埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十九-二回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その1>法隆寺の大御所 北畠治房

【補 遺】2014.9 



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




  <北畠の逝去と年譜>


第24話で、「法隆寺の大御所〜北畠冶房」という話を、8回連載にて掲載させていただきました。

2010年の事でしたが、最近、
「北畠冶房にまつわる新たな話」
を知ることが出来ましたので、少しばかり追加させていただきたいと思います。
もう済んだ話の余話を、4年も経ってから追加しても、ご関心はほとんどないのでしょうが、「法隆寺と北畠冶房」を知るには意味もあろうかと思った次第です。

今回追加させていただくのは、北畠冶房の逝去前後の話と、北畠の年譜です。

平成25年(2013)10月に、こんな展覧会が斑鳩町立図書館・聖徳太子歴史資料室で開催されました。

「天誅組の志士・北畠治房―北畠男爵資料展」

と題する展覧会です。

天誅組の大和挙兵150周年を記念し、法隆寺村出身の平岡鳩平(北畠治房)を取り上げた資料展を開催したということだそうです。

大変マイナーなテーマの展覧会と思うのですが、北畠治房のことをたどっていた私にとっては、誠に興味深い展覧会です。
ところが、この展覧会が、開催されたことを私が知ったのは、展覧会が終了して半年以上も経った頃でした。
ネットで、北畠のことを検索していたら、この展覧会が開催されていたことを知ったのです。

わかっていれば、
「是非とも奈良まで出かけて、見に行ったのに!」
と、残念至極、後の祭りとなりました。


展覧会には、主に北畠の天誅組時代、司法官時代の書状や文書が展示されたようでした。

斑鳩町立図書館・聖徳太子歴史資料室のご担当の方に連絡して、展覧会や北畠に関する資料などについて、お尋ねしてみた処、展覧会場で配布された資料を頂戴しました。

この資料、簡素な紙にモノクロ印刷された14ページの冊子でしたが、展示品目録のほかに、北畠についての丁寧な解説、年譜、参考文献が所載された、大変興味深いものです。

参考文献の中に、

「法隆寺学入門・第50回〜天誅組の志士・北畠治房逝く」

というのを見つけました。
法隆寺の長老、高田良信氏の執筆によるものです。
早速取り寄せてみますと、北畠治房の亡くなった時の様子が、詳しく語られていました。

そこで、北畠治房逝去の時の話を中心に、北畠についてその後知った話を、ご紹介したいと思います。


北畠は、

天保4年(1833)の正月元日、法隆寺3丁(今の斑鳩町)に生まれ、天誅組に参加した後、明治に入ると、新政府で司法関係の職を歴任、大審院部長にまで就任しました。
明治29年(1896)、華族に列し男爵を授けられましたが、明治31年には公職を退き、その後は法隆寺村に隠棲しました。
その後は、「法隆寺の大御所」と呼ばれ、長らく法隆寺の信徒総代を務め、様々なエピソードを残したことは、これまで詳しく記したとおりです。

大正10年(1924)5月4日、89歳で逝去。
大変な長寿の大往生であったということでした。


さて、北畠がなくなった前後の話です。

高田良信氏の「天誅組の志士・北畠治房逝く」をもとに、ご紹介します。

北畠は、法隆寺村に隠棲したのは、明治31年(1898)、65歳の事でした。
北畠は、立派な邸宅を構え、ここに住まいします。
その北畠邸は、夢殿の南にある三町と呼ぶ町並の中に建てられていました。
法隆寺の農村には似つかわしくない長屋門をもつ武家屋敷風の豪華な大邸宅です。

この自宅に、一時期、若草伽藍後の塔心礎を運び込んでいたことは、先にふれたとおりです。
邸宅は、北畠の号「布穀」の名をとって、「布穀園」と称されました。

この邸宅は、現在も井上邸として残されており、立派な長屋門もそのままです。







旧北畠治房邸(現井上邸)



長らく、この「布穀園」で暮らしていた北畠は、晩年、糖尿病を患っており、大正10年5月2日、午前5時45分に逝去しました。
満88歳、数え齢で89歳でした。

なお、宮内省の都合により、喪は秘せられました。
勲章を授与する手続きの時間が必要であったことによるようです。
5月3日付で勲一等瑞宝章を賜り、5月4日午前五時四十五分に逝去したと発表されました。



晩年の北畠治房



戒名を贈ったのは法隆寺管長・佐伯定胤です。

「天寿院布穀治房大居士」

という戒名で、
法隆寺の歴史や天寿国曼荼羅の研究をしていたことと、臨終のときに「天寿国」「天寿国」と唱えていたことに由来し、号の布穀と名の治房から構成をしたものだそうです。

5月11日に本葬が行われましたが、勅使が遣わされ、齋藤内務部長(代理本田川奈良県知事)が馬車で北畠邸に到着、霊前に参拝して供物を奠じました。
弔問客は、大変な数に及んだと云います。
北畠治房夫人

なお、治房の後を追うかのように同じ年の11月26日に、妻の三枝子が逝去しました。
このときも定胤は、つぎのような戒名を贈っています。

「鳩居院殿明檀貞観大姉」

墓所は、中宮寺内に在り、北畠は、そこに眠っているとのことです。


以上が、北畠治房の逝去前後にまつわる話です。


これらの話が語られているのは、つぎの掲載誌です。


「法隆寺学入門」高田良信執筆 「聖徳」 聖徳宗教務部刊 所収連載

「法隆寺学入門」は、「聖徳」162号に第1回が掲載され、「天誅組の志士・北畠治房逝く」が掲載されているのは、第50回、216号(2013.5刊)です。
現在も、連載継続中だと思います。

この連載は、その題名のとおり「法隆寺学」にかかわる諸々の事を、高田良信氏の法隆寺についての博識を駆使して、縦横に綴った連載で、誠に興味深く面白い内容です。


最後に、北畠治房の年譜を、ご参考にご覧ください。
この年譜は、斑鳩町立図書館・聖徳太子歴史資料室が、「北畠男爵資料展」に際して、作成されたものです。

知られざる「法隆寺の大御所〜北畠治房」の生涯を、知ることが出来る、大変貴重なものだと思います。









以上、つけたりではありますが、「法隆寺の大御所〜北畠冶房」の逝去の時の話と、年譜を紹介させていただきました。

(2014.9.27)


 


       

inserted by FC2 system