埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百二十五回)

  第二十三話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その6〉 〜仏像の素材と技法〜石で造られた仏像編〜

日本の石仏〜時代の流れを追って〜

 まずは、鎌倉時代までの代表的石仏作品について、石仏の彫法や石材の種類などにふれながら、時代の流れを追ってみてみたい。

 石仏の時代区分については、久野健が自著「石仏」(日本の美術36:小学館刊)で、3期に区分して説明しており、大変わかりやすい。
 その主旨を、大胆にまとめてみると、次のようになる。

区分 時代 考え方 代表的作品
第1期 飛鳥時代〜平安時代初期 渡来人主導で石仏が制作された時代 石位寺三尊石仏(奈良)、古法華石龕仏(兵庫)、当麻石光寺弥勒石仏(奈良)、頭塔石仏(奈良)、滝寺磨崖仏(奈良)、狛坂磨崖仏(滋賀)、地獄谷磨崖仏 (奈良)
第2期 藤原時代後半期 各地に大きな磨崖仏が、木仏師による石彫が主流で、製作された時代 臼杵石仏(大分)、大谷石仏(栃木)、日石寺磨崖仏(富山)、泉沢石仏(福島)、熊野磨崖仏(大分)、金屋石仏(奈良)最御崎寺石仏(高知)
第3期 鎌倉時代以後 宋からの渡来石工がもたらした石彫技術により、硬質花崗岩の石仏が多数製作された時代 大野寺弥勒磨崖仏(奈良)、石像寺阿弥陀三尊石仏(京都)、藤尾磨崖仏(滋賀)、サンタイ阿弥陀磨崖仏(京都)、箱根石仏(静岡)、十輪院石龕仏(奈 良)、宮田不動堂不動明王(群馬)


(1)石仏のはじまりと展開
 第1期、飛鳥時代〜平安時代初期の石仏の代表作をみてみたい。

 文献に現れる最初の石仏は、「日本書紀」敏達天皇13年(584)に、鹿深臣が百済からもたらした弥勒石像。
この石仏は蘇我馬子があつく信仰するが、翌14年に排仏派・物部守屋によって焼かれて、難波の堀江に棄てられたといわれる。
 一尺ぐらいの小像で、百済渡来というから、たぶん花崗岩で造られていたと想像されている。
 わが国では、硬質の花崗岩彫刻は未経験であったことから、直ちにこれを倣った石像が造られていくということはなかったのではないか、と考える人もいる。


【石位寺三尊仏像】半肉彫り・砂岩
 現存最古の石仏は、白鳳〜奈良時代のもので、その代表格は石位寺三尊石仏像(奈良県桜井市)。
 端正な顔立ちや繊細な身体の線が印象的な美しい仏像で、深大寺釈迦倚像を髣髴とさせる。
 この像は、高さ1.2m、丸みのある三角形の砂岩の表面を整え、三尊仏を半肉彫りにしており、押出仏のような感じがする。
 唇に差した紅がわずかに残っており、彩色像であったとか、漆箔像であったとも言われている。
 以前は寺の庭に放置してあったのを、大正5年(1916)に関野貞によって認められてから、厨子に安置されるようになり、現在はコンクリート製の収蔵庫に納められている。

 兵庫県加西市の古法華石龕仏も白鳳〜奈良時代の石像。
 昭和30年(1955)、田岡香逸らによって発見され、大注目を浴びた。
 残念ながら、顔から体躯まで、剥落してしまっている。
 縞目のある凝灰岩製の厚肉の浮彫りで、木彫風のところもあり、彫刻刀を用いた木仏師の手になるのではと考えられている。

 当麻寺石光寺の弥勒石仏も、近年発見された石仏だ。
 平成3年(1991)、約1.5mと推定される石仏坐像が発掘された。大きく損傷、欠失しており、像容は崩れているが、7世紀後半、白鳳時代の制作と見られている。
 松香石と呼ばれる二上山の凝灰岩を用いて、丸彫りされている。

 
【古法華石龕仏】厚肉彫り・凝灰岩     【石光寺弥勒石仏】丸彫り・凝灰岩

 奈良市内の頭塔石仏は、東大寺僧・実忠が、神護景雲元年(769)に造立した土塔に遺された石仏。
 土塔の四方各面に、13基の石仏が遺されており、1m前後の花崗岩の自然石を利用している(1基は粘板岩)。
彫法は、11基が薄肉浮彫り、陰刻と線刻が一基ずつとなっている。
 
     頭塔              【頭塔石仏】薄肉彫り・花崗岩

 このほか、滝寺磨崖仏は、約3.5mの安山岩の岩肌に、線刻と半肉彫りで塔、仏殿、三尊仏などを石彫した磨崖仏で、奈良時代の制作。
 狛阪磨崖仏は、湖南の金勝山山頂近くの6mほどの花崗岩の巨石に、阿弥陀三尊を浮き彫りしている。奈良時代から平安時代初期に、硬質花崗岩の石彫を多く手がけた、新羅からの渡来工人の作であろうとされている。
 奈良春日奥山の地獄谷聖人窟の石仏も、奈良時代から平安時代の制作といわれるが、これは凝灰岩の石窟に仏菩薩像を線刻したものだ。

 
狛坂磨崖仏】半肉彫り・花崗岩        【地獄谷聖人窟石仏】線彫・凝灰岩

 こうしてみると、この白鳳〜平安初期にかけては、単独の石仏から石龕仏、磨崖仏まで、バリエーションに富んだ石仏が遺されている。
 石材も、軟らかい砂岩から凝灰岩、粘板岩、さらには硬質の花崗岩までさまざまだ。
 渡来人主導で、いろいろな石仏が制作された時代といえるのだろう。
 頭塔石仏、狛坂磨崖仏は石彫の難しい花崗岩製で、当時、硬質の花崗岩に石彫する技術を有した新羅系の挑戦渡来工人の手によると考えられている。

 久野健は、飛鳥から平安初期の石仏の性格について、その所在地から、このように述べている。

「7世紀の遺品は、多くは単独像で、おそらく石位寺の三尊石仏のように、堂内に木彫や金銅仏と同様に安置され礼拝されていたものであろう。しかし8世紀に入り、山林修行という思想が出てくるにつれ、石仏は、やや人里はなれた静寂の地が選ばれるようになった。
飯降、宇智川および滝寺の磨崖仏などがそれである。これらは当時の知識たちにより造像された仏像と思われるが、いずれも人里はなれた小高い丘や川べり等が選ばれている。
これに対し9世紀に制作された狛坂廃寺の磨崖仏は、今日でも登るには骨の折れる峻険な山頂近くにあり、平安初期の山岳仏教と深く結びついていたことが知られる。」

 なるほど、とうなずいてしまう。

 



       

inserted by FC2 system