埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十八回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
  
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




   (4)    法隆寺二寺説のルーツ

 法隆寺再建非再建論争は、明治から昭和まで三代にわたって続いた、建築史・美術史の世界での世紀の大論争であった。
 この再建非再建研究史の歴史に、北畠冶房はその名を残している。
 北畠は、もちろん学者ではなく、いわばアマチュア研究家ということになろうが、「法隆寺二寺説」を初めて唱えた人として、研究史に名を残すことになった。

 北畠は、明治33年(1900)、短文ではあるものの「法隆寺・斑鳩寺二寺説」という論考を書いている。

 北畠の説は、
 法隆寺と斑鳩寺は別寺で、法隆寺は現存の薬師如来を本尊として推古15年(607)に用命天皇の遺志を奉じて造られ、日本書紀に記す天智9年(670)の火災に遭わずに今日に伝わったものである。
 斑鳩寺は聖徳太子のために釈迦三尊を本尊として、推古31年(623)に造られ、天智8年12月に焼失、その跡が若草伽藍址である。(書紀は斑鳩寺の罹災を12月とは記していない

 というものであった
 法隆寺論争の本格的な開始に先立つ5年前のことである。
 法隆寺西院伽藍 北畠自筆「法隆寺・斑鳩寺二寺説

 非再建論では、論争開始当初は、日本書紀の「天智9年罹災の記事」を、火災の年を干支一巡(60年)誤って記載したもので正しくは推古18年(610)であるとか、軽微な火災に過ぎなかったとの主張であった。
 昭和にはいってからは、天智9年の焼失は認めるものの、火災焼失したのは若草伽藍の方で、西院伽藍は創建から非再建で遺されたと主張するようになった。
 非再建論の大御所・関野貞、その後新非再建論を展開する足立康も、堂塔や本尊の解釈に相違はあるが基本的にはこの考え方を展開し、再建論に対抗した。
 非再建論の二人の大物学者の説は、北畠の「二寺説」と基本的枠組みとしては同じで、北畠の説は「法隆寺二寺説のルーツ」と言って良い。
 法隆寺論争を説き起こした本には、必ずと言って良いほど北畠冶房の名が、二寺説・非再建論の嚆矢として登場する

 町田甲一は、自著「法隆寺」の中で、北畠の二寺説について、次のように記している。

「(北畠の二寺説は)法隆寺と斑鳩寺を異寺とした点は、今日では首肯しがたいけれども、薬師と釈迦の二尊をそれぞれ本尊とする二寺を想定し、その一寺焼けてその跡を若草伽藍址とした点は、当時としてはなかなかの卓見であった
 特に若草伽藍址に注目した点は、大いに認めなければならないが、その若草寺の塔心礎がその後まもなく、北畠冶房自らの手で、寺から自邸に持ち出されたのは、どういうことだったのだろう。・・・・・・・・
 しかしこの説は、当時学界において、ほとんど注目されなかったが、後になって、関野貞の二寺説、足立康の新非再建説の中に、多少形を変えて復活しているのは興味深いことである。」
 この北畠の「二寺説」は、次の本にその全文が収録されている。

「法隆寺再建非再建論争史」 足立康編 (S16) 龍吟社刊 【368P】 3.8円
 本書は、非再建論最後の旗手であった足立康が、法隆寺再建非再建論争の推移を、論争に登場する主なる研究者の代表的論文により辿るべく、出版した本。
 明治以降の主要論文が、そのまま掲載されている。
 北畠治房「法隆寺二寺説」をはじめ、黒川真頼「法隆寺建築説」小杉榲邨「法隆寺の建築年代」など、他の単行本では見ることが難しい論文も収録されている。


 傲岸不遜の雷親爺も、その特異なキャラクターで知られるというだけでなく、法隆寺論争の研究史にもその名を残すことができた。
 北畠にとってみれば、誠に幸いなことであったと思う。


 


       

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