埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十三回)
第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア
【目次】
はじめに
1.奈良県の始まりを辿って
2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平
(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々
3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本
・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本
4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖
(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤
5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本
おわりに
(3) 廃仏毀釈で消えた奈良の寺々
四条県令の「廃仏政策」は、興福寺だけでなく、多くの寺々が多大の被害を受けた。
廃仏毀釈でその姿を消してしまった大寺では、内山永久寺、大御輪寺、眉間寺が有名だ。
多武峯寺は談山神社に吸収された。
蔵王権現の信仰で知られる金峯山寺の神仏分離は、すんなり行かなかった。
蔵王権現を神とし、神社に改めることを県から命ぜられたが、「権現様はあくまで仏様である」と、寺・信者が激しく抵抗、一時は一山神道化を余儀なくされたが、民衆の不満を背景に明治19年金峯山寺は復活した。
ここでは、内山永久寺、大御輪寺、眉間寺が廃寺となった話と、仏像、仏画の行方についてたどってみたい。
【内山永久寺】
内山永久寺は、石上神宮の神宮寺であったが、大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であった。
50以上の堂塔が立ち並び、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」と呼び習わされていた。
明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた内山永久寺は、廃寺となった。
僧侶は還俗し、石上神宮の神官となる。
壮麗を極めた堂宇や什宝は、ことごとく徹底した破壊と略取の対象となり、数多くの貴重な仏像・仏画・経典等が流出した。
現在では、大寺があった跡形すらなくなり、本堂のあった処は池となり、その傍に「内山永久寺」と刻した石碑がひとつ残されているのみとなっている。
往時の内山永久寺(大和名所図会) 内山永久寺址の石碑
内山永久寺が消失していったときの有様について、正木直彦は自著「回顧七十年」のなかで、このように綴っている。
「廃仏毀釈でその寺(永久寺)に役人の検分が来た。すると、その寺の和尚が、
『私は今日から坊主をやめて、神道になります。その証拠に此れをご覧ください。』
といったと思うと、本尊の文殊菩薩を舁ぎ出して来、薪割りでもって、いきなり役人の前で、一撃を喰らわした。
ところが、役人がそれを見て、却って、『怪しからん坊主だ』というので、その場で、坊主を放逐してしまい、寺の仏像、仏画、仏具といったものは、庄屋の中山平八郎の預ける、ということになった。
中山が迷惑の由申し立て辞退すると、『勘弁ならん』というので、預かり料として年15両の金を附けて、無理に押し付けてしまい、さらに後になって、如何様とも処分勝手たるべし、と言い渡されたのであった。」
永久寺の仏堂、仏像、仏画などの行方をたどると、
仏堂は、一部が石上神宮摂社拝殿や浄福寺本堂、杣之内薬師堂などに売り払われ、転用されて使われている。
仏像、仏画の行方は、次のとおりのようだ。
持国天像(東大寺蔵) 増長天像(東大寺蔵) 聖観音像(東大寺蔵)
不動明王像(正寿院蔵) 不動明王像(世田谷観音寺蔵) 不動明王像(堀家蔵)
持国天像(出光美術館蔵) 増長天像(出光美術館蔵)
これらのほかにも、民間にあることが確認されていながら、現在所在不明のものも数件あるそうだ。
仏像、仏画の多くは、男爵・藤田伝三郎のところに渡ったものが多かったようだ。
正木直彦は「回顧七十年」で、
「庄屋の中山に預けられたもののなかには、非常な名品が多かったらしく、後にそれはだんだん道具屋が取り出して大阪の藤田伝三郎のところに持ちこんだ」
と語っている。
また、堺県令・税所篤が、内山永久寺の
「両界曼荼羅(密教両部大経感得図)、真言八祖像、小野小町像、弘法大師の絵、仏像等」
を入手したことを記録する文書があることから、一部はこの税所を通じて、藤田男爵に渡ったと考えられている。(由水常雄「廃仏毀釈の行方」)
堺県令・税所篤とは、このあと「税所コレクションの話」として採り上げる人物のことだ。
【大御輪寺(おおみわでら)】
大御輪寺(おおみわでら)は、三輪明神で名高い大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった。
神仏分離により、廃寺となった。
三輪の古老の話では、
大御輪寺の宝物や仏具類が廃仏毀釈の際に、境内の池畔や初瀬川堤で焼き払われ、それが何日も続いたことを覚えている。
また、川向こうの極楽寺の小堂に仏像が無雑作にかつぎこまれた。
と伝えている。
大御輪寺伽藍図 大御輪寺旧本堂
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聖林寺十一面観音像
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大御輪寺伝来の仏像では、何といっても聖林寺十一面観音像(国宝)が、飛び切り有名だ。
天平の木心乾漆仏の超名品として、大変な人気を博している。
和辻哲郎が名著「古寺巡礼」のなかで、
この仏像が、廃仏毀釈で路傍に棄てられていたところを、聖林寺の僧が見るに忍びなく、自分の寺へ運んでいった、
との言い伝えを綴ったが、
「三輪大社から聖林寺に預ける旨の証文」が残されており、この哀しいエピソードは作り話というのが真実だ。
大御輪寺伝来の仏像で、今知られているのは次のとおり。
【眉間寺(みけんじ)】
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眉間寺跡石碑
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眉間寺(みけんじ)もまた廃寺への途をたどった。
「眉間寺」は、聖武天皇御願・行階僧都の開基と伝えられ、東大寺の末寺である。
江戸時代の案内図には
「佐保寺ともいう。聖武帝建立。本堂、観音堂、多宝塔、鐘楼、鎮守社あり。寺領百石」
とある。
眉間寺伝来といわれている仏像は、次のとおりだ。
釈迦如来像(東大寺勧進所) 薬師如来像(東大寺勧進所)
阿弥陀如来像(東大寺勧進所)
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