埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十五回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
  
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




  4.近代法隆寺と北畠冶房

 法隆寺の大御所、雷親爺と呼ばれた北畠冶房は、法隆寺の近代史の出来事を振り返ると、様々な局面で登場してくる。
 ひとつは、明治11年の法隆寺の宝物の皇室への献納、いわゆる「法隆寺献納宝物」を実現する時と、明治40年、法隆寺の運営維持の資金を得る為「百万塔の売却」を行なう時である。
 つぎには、若草伽藍の巨大な塔心礎を自宅に移した上、その後久原房之介に売却した人物として登場する。
 法隆寺の研究史を紐解くと、はやくから「法隆寺二寺説」を唱え、法隆寺再建非再建論争で、関野貞、足立康の主張した非再建二寺説のルーツとなったことでも知られている。

 それでは、それぞれの出来事などについて、もう少し詳しく見てみたい。

(1)    法隆寺宝物の皇室献納

 「法隆寺献納宝物」は、皆さんよくご存知のことだと思う。
 現在、そのほとんどは、東京国立博物館にある「法隆寺宝物館」に展示されている。
 宝物館には、明治11年に皇室に献納された法隆寺献納宝物の殆んど、三百余点が所蔵されている。戦後帝室博物館が国に移管された際、東京国立博物館蔵となったものである。

 いわゆる四十八体仏と呼ばれる飛鳥白鳳の小金銅仏、黄金色の金銅潅頂幡、伎楽面が展示されている。
 このほかに、超有名な「聖徳太子及び二王子像」、「聖徳太子筆法華義疏」は、特に皇室とゆかりある品として、そのまま宮内庁所管に留め置かれている。

 
献納四十八体物(丙寅銘菩薩半跏像)        聖徳太子及び仁王子像   

 明治初年、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、南都の多くの大寺は宝物を売り払うなど、貴重な文化財が数多く流出した。
法 隆寺も同じく、寺の運営維持の経済的危機に陥る。
 当時の千早定朝管主は、寺の財政維持と宝物流失の危機を何とか乗り越えようと、 皇室への宝物献納を決し、その報酬金として1万円が皇室から下賜される。
 法隆寺は、この1万円で、寺の危機を乗り切るのである。
 法隆寺にとっては、聖徳太子ゆかりの重宝を手放すという前代未聞の大事件であったが、このとき、この決断をしていなかったならば、宝物類は売り払われ散逸し、今日の法隆寺は存在し得なかったであろうことを思えば、誠に大英断であり、意義ある決断であった。

 この宝物献納に漕ぎ付けるいきさつの中で、北畠冶房の名が登場する。

 献納のきっかけをたどってみると、明治維新の混乱も一応の平静を取り戻しつつあった明治8年、東大寺大仏殿回廊や旧興福寺東金堂などで、正倉院や法隆寺 の宝物 を集めて古美術展覧会が開催される。この展覧会を機に、寺宝を皇室に献納し下賜金により法隆寺復興を進めようという機運が高まった。
 当時、初代帝室博物館長をつとめていたのが町田久成。
 我が国博物館の基礎を築き上げた人物で知られる。
 町田は、新設する博物館に所蔵するための宝物を物色するとともに、正倉院など天皇ゆかりの宝物が寺院などで保管されていることを憂えていた。
 売り払われるなどの散逸を心配していたのである。
 当時の法隆寺管主・千早定朝はそのような事情を知り、この機会に法隆寺から積極的に宝物を献納しようと考えたのであった。
 千早定朝は、当時高官の地位にあった北畠冶房に何かにつけて法隆寺のことを相談しており、北畠も法隆寺のよき理解者でもあった。
 北畠はその頃、東京に住んでおり、定朝の意向を受けた北畠は、町田久成と法隆寺の宝物についての協議を始めたものと考えられる。
 北畠は、町田と打ち合わせた内容を、詳しく定朝のもとに知らせている。
 定朝は、寺僧たちを一堂に集め、宝物の献納についてその理由を寺僧たちに詳しく説明しこの計画には北畠が賛同していることを付け加え、その賛同を求めた。
 定朝の意見に、全ての寺僧が賛同し、法隆寺側の態度は決定する。

 定朝は、すぐさま法隆寺が宝物献納に同意したことを北畠に知らせ、その指示を待った。
 北畠は、当時の堺県令(知事)の税所篤とも本件を協議しており堺県令・税所篤宛に献納願いを提出するよう指示する。(当時の奈良は堺県に属していた)
 明治9年11月献納願い書が提出される。「古器物献備御願」と、それに添えられた「法隆寺御蔵物目録」である。
 明治11年2月、宮内大臣より宝物献納を受理するという通達が、堺県令宛に伝達され、同時に、特別の思し召しを持って1万円が下賜されることとなるのである。

 
県令税所篤宛法物献納願い            下賜金壱萬円使途方法書

 この献納の話が進行しているとき、北畠は横浜の裁判所判事の職にあったが、明治9年4月、寺から「土偶一体」を取り寄せている。
 「土偶」とは、法隆寺五重塔の塔本塑像のことだ。
 それを知った帝室博物館長の町田久成は、その塑像を博物館の展示のために借り受けようと、北畠に手紙を出している。
 「右土偶ハ稀世之品物ニ有之候間諸衆庶之縦観ニ供度存候・・・・・」
との写しが、博物館が集めた資料なかの文書に見つかっている。
 千早定朝、北畠冶房、町田久成の関係と献納への根回しを物語るものといえよう。
 この北畠が取り寄せた「土偶」即ち塔本塑像の一体は、その後どこへ行ったのであろうか?
 寺へ戻させたという記録はなく、その行方はわからない。


 法隆寺献納宝物の経緯を記した本は沢山あるが、北畠冶房の献納実現への関与やいきさつについて、書かれた本は、次の2冊。

「近代法隆寺の祖 千早定朝管主の生涯」 高田良信著 (H10) 法隆寺刊 【293P】

 明治維新後の法隆寺苦難の時代を乗り切った管主・千早定朝の生涯と功績を綴った本であるが、「宝物の献納を決意する」の項に、献納に至るいきさつと、北畠冶房がその実現に向け、町田久成等と根回しした有様などが書かれている。


「追跡!法隆寺の秘宝」 高田良信・堀田謹吾著 (H2) 徳間書店刊 【290P】 1800円

 法隆寺から流出した様々な宝物とその行方を追った、ドキュメント本。
 NHK・TVの特集「追跡・聖徳太子の秘宝」をもとに、追加取材をまとめた本。
 第3章「法隆寺の宝物の行方」の章に、「宝物献物と御下賜金」「法隆寺の復興を助けた献納御物」という項が設けられ、献納に至るいきさつが詳しく書かれているほかに、北畠が塔本塑像の「土偶」を東京に取り寄せたエピソードが綴られている。

 

 


       

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