埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十四回)

  第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




 
  3.北畠冶房の生い立ち、略伝

 さて、この雷親爺・北畠はどのような経歴の人物なのであろうか?
 北畠の略伝は、次の2冊の本に、採り上げられている。

「斑鳩町史」  斑鳩町史編纂委員会著 (S38) 斑鳩町役場刊 【950P】

「大和百年の歩 み 社会人物編」 (S47) 大和タイムス社刊 【718P】 4000円

 共に、乾健治の執筆で、その略伝がコンパクトにまとめられている。
 これをベースに、簡単に紹介してみよう。

 

 北畠は、天保4年(1833)の正月元日、法隆寺3丁(今の斑鳩町)に生まれた。
 父は平岡九兵衛、母は宮井伊右衛門の女、「平岡武夫」という姓名であったが、通名は「煙管屋鳩平」と言ったそうである。
 平岡家が煙管屋という屋号の商家であったことから、この通名となったともいわれるが、平岡家は、代々中宮寺の宮仕人、即ち寺侍であったと記す本もある。

 当時は幕末、「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れた頃。
 平岡(北畠)も、はやくから勤皇の志が篤く、伴林光平や乾十郎(天誅組同志)らとともに京都攝津の間を奔走して、大いに尊皇攘夷の大義を唱え、天下の志 士と交わった。
 そして、大和五條の代官所を襲い討幕の狼煙をあげた「天誅組」、いわゆる「大和義挙」に加わる。
 文久3年(1863)、平岡(北畠)30歳のときであった。
 義挙の志士たちは、立ち上がった矢先、京都で起きた政変で攘夷派が失脚し(いわゆる七卿落ち)、たちまち賊軍となってしまい「暴徒」とされ追討を受ける 身となる。

北畠冶房(壮年時?の写真)
 追手の軍に、斬られたり捕らえられたりして壊滅状態になり、同志・伴林光平や乾十郎は捕らえられ刑死するが、平岡(北畠)はうまく逃れる。
明治維新東征の時は、浪士の一団をひきつれ、総督有栖川宮熾仁親王を守護するなどした。
 この頃、北畠冶房と名乗り、明治のはじめに東京へ上り、勤皇家として大隈重信らの寵愛を受け、維新開明の先駆者として歓迎される。
 明治2年(1869)、36歳で法律家でもないのに、横浜開港場の裁判官に任ぜられる。
 その後、京都の裁判所長などを勤め、明治24年(1891)には、大阪高等裁判所の前身である大阪控訴院の院長になる。
 明治29年(1896)、華族に列し男爵を授けられ、正二位を賜る。
 「天誅組に参加、王政復古のため国家に偉大なる勲功たて誠忠の誉れを有する為」というのが、授爵の特旨であった。
 北畠、64歳、「煙管屋鳩平」は、なんと男爵の位までに昇りつめたのであった。


北畠冶房(老年時?の写真)
 その後は、官を辞し法隆寺村で余生を送ることとなる。
 死ぬまで、長く法隆寺の信徒総代をつとめたが、折々の、法隆寺の大御所様ぶり、傲岸不遜の雷親爺ぶりは、先に紹介したとおりであった。
 大正10年(1924)5月4日、89歳で逝去。
 大変な長寿の大往生であった。

 このように略伝を綴ると、北畠は、
 「青雲の志を持ち、維新の志士として志を貫いた硬骨漢。
 激動の幕末、生死を省みず大義と志に生き、その後、身を立て名を挙げた立派な人物。」
 このように評されて当然、というように思える。

 ところが、北畠のことを描いた文章を読むと、立派な人物をたたえているというよりは、傲岸不遜で我儘放題という特異なキャラクターをクローズアップして いる。少々胡散臭いといったようなニュアンスもにじみ出ているのである。
 そんな若干の胡散臭さを漂わせる話を、ピックアップしてみよう。

 「北畠冶房は、晩年まで仇討ちに遭うのを恐れていた。中に刀が仕込んである仕込み杖を手放すことがなかった。天誅組のときに恨みをかったらしい。」
という話がある。
 これは、北畠が、天誅組で同志・伴林光平と行動をともにしたとき、討伐隊に追われ吉野山中に孤立、退路を探すため山中に分け入っていたが、北畠は情勢を 探るといって、脚気で歩行が難しい伴林を置き去りにして逃げた、といわれていることによるものだ。
 結果、伴林は捕らえられ六畳河原で慙死、伴林は、このことを深く怨んでいた。
この仇討ちを恐れ、仕込み杖で、伴林光平の弟子筋からの襲撃に備えていたというのである。
 北畠は、そのことを気に病んで「脱走の道筋精神に異常を来たし」など苦しい言い訳をしているが、その行動は釈然としないという話だ。

 「維新後の洋化政策に文句をつけ、過激な尊王攘夷論を吐いてまわり、長崎で外国人の家に火をつけて回った。」という話もある。
 新政府も、勤皇の忠臣とはいうもののこれにはてこずったらしく、とりあえず司法省に放り込んで権小判事などの職を与えて懐柔につとめたともいわれてい る。

 そして極めつけは、
 「いつの頃からか、北畠冶房の名を名乗った」という話だ。
 北畠冶房という名を聞けば、「神皇正統記」で知られ後醍醐天皇を支えた、あの北畠親房の末裔にあたる人物か、と誰でも思う。
 それでは、北畠冶房は、北畠親房と関係があるのだろうか?

 このことについては、本によって、様々なことが書いてある。

 「斑鳩町史、大和百年の歩み」での北畠略伝の筆者・乾健治は、
 北畠は、本名・平岡武夫、通名・煙管屋鳩平で、明治維新ごろ北畠冶房の名を名乗ったとするが、その事由にはふれていない。
 「法隆寺の横顔」(釈瓢斎著)では、
 法隆寺の寺侍である北畠家の養嗣子となった後、天誅組の旗揚げに加わった、と書いている。
 「国史大辞典」の北畠冶房の項では、
 北畠末重の四男として、大和国平群郡法隆寺村に生まれる。家は代々中宮寺宮仕人。と解説されている。
 最後に、「新・法隆寺物語」(大田信隆著)では、
 いつの頃か、南北朝時代の忠臣、北畠親房の末裔と称し北畠冶房と名乗った、と書かれている。

 さて、何が本当なのであろうか。
 どうも、すっきりとしない。
 この点について、直木孝次郎は、故橋本凝胤(薬師寺管長)との座談の時の話として、このように書いている。(新編私の法隆寺)
 私も、この話が、一番真実味があり、当たっているのかと思う。


橋本凝胤
(北畠冶房は)「歴史メーカーですよ。いろんな事自分でつけ て、自分の家系を作ることもした。あれ平岡という人ですが、北畠ってなもの(では)ありません」
といい、「北畠親房とは無関係ですか」と念を押すと、
「あー何も関係ない。中宮寺の執事をやってた」
 といっておられる。北畠男爵が存命のころ法隆寺で修行した凝胤師の話なので、信憑性がある。
 名門北畠とは無関係とする説のほうがよさそうに思える。

 どうやら、北畠親房の末裔であると唯自称し、その家系図まで自分で作ってしまったということのように思えるが、北畠冶房は、法隆寺村に戻ってからは、北 畠親房の墓を探し回ったりしていたということだ。


北畠冶房夫妻
 こんな風に書いていると、北畠という人物は、
 一見、志高い硬骨漢のように見えるが、なにやらご都合主義的自画自賛の法螺吹きのようで、胡散臭いところがある。かけて加えて傲岸不遜の我儘放題の雷親 爺。
このように思ってしまう。
 しかしながら一方、大阪控訴院長まで昇りつめ、終生法隆寺の信徒総代をつとめ寺の存続発展にも尽力するとともに、法隆寺の諸研究にも精通し自論を展開し た人物でもあった。
 特異なキャラクターの人物ではあったが、何でもかんでもけなしてしまうのは、いささか可哀想で如何か?と思うのである。

 この点について、直木孝次郎は次のように実感を記している。


直木孝次郎
 官界を引退して法隆寺村に住んでからの彼は、先に紹介した 喜田貞吉の回想記にみるように、傲岸不遜の行いが多く、法螺吹きでハッタリの頑固おやじのように見えるが、単なる法螺吹きやハッタリでは、検事長や控訴院 長がつとまるはずがない。
 幕末には天誅組の大和挙兵や、天狗党の乱に加わって白羽のもとをくぐり、明治政府にあって日本近代化の先頭に立って働いた北畠にとって、大和の農民がど こでもがそうであるように、法隆寺村はあまりに穏やかで、旧態依然で、さらに言えば官尊民卑でありすぎた。
 この静かすぎる村が、晩年の北畠を作りあげるのに、あずかって力があったのではないかと私には思えるのである。(新編私の法隆寺)

 


       

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