埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十六回)

   第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア




【目次】


はじめに

1.奈良県の始まりを辿って

2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平

(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々

3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本

・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本

4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖

(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤

5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本

おわりに




(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑

税所県令は、古墳埋蔵の考古遺物についても、収集癖があった。
銅鏡、銅剣、勾玉、環などの装身具などの好古蒐集趣味であったのだろうか?
そして、県令という権勢を笠に着て、いくつもの古墳を発掘して、考古遺物を手に入れたのでないかと伝えられている。 税所県令がかかわったということが記録に残っている古墳は、松岳山古墳(まつおかやまこふん)、長持山古墳と、美努岡萬墓(みののおかまろはか)だ。

松岳山古墳の石棺
松岳山古墳(大阪府柏原市)は、4世紀ごろの前方古円墳で、江戸時代に7世紀の船王後(ふなのおうご)墓誌(国宝:現在三井記念美術館蔵)が出土している。
この墓誌は、もともと西琳寺にあったが廃仏毀釈の寺宝流出により、税所篤の手中に入った。
このことから、税所は、古墳群を大発掘して内部を破壊してしまった。
古剣や鏡片、車輪石などが発掘されたという。

長持山古墳(墳頂に石棺が在った当時の写真)
長持山古墳(大阪府藤井寺市)は、
「明治10年ごろ税所県令が石棺を発掘して、棺内には銅器・銅剣があり、棺外の土中に甲の埋まっているのを見たという」(図解考古学辞典解説〜小林行雄執筆)
とのことのようだ。


美努岡萬墓の石碑
美努岡萬墓は、明治初年、農家の青年がかまどの土取り中に銅製の墓誌を発見する。
天平2年の年紀のある墓誌(重要文化財:現在東京国立博物館蔵)であった。
この地には、明治11年に、出土墓誌の模造墓誌を制作し、この地に埋納したことを記念する石碑が建てられている。
この石碑に、税所篤の名が刻まれているのだ。
美努岡萬墓も、税所が付近を掘っているのではないかと疑う意見もあるが、明らかではない。



いよいよ、税所篤の所業のなかでも、最も厳しく糾弾されている、極めつけの話に入りたい。
それは「仁徳天皇陵の石室発掘の疑惑」である。

(大山古墳)仁徳天皇陵
税所篤は、明治5年(1872)、

「仁徳天皇陵の前方部で発見された石室を発掘して、そこから副葬品を持ち出した」

といわれているのだ。


そして、仁徳天皇陵出土と伝えられる考古遺物が、何故かボストン美術館に収蔵されている。
「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」だ。
これらが仁徳陵から出土したものであることは、間違いないらしい。
どうしてこのようなことが起こったのだろうか。


伝仁徳天皇陵出土 獣帯鏡、馬鐸、三環鈴(左から)


伝仁徳天皇陵出土 環頭太刀


仁徳陵(大山古墳)は我が国最大の前方後円墳。
江戸時代から天皇陵に比定されているので、宮内庁の厳しい管理下に置かれており、誰もその領域内に立ち入ることは許されていない。
しかし、現実には、仁徳陵出土といわれる遺品が存在する。


仁徳天皇陵遥拝所(宮内庁の厳重管理下に置かれている)

そのいきさつと堺県令税所篤にまつわる話を、辿ってみたい。

明治5年(1872)の初秋、仁徳陵の前方部が一部崩壊して石室が露出し、そのなかから石棺が発見された。
この事件については、次のように云われていた。

「明治5年9月に、仁徳陵の前方部正面中段に土崩れがあり、石棺が露出した。
おそらく台風の豪雨による被害であろう。
当時の記録は宮内庁にあったが、関東大震災で焼け、堺市の旧家にその写しが残っている。
それによると、竪穴式石室のなかに立派な長持型石棺があった。
しかし開けては見なかったそうである。
石棺の外には金メッキの甲(よろい)や冑、鉄の刀、ガラス製の容器などがあり、甲冑の写生図などをつくって、遺物はもとのように埋めたという。
この石棺は前方部にあったのだから仁徳天皇を葬ったものではない。
しかし天皇に親しい関係の人を葬ったのにはまちがいない。」
(井上光貞「日本の歴史」第1巻)


 
仁徳陵前方部から発掘された石室内の石棺の見取り図


 
仁徳陵の復元石棺(堺博物館)                 仁徳陵石室出土の甲冑模写図


このように仁徳陵の石室は台風により土砂崩れでたまたま出現し、その際に石室内部の状況が明らかになると共に副葬品の一部が持ち出された、と長らく信じられていた。
ところが驚いたことに、実は、この自然災害による露出の話は事実ではなく、「税所篤が意図的に発掘、盗掘したのだ」という説が、現在有力になっているのだ。

きっかけは、昭和48年、堺市の旧家に、堺県令、税所篤名の、このような文書が残されていることが、報告されたことによる。

仁徳陵が鳥の巣窟になって汚穢不潔であるので、鳥糞を取り除く為に清掃を行なう伺い出したところ許可されたので、清掃を行なったところ、甲冑や剣、陶器ならびに広大な石櫃が見つかった。
その検分の為に官員の派遣を要請する。

という内容の文書で、教部卿宛に出されている。

この伺いへの回答文書も、併せて残されている。
その内容は、石室・石棺のことには一切触れておらず

鳥糞の掃除は、即刻中止し差し止めること。
墳丘内の仮小屋や小船も撤去すること。

という厳しい口調の内容で、言外に発掘行為を事実上不能にさせるものであった。

この文書に着目した、考古学者・森浩一は、

仁徳天皇陵の石室の発掘は、当時の堺県令・税所篤が、鳥糞の清掃等が必要という口実をつけて、計画的に大掛かりに発掘を行なったものに違いない。
ボストン美術館所蔵の考古遺物は、このときこの石室から持ち出されたのがほぼ間違いないだろう。
明治5年の発掘経過を振り返ると、これらの遺物が、堺県令・税所篤によって持ち出された疑惑はやはり大きく、時間をかけて真相を明らかにする必要がある。

と、論じた。

この説にも、異論がないわけではないが、税所篤が、仁徳陵の石室を、口実を設けて計画的に発掘したという考え方が、現在では主流になっているといってよいようだ。
石室発掘の理由が、台風による土砂崩れであろうと、計画的発掘であろうと、その発掘に税所篤が深くかかわっていたことには間違いない。
税所の強引な収集癖の数々を思い起こすと、考古遺物が持ち出されたのも、税所の手段を選ばぬ収集癖に因するものと考えられても、致し方ないのであろう。


ところで、海を渡ったボストン美術館に、どうして仁徳天皇陵の副葬品であった考古遺物があるのだろうか?
これについては、このような物語が伝えられている。

明治25年(1892)の秋のある日、堺市南部のある古い神社の宮司のところに、「百舌鳥村の百姓」と名乗る老人が訪れた。
そして「油菜の種を買う金が欲しいから」といって取り出したのが、鏡、環頭太刀の把頭、それに三環鈴と馬鐸であった。
驚いた宮司が「大山陵のものではないか」とたずねると、老人は否定するでもなく、ただ微笑むばかりであった。
こうしてこれらの遺物は好古趣味の宮司によって愛蔵されることになったのである。
ところが数年後、京都の有名な古美術商にせがまれて、やむなく手離すことになったのだが、時を経て、鏡と刀の把頭がボストン美術館に飾られていることを知って宮司は感無量であった、という。
(玉利勲著「墓盗人と贋物づくり〜堺県令税所篤の発掘」)

この話は、昭和13年(1938)平林悦治が、宮司の子である友人から聞いた話として紹介したもので(考古学9巻11号)、遺物の写真も添えてあるそうだ。

この話の真偽はどうなのだろうか。
本当の話だとすれば、老人はどうのようにして副葬品を手に入れたのであろうか?
発掘時に、これらの副葬品は堺県令・税所篤の手元に入っていた筈だとすれば、その後に他人の手にわたっていったことになる。
そもそも、始めから税所の手元に所蔵されたということ自体なかったのではないか?
仁徳陵出土の副葬品であるという根拠や証拠は、この物語だけでは十分と言えるのだろうか?
いろいろな疑問が起きてきて、ミステリーのような話になってくる。


そんなことを考えていたところ、
新聞を読んでいると、こんな衝撃的見出しが眼に入ってきた。

「ボストン美術館蔵獣帯鏡など 仁徳陵出土〈可能性低い〉 宮内庁調査 岡倉天心が購入」(2011.8.14)

という記事であった。


この記事によると、
副葬品の制作年代は6世紀前半と判断され、仁徳陵は5世紀半ば築造で、年代が合わないこと。これらは岡倉天心が明治39年(1906)に、1450円で一括購入したことが判明したが、購入リストには「古代の墓で出土した青銅製品」と記されてあるだけで、仁徳陵を示す記載は一切無かったこと。
が、その根拠となっているようだが、この説の妥当性についてはどうなのだろうか?


どうも、話がややこしくなってきたようだ。
ミステリーは続く・・・というところだが、ボストン美術館蔵の副葬品が仁徳陵出土のものかどうかは、さておくとしても、税所篤が仁徳天皇陵の石室の発掘を行ったというのは間違いない事実だし、税所の収集癖や所業から、盗掘まがいのことが行われた可能性は、否定できないだろう。

明治前期の古美術・考古の一大コレクターであった税所篤。
その周辺には、県令という権勢を利用した強引なまでもの収集癖にまつわる胡散臭い話が、常に見え隠れしているようだ。


 


       

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