埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百二十九回)

  第二十三話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その6〉 〜仏像の素材と技法〜石で造られた仏像編〜


 石仏の製作者と技術

(1)石仏のはじまりとその作者

 飛鳥白鳳から奈良時代に至る仏教美術開花の頃、石仏は誰が彫っていたのだろうか?
 金銅仏の世界では、止利仏師の名が知られるよう「仏師」という専門職が存在した。
 「石仏専用の石造彫刻技術者」といった技術者集団はいたのだろうか?


石馬】鳥取県淀江町
 石材の加工技術や、石彫技術を振り返ると、古墳時代には石棺がつくられ、石人石馬といった丸彫的な石造もされていた。
 一方、飛鳥周辺には、「「亀石」」「「猿石」」「二面石」「益田岩船」などの石造物が遺されている。
 この飛鳥の石造物は、いずれも花崗岩を素材としている。
 我が国の伝統的表現とは顕著な違いが見られるとともに、自然石の形をうまく利用した石彫ではあるものの、硬い石を見事に加工していることから、渡来人の手になるものといわれている。

 
    【飛鳥 亀石】花崗岩           【飛鳥 猿石】花崗岩

 片や、最も古い時代の石仏の遺品は、石位寺三尊石仏、古法華石龕仏、当麻石光寺弥勒石仏あたりで、軟質の岩石で造られている。

  
【石位寺三尊石仏】砂岩      【古法華石龕仏】凝灰岩    【石光寺弥勒石仏】凝灰岩

 谷口鉄雄は、石仏彫刻の担い手について、このように述べている。
 古墳時代の石棺制作者に「石作連(いしづくりのむらじ)」という姓を賜った(新撰姓氏録)という記録があるのに、奈良朝の文献に「石作連」の系統の言葉が出てこず、「「石工」」という名しか見えないことなどから、
 「当時の大和地方の石造文化全体としてみれば、石作連のごとき古い伝統に立つ石工に代わって、新しい仏教美術の観念と表現方法を身につけた石工が台頭したのではないかと推測される。・・・・・・・・・・
とにかく古墳時代の石棺や石人石馬の制作と、石仏の制作との間には単純な直線的移行は不可能ではないかと思われるし、同じ石工の中にも、山で石を切り出す石工や建築の礎石、基壇、石塔などを造る石工と、仏像を造る石工とでは、その性格に大きな違いがある。
 現存の奈良朝の石仏の遺品の性格(先に述べたその絵画的表現の性格)から考えるとき、むしろ石仏の制作には画工あるいは一般の彫刻師が従事したのではないかと想像したくなる。」(日本の石仏)

 第1期と呼ばれる、飛鳥白鳳から平安初期の時代の石仏石彫の技術とその背景を論ずるのは、なかなか難しいようだ。
 主としては、渡来人が石仏彫刻に携わったのだろう。
 石彫専門技術集団がいたのだろうか、また谷口鉄雄が指摘するように、一般の彫刻師が兼ねるようなことであったのであろうか?
 石造遺品を見てみても、石位寺三尊仏は軟質砂岩で押出仏のような彫刻表現、古法華石龕仏は凝灰岩の厚肉彫りで木彫風のところも在る一方で、頭塔石仏や狛坂磨崖仏は硬質花崗岩で薄肉彫りに近い彫刻であることなど、さまざまだ。

 石仏に限らず、仏教文化伝来開花のこの時期は、「多様式並存の時代」とかつて飛鳥白鳳彫刻史で語られたように、多様な文化や技術がいろいろに展開した時代と云っても良いのかもしれない。


(2)磨崖仏の時代と木仏師

 第2期、藤原後期は「磨崖仏の時代」である。
 この磨崖仏を制作、彫刻したのは、主として「木仏師」の手によるといわれる。
 石仏の彫刻者の性格には、二通りあると考えられる。
 そのひとつは、石塔とか石碑を刻んだ石工が、石仏も刻んだ場合。
 もうひとつは、木彫などの作者が、石仏も刻んだ場合である。
 この時代は、後者、即ち木仏師が磨崖仏制作に従事し、石仏制作の主導権を握った時代となった。

 「なるほど、木仏師の手によるものだ」という石彫技法を見てみたい。
 臼杵磨崖仏のそれぞれの石仏の技法と表現をみると、そのことが良く理解できる。
 石仏群すべてに通じる話ではあるが、古園石仏が最も判りやすい。

頭部が割落ち地面に置かれた古園大日如来
 古園石仏は、厚肉彫りと云っても、文字通りの丸彫に近く、頭部はほとんど岩側から遊離し、わずかに体躯の背面で岩壁に接している。
 磨崖仏としては、危険極まりない手法で、軟質凝灰岩で節理の走りやすい岩質に、このような大胆な手法を試みていることは、作者が石仏、磨崖仏というものに、未経験、無知であることを物語っているのではと思われる。
 本来の石工ではまずやらないだろう。
 案の定、大日如来の頭部は割れ落ちてしまい、長らく頭部が地面に置かれたままになっていた。
 ちなみに、福島泉沢磨崖仏も、丸彫に近い厚肉彫りで刻まれていたが、どの石仏も、岩質が軟弱であるため(砂岩)、顔部等が皆崩れ落ちてしまい、両手も失われてしまっている。

 加えて、大日如来は、智拳印を結ぶ前膊と、左右に十分な張りを持つ両足部は別材で彫成し、これを磨崖に刻む本体に矧ぎ寄せる構造にしているのは、木彫像における、寄木造りの手法をそのまま連想させる。
 左端の多聞天などは、下半身を別石で造り、その部分に木彫でしばしば行なわれるような内刳りに似た内部からのはつりを行い、さらに右足を矧ぎつけて足枘まで造り出していいるのには、驚かされる。
 まさに木彫技法、そのものだ。

 
脚部別石材矧ぎ寄せの古園大日如来 下半身別石材、右足矧ぎ付の古園多聞天


稜線鋭く木彫の彫り口を示す臼杵石仏
 そして、何よりも木彫的だと感じることは、その彫技、彫法である。
 一般的に石彫は、鑿をあててその柄頭を槌でたたいて削るという加工法で彫り進めていくのであるが、臼杵石仏群は、彫刻刀や平刃の鑿で直接彫刻する技法で仕上げられている。
 今では、軟質凝灰岩のために風雨に摩滅して、彫刻の痕がにぶくなり、刀法の鋭さを体感できにくくなっているが、それでもあたかも粘土を小刀でもって切ったような痕と、稜角の鋭さを残している。
 躰部に平ノミのハツリ痕を明らかに残しているものもある。
 木彫の微妙で細やかの彫り口、表現そのもののようだ。

 各地に残された磨崖仏も、それぞれ同様の制作技法が採られている。

 そして、こうした技法と表現を可能にした石材が、凝灰岩であった。
 木仏師の技術で石仏を刻むというのは、硬質岩石をイメージすると、当然に不可能なことである。
 しかし、軟質の凝灰岩層であれば、木仏師の技法による石仏制作が可能であった。
 また、平安時代には、硬質岩石を石彫出来る技術が、いまだ確立、定着していなかった。
 軟質凝灰岩層を求めて、そこに磨崖仏を造営し、その制作に「「木仏師」」があたったといえるのであろう。

 この時代、丸彫の世界も、木仏師の制作と考えられている。

 平安末期の、高知最御崎寺の如意輪観音像は、蝋石質の軟材(大理石)の丸彫像だが、顔容、衣文、瓔珞に至るまで、木彫同様に精緻に彫成されている。
 鎌倉時代の有名な丸彫石像、宮田不動堂の不動明王石像は、明らかに木仏師の手になる石仏だ。
 この像は、凝灰岩材の丸彫で、腰の辺りから上下に分けて造られている。
 その接合箇所には、穴がうがたれ、納入物が奉納されているほか、墨書銘が残されている。
 墨書銘によれば、建長3年(1253)院隆、院快によって造立されたとあり、院派の木彫仏師の手になることが明らかである。

 
【宮田不動】上下半身2材寄せ、複合面墨書銘

 鎌倉時代に入ると、木仏師に石仏制作は段々と行なわなくなり、石工による花崗岩石仏が主流になってくるのであるが、軟質凝灰岩を用いた木仏師の石仏制作も、傍流衰微となりながらも、脈々と続いていたことが知られるのである。

 


       

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