧会となった。
ご存知の通り、展示された名品のほとんどが、フェノロサ、ビゲローによって、明治の初めに日本において蒐集された美術品である。
彼らが来日した明治10年代と云えば、仏像や仏画などの貴重な文化財が徹底して破壊された「廃仏毀釈の嵐」の余韻が残っていた頃。
また、明治維新後の盲目的な西洋崇拝の風潮の中で、日本の古美術品が軽視され、文字どおり見捨てられ、二束三文で売り払われていた頃であった。
これらのコレクションも、今では考えられないような安値で手に入れられたものに違いない。

彼らは当時、どのぐらいの値段で、これらの名品を入手したのだろうか。

狩野元信筆・白衣観音図
数少ない記録をたどると、フェノロサは、明治14年(1882)に狩野元信筆「白衣観音図」を25円で、明治17年前後に「平治物語絵巻」を1000円で入手している。
「平治物語絵巻・三条殿夜討巻」は、我が国に在れば絶対「国宝」の、鎌倉時代合戦絵巻物の最高峰・絶品として知られている。(国内に残る2巻は、国宝と重文)
この絵巻、500円で誰も買い手がなかったものを、フェノロサは「自分が買ったことを誰にも口外しないことを条件に」その倍の1000円を払って購入したのだそうだ。
当時、フェノロサは、「美術真説」などで日本美術の優秀性と保護を声高に説いていた時で、

「これは、国宝級のものだから、もし政府の役人でも聞いたら、必ず取り戻す運動をするに違いない、と思って口止めした」

という。


平治物語絵巻・三条殿夜討巻 

しかし、1000円ぐらいは、フェノロサにとってみれば大した高額でもなかった。
フェノロサの月給は、当時300円(明治19年には500円)。
月給の2〜3倍で、手に入れたことがバレると政府が騒ぐかもしれない国宝級絵巻物を買うことが出来たのだから、当時、いかに日本の美術品の価値が見捨てられていたのかを、今更ながらに感じてしまう。


明治維新後の西洋崇拝、旧物排斥の風潮は、並大抵のものではなかったようで、美術品等のような古物は、全く無価値のものとみなされる。
「島津家などは、古く伝わっていた美術品を、長持ちに何十棹も大阪に持って行って商人に売り飛ばし、しかもその代価は係りの役人の旅費や手間賃になったくらいのものだった」
という話も残っているし、
結構な書画や骨董が、骨董屋の店先で店晒しにされたり、金地屏風や蒔絵の器物などは、金を削ぎ取って破却されていたという。
廃仏毀釈の嵐による、仏教美術の破壊、散逸のありさまは、前話(第25話)に詳しく記したとおりであった。

こんな時代にあっても、我が国の古美術の保存保護に力を尽くした人物といえば、誰の名があげられるでしょうか?
そう問われれば、
「それは何と言ってもフェノロサ、岡倉天心でしょう」
と、誰もが答えることだろう。

      
フェノロサ                          岡倉天心

まさにその通りで、この二人が、明治期において、我が国の美術品の価値、優秀性を再認識させ、文化財の保存保護を推進させた、最大の立役者と云って良い。
でも、彼らがそうした方面に活躍するのは、明治15年前後以降のこと。

それまでは、誰も、日本の古社寺の文化財、古い美術品が、打ち捨てられ破壊されるのを止めようとしなかったのだろうか?
誰も、古美術、文化財の保存や保護に尽力した人はいなかったのだろうか?
ふと、こんな疑問が浮かんでくる。

明治維新以降の日本の美術工芸品や文化財の保存、保護への取り組みを振り返るとき、その先駆けとして決して忘れてはならない、二人の人物に行き当たる。

町田久成(まちだひさなり)と、蜷川式胤(にながわのりたね)。


      
町田久成(明治15年頃・44歳)              蜷川式胤(明治12年・42歳)

二人は、早くも明治4年には、明治維新以来古器旧物が散逸したり破壊されたりして失われているのを憂い、その保護の布告を出すと共に博物館(集古館)を建設することを建言し、古社寺の宝物調査も実施している。
そして町田は、上野の博物館(現東京国立博物館)の建設、開館に、力を尽くす。
西洋崇拝、廃仏毀釈のうねりの中でも、こうした風潮に危機感を抱いて、古器古物の保護に立ち上がり、文化財の保護に力を尽くした人達がいたのである。

旧物排斥や廃仏毀釈の事例やエピソードが語られることは多いが、こうした風潮に抗した文化財、古美術品の保存保護への取り組みの歴史が語られることは、意外に少ないようにおもう。
ここでは、明治維新以降の、古社寺、古美術品の保存や保護への取り組みがどのようにどのようになされてきたのか、その先駆者たちについて、振り返ってみることとしたい。


1.明治の古美術・古社寺の保護、保存の歴史をたどって

明治時代の、古社寺、古美術品など文化財の保護保存への取り組みの歴史を振り返ると、大きく三つの時期に区分されるように思える。
明治45年間を、15年ずつ三等分したような感じだ。

第1期は、明治維新から15年頃までだろう。

この時期は国を挙げての「西洋崇拝、古物排斥」の風潮一色であった時。
古美術品や古社寺の保存の重要性を訴え、その取り組みに力を尽す動きはあったものの、こうした古文化財軽視の風潮には抗い難かった時期と云えよう。
当時も美術工芸品は注目されてはいた。
しかし、これは文化財の保護という観点からではなく、殖産興業推進の重要商品という位置づけであった。

ウイーン万国博・日本列品所
日本の漆工芸・陶磁工芸などの美術工芸品は、明治6年のウイーン万国博で人気を博するなど、ヨーロッパのジャポニズムの流行のなかで好まれたことから、輸出振興の最有力商品と位置付けられ、これにより殖産興業を進めようとするものであった。
こうした中で町田久成、蜷川式胤らは、古器古物の破壊散逸を憂い、「古美術の保護」の重要性を説き、古器古物の保存、古社寺宝物調査などに取り組むと共に、集古館(博物館)の建設に力を尽くし、明治15年(1880)には上野の博物館開設までこぎつける。
しかし、その活動は、殖産興業を主眼として展開された博覧会事業に従属しての取り組みを余儀なくされた感がある。
古美術保護の国民意識の高揚に至るには、もう少しの時間を必要とした。

第2期は、明治15年頃から30年頃になるだろう。

日本美術の優秀性を再認識し、日本美術の伝統を守り、古美術品の保護対策を文化政策として推進して行こうとする動きが盛り上がる時期と云えよう。
その意識啓発、政策推進の旗手は、岡倉天心、フェノロサ。
フェノロサが、日本画の優秀性を訴えるなど古来の画法が奨励され、日本美術の再評価が始まる。
東京美術学校が開校(明治22年・1889)したり、近畿地方を中心とした、古社寺の宝物調査が行政施策として何度も実施される。
フェノロサ、天心が法隆寺夢殿の秘仏・救世観音を開扉したのもこの頃だ。(明治17年・1884)
この時期は、政治社会が安定するにつれて、極端な欧化政策に対する反省期が訪れ、国粋的風潮が台頭してきた時期。
美術関連分野にも日本美術の優秀性を再認識しようとする復古的活動が活発となり、意識高揚がはかられる。
美術を殖産興業の手段として利用しようという功利主義的なものから、こうした問題とは別個の文化政策として、日本美術奨励策、古美術・文化財保護策が、行政施策として実施されていく時期と云えよう。

第3期は、明治30年頃以降。

古美術保護が、政府の美術行政上明確に位置付けられ実施推進される時期となる。
明治30年には、我が国の文化財保護制度の基礎を確立した「古社寺保存法」が制定される。
特別保護建造物、国宝の指定が行われ、第1回指定はそれぞれ44件、155件が指定されている。
政府による文化財保護ということでは、この「古社寺保存法」の施行をもって、「文化財保存行政の初め」とされている。
その後、国宝等の文化財指定は着々とおこなわれると共に、古社寺保存に関する予算もつくようになり、奈良の諸寺の建築、仏像の修理修復も着々と実施されるようになっていく。


明治維新以降の、「古美術品や古社寺の保護、保存に関する主だった出来事」を、政府、東京での出来事と、奈良における出来事に分けて、年表風にまとめてみた。
私が、独断と偏見によってまとめたもので、大事なことが漏れていたり、重要度に問題があるかもしれないが、
明治期の文化財保護に関する主要なトッピクスを、年代の流れを追って眺めることができるのではと思う。





 


       

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