埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十四回)

  第五話 近代日本の仏教美術のコレクターたちの本《その2》(2/5)

《その2》  我が国のコレクターたちをたどって

 

 《鈍翁・益田孝》

 「佐竹本三十六歌仙絵分断事件」というのを、ご存知であろうか?

 藤原信実筆、鎌倉前期の歌仙絵の超名品。大正8年、余りの高額に一括引き取り手がいなかったことなどから、絵巻が分断売却されたのである。美術品収集の強引さや文化財保護面から非難される出来事であった。
 昭和58年、NHKテレビで、この事件とその後の行方を追う「絵巻切断」という番組が放映され、大きな反響を呼び何度か再放送された。
 益田鈍翁は、この出来事の世話人代表者となり、自邸(品川御殿山応挙館)で絵巻を軸物になるよう三十六に切断、知己関係者に抽選分譲する労を取った人物である。
 分譲総額は37万8千円。
 古美術界における鈍翁の圧倒的権威とパワーを物語る事件であった。
 益田鈍翁の名は、この番組で多くの人に知られるようになったかもしれない。
 この「佐竹本三十六歌仙絵分断事件」の顛末と後日譚は、次の2冊に活写されている。

 「秘宝三十六歌仙の流転」NHK取材班・馬場あき子著(S59)日本放送出版協会刊

 「絵巻切断」NHK取材班著(S59)美術公論社刊

 益田鈍翁は、三井物産の創設者、三井合名の理事長という財界の超大物であったが、また近代古美術蒐集の不世出の巨人、後にも先にも鈍翁を超えるものなし、と呼んでよいほどの、超弩級のビッグコレクターであった。 

 平成十年、益田鈍翁生誕150年を記念し、五島美術館で「鈍翁の眼」と題するコレクション回顧展が開催された。
 鈍翁旧蔵コレクションは没後散逸しており、そのコレクションの凄さの一端を偲ぶ充実した展覧会。
 八千点に及んだといわれるコレクションのうち九十余点の出品だったが、なんと国宝6件、重文20件を数えた。
 国宝だけをここに挙げると、次のとおり
 「絹本着色十一面観音像」「源氏物語絵巻」「辟邪絵断簡神虫図」「辟邪絵断簡火象地獄図」「李迪筆 雪中帰牧図」「清拙正澄墨跡 遺偈」
 今更ながらに、なんとも物凄い。

 この展覧会の図録は、作品ごとに、解説に加え、伝来と余話(入手に関する逸話や当時の評価)が付されており、誠に貴重で面白い必携図録。
 「〜益田鈍翁の美の世界〜鈍翁の眼」(H10)五島美術館刊

 益田は、嘉永元年(1848)佐渡生まれ。幕臣として英仏渡航した父と共に15歳で洋行、帰国後、井上馨の知己を得て明治9年三井物産を創設、世界的商社に発展させるなど、三井の総帥として三井家を近代財閥に育て上げた。
 まさに、近代資本主義形成の立役者であり、当時の財界のドン。また茶人、古美術界のドンであった。

 

 鈍翁は、明治期の伝統文化軽視の背景下、飛散する仏教美術を救い出し、新たな美意識を築き、日本美術保護、海外流出防止に大きな役割を果たした。
 《(その1)外国人コレクター》のところでも触れたが、興福寺財政逼迫時、通称「千体佛」ほか77点の仏像等を引き受けたこともある。
 一方、コレクターとしての名品入手への執着も尋常ではなく、当時の同好の数寄者たる政財界リーダー達と狙った品の獲得争いを演ずるなど、コレクションにまつわる物語、エピソードは、枚挙に暇がない。
 鈍翁の茶と古美術への多大なる傾倒は、政財界を巻き込み、商談策謀は茶室以外では出来ないといわれたり、内外名士を招く鈍翁主催の茶会「大師会」の招待状を手に入れようと政財界の人々を右往左往させるなどといった面もあったようだ。
 昭和13年没、92歳。

 莫大なコレクションは、戦後財産税の支払い、遺産分割と相続税などのため、古美術商の手を経て、徐々に散逸、昭和30年代にはすべて崩壊したといわれる。

 ここで、益田鈍翁の、生涯やコレクションを語る評伝などを紹介したい。

 「自叙益田孝翁伝」長井実編(S64)中公文庫刊

 本書の元版は、鈍翁没後の翌年昭和14年に出版されている。生前語った折々の回想などをその筆記者たる長井が、自叙伝の形にまとめ編集したもの。長井は、三井合名で長く鈍翁の秘書を勤めた人物。
 平易な語り口調で綴られており、古美術にまつわるエピソードも豊富。

「鈍翁・益田孝(上・下)」白崎秀雄著(S56)新潮社刊
 その偉大な人生と茶人・コレクター鈍翁を丁寧に描ききった名著。
 物語仕立てのノンフィクションで、古美術蒐集への傾倒、執念や、諸々の逸話も豊富に盛り込まれ、大茶人鈍翁への敬愛を込め綴られている。
 鈍翁を識るには、この一本にして十分、必読必携。
 著者白崎は、本書、「三渓・原富太郎」、「耳庵・松永安左ェ門」と近代数寄者茶人三部作を著している。他に「北大路魯山人」など、古美術を巡る人々についての著作では、卓抜の作家、評論家。

 「大茶人益田鈍翁」やきもの趣味編集部編纂(S14)学芸書院刊
 鈍翁没を追悼、その偉業を偲び出版された。
 表紙に「明治大正昭和三代に亘る一世の大指導者たる益田孝翁の全詳伝。六十余名の各権威を総動員し益田翁九十二年の生涯を伝記した。謹みて鈍翁益田孝翁の霊前に捧ぐ」と記されている。
 数多くの茶人コレクター、古美術商、美術学会関係者などが寄稿しており、偉業を偲びつつ思い出、打ち明け話、逸話を語っている。
 鈍翁についての著作は、本書を典拠にしたものも多く、入手しにくいが逸することの出来ない書。

 関係書には
 『財界の大茶人益田鈍翁コレクション』「芸術新潮」昭和58年5月号所収
 「益田鈍翁風流記事」筒井紘一・柴田桂作・鈴木皓詞著(H4)淡交社刊
 がある。

 【井上世外からの「国宝十一面観音像」譲受】
 先にふれた井上自慢の「十一面観音」であるが、明治38年、鈍翁がこれを買い受けることとなる。
 そのエピソードを、「自叙益田鈍翁伝」の『十一面観音』の項などから要約すると、次のとおり。

 鈍翁は、この十一面観音を、原三渓が鳩居堂を使い杉子爵という人を通じ買おうとしているという情報を得る。早速、所蔵者井上にあたってみると「3万円で買おうという話があるがどうしたものか」と鈍翁の思惑を知らず相談する。鈍翁は「ここは弟の英作・益田紅艶に相談されては」ともち掛け、紅艶を差し向ける。紅艶は、「もう2割増で兄貴に売ってやってください」と強談判。井上の気が変わらぬうちにと、3万5千円の小切手と引き換えに、飛ぶように持ち帰ったという。
 当時の美術品相場では、驚嘆の高値レコードで、コレクターたちの度肝を抜いたという。

 この名品、鈍翁没後の昭和22年、日野原節三の所有に帰す。
 日野原は、戦後昭和電工社長、昭電疑獄事件で逮捕され世を賑わした人物。鈍翁旧蔵佐竹本三十六歌仙『斎宮女御像』も日野原が入手している。
 明治初期3百円で井上が手に入れた十一面観音、鈍翁へは3万5千円、日野原へは百万円で売られ、平成7年文化庁の買い上げ価格は、なんと10億7千5百万円の高額であった。
 平成4年重文指定、同6年国宝指定。

 

《三渓・原富太郎》

 さて、井上所蔵のもう一幅の名品仏画、国宝「孔雀明王像」を買い受けたのが、原三渓であった。
 高野山某寺の秘宝であったが、明治13年、大阪府知事・建野郷三のものとなり、その10年後井上の所有となったという。
 明治35年、三渓がこの一幅を手に入れたとき、鈍翁は買受機会ありながら、これを逸したことを大変口惜しがった。
 この時、三渓35歳、鈍翁55歳。
 3年後の明治38年、鈍翁は、三渓が「十一面観音」までも手に入れようとしていることを知り、年下のライバルへの対抗心を燃やし、何としてでも「十一面観音」だけは自分のものにせんとし、強引に入手したことは先に記したとおり。

 【孔雀明王画像買い入れ事件】
 スキャンダルでもないのに、「事件」などと呼ばれたのは、買受に至ったいきさつ、逸話もさることながら、三渓自身が「この時井上侯に代償したる金額は壱万円なりしが、美術品に壱万円の価を有するにいたりしは、これを持って嚆矢となす。」と記しているごとく、記録破りの高値であったこと。弱冠35歳の少壮実業家、原富太郎が買い手であった事が、大評判を呼んだことによるのであろう。

 孔雀明王像、一万円での買い入れに至る経緯の逸話は諸説あるが、白崎秀雄「三渓原富太郎」に拠ると次のようである。(高橋箒庵「近代道具移動史」矢代幸雄「三渓先生の古美術手記」の記述を総合したものだろう)

 三渓は、三井系の実業人・高橋箒庵に井上世外に引き合わされ、そこで「孔雀明王像」を見せられる。三渓が息を呑み眼を釘付けにしていると、井上は買い気の打診もあり「そんなに感心するなら壱万両なら売ってやらんでもない」という。この時、井上は件の「虚空蔵菩薩画像」を手に入れようとしており、高橋にできれば壱万円で処分したいと諮っていた。
 高橋は、まずは益田鈍翁に話したが、鈍翁は五千円が相場精一杯と踏み、余りの高値に「壱万円で買い手がなければ少し値引きしてもらい引き受けよう」と駆け引きする。
 原は、「孔雀明王」拝見の二三日後、箒庵宅を訪問、きっぱりと壱万円記入の小切手を差し出し「是非とも頂戴したいので、お取次ぎ願いたい」と申し出、たちまちに名品「孔雀明王画幅」を我が物にした。
 この出来事、美術界内外で一種騒然たる話題となったという。

 それから約60年を経た昭和36年、この国宝「孔雀明王像」は原家から文化庁(東京国立博物館)に買い上げられた。

 《孔雀明王の原三渓》は知らないが、「三渓園」なら知っているという人も沢山いるだろう。横浜本牧「三渓園」。
 都心近郊の人なら、一度は訪れたことがあるに違いない。
 蓮の花が美しい二つの池の向うには緑濃き小高い丘、旧燈明寺三重塔を丘に見上げる景観はゆったりと心安まる。その広大な敷地は17ヘクタール、園内には重文建造物が10棟もある。
 これが横浜の生糸豪商・原三渓個人の邸宅であったのだというから、並大抵のものではない。

 この原三渓の古美術品蒐集は膨大かつ名品ぞろい。
 旧蔵品は現国宝だけでも、前述の「孔雀明王像」のほか「地獄草子」「浮線綾蒔絵螺鈿手箱」「楚石梵_賛」「寝覚物語絵巻」「一字蓮台法華経」の6点にもなる。(私が本などで確認できたもの)
 明治末から大正、昭和初期にかけて、益田鈍翁と並ぶビッグコレクター、まさに両横綱といえる存在であった。

 三渓・原富太郎は明治元年岐阜県稲葉郡の豪農青木家に生まれた。東京専門学校時代、助教師を勤めていた跡見女学校で、教え子、原屋寿と相愛の仲となり、校長跡見花渓の奔走で富豪原家の婿養子となる。先代亡き後、原商店の近代化を図り最優の生糸貿易会社に発展させるなど、横浜第一の財閥となった。また、関東大震災後の復興など公共事業発展にも力を尽くしている。

 三渓は、単なる骨董古美術名品の蒐集家とはちょっと違っていた。
 元来歴史教師であったことによるものか、その蒐集品の芸術的、美術史的価値を自らの芸術価値観、審美眼によりきちっと評価し、我が国美術作品のなかに位置付けようとした。
 また、〈芸術のパトロン〉として岡倉天心とも交遊、下村観山らを支援するほか、小林古径、安田靫彦、前田青邨らの育成者としても知られている。
 三渓は、大蒐集家であったと共に、偉大な教養人・アートディレクターであった。
 鈍翁逝去の8ケ月後、昭和14年没、72歳。

 美術・文化の側面から捉えた原三渓の評伝は次の3冊

 「三渓 原富太郎」白崎秀雄著(S63)新潮社刊
 「経済人である前に偉大な教養人だったこの人の無私の生き方。ひたすら国益と地域の為に生きた燈明清冽な生涯」と本の帯に記されている。この美術を深く愛した実業人の、高き志と人間性を、見事に言表わしている。
 一押しの本。

 「〜近代日本画を育てた豪商〜原三渓」竹田道太郎著(S52)有隣堂刊
 著者竹田道太郎は朝日新聞社出身、近代日本画の世界に通じた美術評論家。蒐集物語に加え、三渓と日本美術院の係わり合い、天心亡き後、大正の日本画育成に援助を惜しまなかった有様が良く描かれている。

 「原三渓物語」新井恵美子著(H15)神奈川新聞社刊
 神奈川新聞文化欄に連載されたものの、単行本化。
 著者は美術文化畑の人ではないようなので、古美術蒐集については多くのページが割かれてはいないが、本帯のとおり「横浜を愛し、美術を愛し、仕事を愛し、そして何よりも妻を愛した男の華麗なる生涯」原三渓が、ロマンと愛情込めて平明に綴られている。 

 三渓の莫大なコレクションは、戦後、古美術品の主だったものは大和文華館、近代日本画の名品は東京国立博物館に納まっている。
 大和文華館に納まったのは、三渓園グループの一員で、三渓に美術史学者として育てられた矢代幸雄が、その初代館長として設立に関わった縁によるもの。

 矢代は、その三渓への深き敬愛を込めて、思い出や三渓の手記を発表する著作を残している。

 『原三渓』「芸術のパトロン」矢代幸雄著所収(S33)新潮社刊
 三渓園に逗留したタゴール、フリーアとの交流、芸術パトロンとしての新日本美術への支援と奨励など、偉大な教養人の人柄が丁寧に語られている。

 『三渓先生と三渓園グループ』『大和文華館の設立』「私の美術遍歴」矢代幸雄著所収(S47)岩波書店刊
 『三渓先生の古美術手記』「忘れえぬ人々」矢代幸雄著所収(S59)岩波書店刊
 『三渓先生の古美術手記』は、幻の図録「三渓帖」のため三渓自ら執筆していた解説草稿を紹介、矢代が説明を加えたもの。三渓の芸術価値観、評価、見識がうかがえ、大変興味深い。
 「三渓帖」は所蔵画の超豪華図録を刊行せんと、審美書院で7冊まで印刷していた処、関東大震災(T12)で焼失、ついに幻の大著となった。

  

      

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