埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百十九回)

  第二十二話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その5〉  仏像の素材と技法〜木で造られた仏像編(続編)〜

(3)平安時代の木彫仏

【カヤ材からヒノキ材へ】

 木彫像に使われる用材。
 飛鳥白鳳はクスノキの時代、奈良後期〜平安前期はカヤの時代、平安中期以降はヒノキの時代、と呼んでも良いだろう。
 そして、平安前期の一木彫用材に、ヒノキではなくカヤが用いられたのは、「十一面神呪心経義疏」の説く仏像用材「栢木」に、わが国では「カヤ」が充てられたことによるものであろうと考えられている。
 このあたりのことは、前編で触れたとおりだ。
  
クスノキの巨木(鹿児島・蒲生)   カヤの巨木(静岡・島田)   ヒノキの巨木(岐阜・神坂)

      
  
クスノキ材         カヤ材           ヒノキ材

  
クスノキ材像          カヤ材像           ヒノキ材像
【法隆寺夢殿救世観音立像】    【神護寺薬師如来立像】    【兵藤院阿弥陀如来坐像】

 一方で、日本は木の文化の国、ヒノキの国とも云われる。
 「木の文化」を研究する小原二郎は、
 ヒノキは、日本でもっとも豊富に産する良材。
 だから、木彫の時代ともいえる平安時代に入り、ヒノキが彫刻用材として用いられるようになるのは当然の流れであり帰結である。
 このように考えて、次のように語っている。

「わが国のヒノキは材質がもっとも優れている。すなわち緻密強靭で、木目は通直、色沢は高雅で、耐久力があり、かすかな芳香がふくいくとして薫り、わが国の用材中の第一位にあげられるものである。
ことに彫刻用材としては材質が均一で、春材と秋材の区別が少なく、刃当たりもなめらかで削りやすい。またねばり強くて、欠けることが少なく、狂いも小さくて、仕上がりが美しいから、彫刻師がひとたびヒノ キを使うと、もはや他の木を使うことはできにくいであろう。」

 そして、小原の時代には、平安初期彫刻の用材は、カヤではなくヒノキであると考えられていたので、

「ヒ ノキは、美しい切り口と鋭いしのぎをあらわすことができる。それは強くて奥行きが深く森厳な雰囲気をかもし出す密教の仏像の材料として、もっとも適したも のであった。そうした素地の上に、神護寺の薬師像や、室生寺の釈迦如来像のような像が生み出され、わが国独自の木彫を発達させる基盤がかたちづくられたの である。」

 と、述べている。

 ところが、現実には「ヒノキの時代」の前に「カヤの時代」が存在する。
 ヒノキでもカヤでも、木彫としての造形や表現上の特質は、同じなのだろうか?
 「クスノキは金属的な硬質感、カヤは緻密な重量感、ヒノキは繊細な柔和感」
 を感じさせる、私はそのように思っている。

 そんなことを考えていたところ、辻本干也が、大変興味深い話を語っているのを発見した。
 「カヤとヒノキとの特性の違い」についてである。
 辻本は、自著「南都の匠」で、仏師という現場の経験の積み重ねから、このように語っているのだ。

 「ヒノキのような針葉樹よりは、クスノキやケヤキのような広葉樹材を用いた彫刻の方が、はるかにボリュームがありますね。ですからヒノキを使って彫刻したものはどうしても表面を着色しなければいけないですし、しばらくたつと出来上がったときより少しやせてくる。
 (ヒノキより)カヤの方が目がつんでますし、ボリュームも出ますね。木曾のヒノキはきれいですけれども、何かふわっと浮くような感じですね。
 ヒノキの場合は、・・・・・・出来上がった感じが、その上に漆をかけたり、金箔を押さないことには、どうしてもボリュームが強く出ないんです。」

 要するに、ヒノキは建築用材としては一等材だが、彫刻用材としては次善のものである。
 だから、ヒノキ材の彫刻にボリューム感を出す為には、どうしても仕上げに漆箔だとか乾漆だとかで、コーティングをする必要があるのだ、というのである。

 この、辻本の話を読んで、「なるほど!」と、今までなんとなくもやもやしていたのが、すとんと腹に入ったような気がした。

 神宿る霊木から神仏の姿を顕そうとする平安初期彫刻、
 その森厳、デモーニッシュ、マッシーブな造形表現の為には、一木彫と云う技法で、緻密で重厚感ある「カヤ」という用材を。
 優美な浄土を現世に再現した藤原彫刻、
 その日本独自の柔らかで軽やかな金色の世界、即ち「木の肌ざわりの金色の文化」という和様文化の造形表現の為には、寄木造りという技法で、繊細・柔軟な「ヒノキ」という用材をそれぞれに用いることが、必要であったのだ。
 いや、それぞれの用材は「カヤ」「ヒノキ」でなくてはならなかった。
 それを置いてほかはなかったのだと、独り納得したのでありました。


【一木造りから寄木造りへ】

 平安前期の一木造りから、平安中後期の寄木造りへの展開。
 何故、寄木造りに変化していったのだろうか?
 その事由には、次のようなことが云われている。

*11Cごろには、大像制作が飛躍的に流行し、用材調達、分業要請、運搬上の軽量化など、技術的経済的要因から発展した。

*平安前期彫刻は「塊量的な量感の強調と重量感」を特色とし、藤原彫刻は「量感を抑えた平面的構成、端正で装飾的構図」を特色とする。
この様式的要請の差が、一木彫から寄木造りへの技法展開をもたらした。

*平安前期は「彫刻的具象性」、藤原期は「光覚的絵画性」を求めた時代。
これは「素材の純粋性への拘り」から「素材性の否定」への変化をもたらす。
これが、木を寄せ深い内刳りで中空にする寄木造りが、流行した事由。

 こうした考えに対して、
「藤原様式の成因を寄木造りのもつ技術的・構造的性質から一義的に解釈しようとする考え方だけでは、充分説明できるものではない。一木造りなのに温和、寄木造りなのに重厚、という作例もある。」(清水善三)
「技法の展開によって表現が左右されるようなことは、原則的にありえないことである」(西川杏太郎)
とし、
 技法と表現には、常に有機的関連はあるものの、直線的、一義的な解釈に慎重な意見もある。

 こんな議論のある、「一木造りから寄木造りへの展開」であるが、実際には構造・技法がどのように変化・展開していくのであろうか?
 西川杏太郎が「木寄せ法の展開の事例」として自著(「一木造りと寄木造り」)に掲載している作例に則ってみていきたい。

 大変わかりやすく、代表的な如来形坐像の7躰の例が、紹介されている。

【一木造りから寄木造りへ、木寄せ法の展開構造図】(西川)

 「1〜3」の3躰は「一木造」「割矧造」の作例、「4〜7」の4躰は「寄木造」の作例。

 まず【その1】は、
 「膝前まで一木材で背刳りを入れている一木造り」のケースだ。
 寛平4年(892)銘、慈尊院弥勒菩薩坐像で、背中と頭部の後ろから大きく内刳りを入れ、蓋板をしている。
 
                  【慈尊院弥勒如来坐像】 模式構造図(西川)

 【その2】は、
 「膝前まで一木材であるが、前後にいったん割り離し、内刳りしている割矧ぎ造り」のケース。
 9世紀後半作、勝常寺薬師如来坐像で、像底からの写真を見ると、割り矧いだ不整な線や鎹(かすがい)で留めてあるのがわかる。内刳りはザックリという感じで材は相当分厚く残されており、軽量化ではなく干割れを防ぐ為に行なわれたものと思われる。


 
                  【勝常寺薬師如来坐像】 模式構造図(西川)

 【その3】は、
 「頭体部を一木、膝前に横材を矧いだ一木造り」のケース。
 延喜7年(907)作、醍醐寺薬師如来坐像の作例で、一木造りの坐像に、最も典型的に見られる構造で、ほとんどの大型一木造り坐像は、このように造られている。

 
                  【醍醐寺薬師如来坐像】 模式構造図(西川)

 さて、ここからは寄木造りの作例。
 寄木造りは、10世紀後半から始められたと云われている。

 【その4】は、
 寄木造りが始められた頃の、最も古い作例である。
 六波羅蜜寺薬師如来坐像で、角材2材を像の正中線に当たる位置で、左右矧ぎにしている。
 このパターンの左右2材矧ぎの作例には、大阪・安岡寺・千手観音坐像、法隆寺講堂薬師三尊の両脇侍像がある。
 共に、10世紀末頃の制作で、この頃に左右2材矧ぎという技法で、寄木造りが始められたのだと思われる。

 
                  【六波羅蜜寺薬師如来坐像】 模式構造図(西川)

 この頃は、一木造りから寄木造りへの転換期であったらしい。
 面白いことに、法隆寺講堂薬師三尊などは、大きい方の中尊が一木造りで、小さきほうの両脇侍がこの方式、即ち左右2材矧ぎの寄木造りとなっている。

 転換期を象徴するような仏像は、寛弘3年(1006)康尚作、同聚院不動明王像。
 かろうじて一木造りという構造だ。
 具体的には、大型像のボリュームを出す為、前後3列の材からなり、主材たる前列は両脇に板を寄せ一木造りの形をとるが、取材の全材料に占める割合は半分以下で、一木造りが限界に近づき、新たな寄木という対策を模索しつつある状況を物語っているように思える。
 過渡期、転換期の新旧技法のせめぎあいを感じさせる。


{同聚院不動明王像}

 躰部前面から頭部にかけては、一材で造っているが、ボリュームを出す為に、その他の材を材を補足している。

(構造模式図:山崎隆之「仏像の秘密を読む」から転載)








 【その5〜7】は、
 寄木造り最盛期11〜12世紀の、木寄せ技法のバリエーションの作例。
 平等院、法金剛院、法界寺の阿弥陀如来坐像で、藤原の定朝様仏を代表する仏像だ。
 頭躰部を、前後左右4〜6材の根幹材で木寄せして造っている。
 寄木造りの材の寄せ方は、各工房の得意とするところにより、また調達した材の大きさなどによって、各種の組み方が行なわれたようだ。
 そこには木寄せの原則があり、しっかり守られている。
 そのポイントは、

・頭躰部主用材は縦目材で、矧ぎ目は正面では正中線を通る。
・側面は前後2材矧ぎの場合は矧ぎ目が両耳後ろ、前後3材の場合は矧ぎ目が両耳の前と後を通る。
・坐像両膝部は、必ず材を横に並べる。

 と、いったところだ。

 
                【平等院阿弥陀如来坐像】 模式構造図(西川)
 
                  【法金剛院阿弥陀如来坐像】 模式構造図(西川)
 
                  【法界寺阿弥陀如来坐像】 模式構造図(西川)

 「なるほど。このように一木から寄木に発展していったのか」
 この構造模式図を見ていると、9世紀から12世紀へと、仏像の構造技法が一木造りから寄木造りへの発展展開していく有様が、手にとるように良く判る。

 ただし、すべての木彫仏像が、制作年代の推移とともに、このような発展過程で技法が変化するわけではない。
 地方では12世紀に入っても木寄せの簡単なものや、割り矧ぎを用いた像が多いし、中央でも等身以下の小像は一木割り矧ぎの技法のものが圧倒的に多い。
 また、12世紀に入っても、一木造りの作例が遺されている。
 この時代、「一木造り⇒⇒一木割矧ぎ⇒⇒寄木造り」という展開の大きな流れはあるものの、すべてを一線上において考えるのではなく、いろいろな技法のヴァリエーションが、いろいろな事情に応じて用いられていたようだ。

 


       

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