埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十六回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
  
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




 
(2)    百万塔の売却

  明治11年の「宝物献納」で、財政上の危機をしのいだ法隆寺であっ たが、それから30年程を経て、再び資金不足の問題に直面していた。
  時の管主は、千早定朝、秦行純の後を受けた佐伯定胤であった。
  諸堂、諸仏の修理の費用などでの借り入れが、利息とともに7200円余にも膨れ上がっていた。
  佐伯は一刻も早く何とか借金を返済し、寺門維持の基金確立をはからねばと苦慮する日々を送っていた。
  その結果、寺僧と信徒総代が協議し、「寺役勤行上不用ノモノ」である百万塔3千基と屏風(紙本山水人物画無款伝秀文筆)を信徒に譲与して3万円を勧募 し、まず負債を消却しその残余金を基金とすることを議決した。
  明治40年4月、奈良県知事宛にその旨願い出ている。

百万塔と陀羅尼
  百万塔とは、奈良時代、、孝徳天皇が罪や禍いを消滅させるための祈願を込めて造った木製の三重塔で、全部で百万基造られた。百万塔の中には、世界で一番古い木版印刷である「無垢浄光陀羅尼」が入っている。
  当時、10万基ずつ南都の十大寺に分けられたが、法隆寺にのみ4万余基遺されていた。
  法隆寺では、信徒総代会を開いて、百万塔の譲与をどういう方法で行なうか協議している。
  信徒総代の一人である北畠冶房は、古美術商への譲渡を主張するが、同宗の法相宗の大本山興福寺から出席した管主の大西良慶(後の京都清水寺管主)は、古 美術商の言い値は安きに過ぎるとして直接希望者への譲渡を主張し、大西の主張が通ることとなる。

  その時の信徒総代と大西良慶とのやりとりが、法隆寺「寺要日記」に残されているので、紹介しよう。
ここでの信徒総代とは、北畠冶房のことに違いない。

  信徒総代:「古美術商を呼んで見積もりさせたところ『屏風は5500円なら譲り受けたい。納金の方法は1万円をすぐに納め、残りは百万塔を受け取った都 度 数回にわたり上納したい。残金には利子を払う。もし塔が10円で、ということなら利子は御免こうむりたい』ということだった」
  大西管主:「拙僧にも発言させていただきたい。百万塔が高くて10円とは、とんでもない話である。骨董価値からいってももっと高いはずです。他の寺には ないうえ、数にも限りがある。10円を下るものではないことは確かです」
  信徒総代:「専門家の古美術商でそういっているのだが・・・・・・」
  大西管主:「もし一基15円なら、私が一手に引き受けてもいい・・・・・」
  信徒総代:「そこまでいわれるなら、古美術商との話は白紙に戻すしかない」
  大西管主:「問題は負債を一刻も早く返すことでしょうから、拙僧が一時立て替えても結構です。それに古美術商にお寺の宝物をもとに利益を得させてはいけ ません。百万との譲与は慎重に対処する必要があります。寺が直接ことにあたり寄附を呼びかけることです」
  信徒総代:「・・・・・・・・・」
  大西管主:「各界の方から寄附をいただくためには、やはり東京へ行く必要がある。よろしければ私も貴寺の佐伯定胤管主と上京して、しばらく滞在のうえ各 方面にお願いに上ります」
  (追跡!法隆寺の秘宝〜法隆寺の百万塔譲与〜より転載)

 
大西良慶              百万塔譲与規定(明治41年)

 大西管主の発言は誠に正論で、信徒総代の北畠は旗色悪く、形無しという処のように読み取れる。
  百万塔の譲与は、大西の主張どおり一般から寄附を募る形で行なうこととなる。
  百萬塔は、その状態により30円〜15円での直接譲与となり、譲受け者探しに尽力。結果、962基で3万 210円の寄付金収入があったという。
  そうはいっても譲受者探しは大変であったようで、関係者懸命の努力を尽くした。大西良慶は、自らこの百萬塔を背負って東京で売り歩いたと、その苦労を自 著で語っている。



【訂正:追記】


上記の「百万塔の売却」の内容に、一部、誤りがありました。

百万塔の譲与についての信徒総代会において、

「信徒総代の一人である北畠冶房は、古美術商への譲渡を主張」

と記しましたが、これは誤りであったようです。

信徒総代会にて、古美術商の見積もり額と譲与についての発言をしたのは、

「北畠治房ではなくて、辰巳楢太郎という人物」

であることがわかりました。
辰巳楢太郎も、信徒総代の中の一人です。


この誤りを見つけた経緯について、少しだけ説明させていただきます。

百万塔の古美術商への譲与、見積額について発言した信徒総代が、北畠治房であると、思い込んでしまったのは、高田良信氏の2冊の著作に、次のように記されていたからでした。

「法隆寺では、・・・・・信徒総代会を開いて、百万塔の譲与をどういう方法で行うか協議している。
信徒総代の一人はあの北畠治房で、幕末維新の志士としての行動により、この時は男爵の爵位を受けていた。
関係の深い同宗(法相宗)の大本山興福寺から管主の大西良慶も出席していた。
以下、法隆寺の寺要日記によると、次のようなやりとりがある。
・・・・・・・・」
(「追跡!法隆寺の秘宝」高田良信・高田謹吾著・徳間書店1990年刊)


「11月8日、信徒総代会を開き、いよいよその方法の結論土出すことになり、北畠男爵をはじめとする信徒総代と、興福寺から大西良慶管主が出席して集会がもたれた。
信徒総代から、某美術商によれば屏風は5500円、百万塔は一基平均7円で譲与したいとの申し出の報告があった。
・・・・・・・・・」
(「法隆寺日記を開く」高田良信著・NHKブックス1986年刊)

このような記述を読んで、ご紹介した信徒総代の発言も、北畠治房本人からなされたものだと思い込んでしまいました。


ところが、実際の発言者は、北畠治房ではなく、別の信徒総代の一人、辰巳楢太郎であったことがわかりました。

高田良信氏執筆の 「法隆寺学入門・第38回」(聖徳宗教務部刊「聖徳」201号2009.7刊所載) という連載に、この時の話が、詳細に記されているのを見つけました。

記されている文章は、次のとおりです。

「『法隆寺日記』(明治四十年十一月八日) を紹介しておくこととしよう。

信徒総代会に付、北畠男爵、今村勤三、辰巳楢太郎、安田富太郎、佐伯安右衛門、并に佐伯喜一郎入来の事。
又興福寺大西菅主入来の事。
集会の太要左の如し。
太田氏不在欠席。

辰巳氏より前日来杉村辰三に交接の顛末を報告せらる。

曰く、杉村氏は塔壱基平均金七円替、扉風一双金五千五百円にて譲渡願たし。
・・・・・・・・・
大西興福管主曰く、愚考によれば従来百万塔の市価見るに、決して十円以内のものに非ず。
若十五円替ならば一手譲与亦可なるべし。

・・・・・・・・・・」

以上のとおり、辰巳楢太郎氏が発言したものであることがわかりました。
北畠治房がこの古美術商への譲渡話を主導し、総代会の発言は辰巳氏がおこなったという可能性もあるのではないかと思われます。
しかしながら、北畠治房自らの発言ではありませんでした。

訂正させていただきます。

なお、辰巳楢太郎氏というのは、当地の大地主で、明治末期ごろ貴族院議員まで勤めた人物、辰巳家住宅は県の登録有形文化財に指定されています。

【訂正追記日  2017.10.21】


 


       

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