埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百回)

  第二十話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その2〉  仏像の素材と技法〜漆で造られた仏像編〜


 【20−2】

 ところで、天平の木心乾漆像を代表する聖林寺十一面観音像は、観る人によりその芸術的評価が極端に分かれることでも知られている。
 この像を、天平の最高傑作として賛美する人もいるが、天平末の形式化の欠点いちじるしい二流品と解する人もいる。
 この仏像を、天平随一の名作、傑作として名を上げさせた代表格は、和辻哲郎、矢代幸雄などであろう。
 和辻哲郎は「古寺巡礼」で、このように記している。
 「Z君(原善一郎〜原三渓の長男)は、・・・特に(三月堂の)不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。それにはわたしも中々同意は出来なかった。天平随一の名作を選ぶということであれば、わたしは寧ろ聖林寺の十一面観音を取るのである。・・・・・
  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また 超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかしそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさが現されている。・・・・・
 肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の制作である。」

 
 この和辻の絶賛で、聖林寺十一面観音は、天平彫刻の傑作としての地位を獲得し、奈良を訪れる人々の圧倒的人気を博するに至った。


土門拳撮影 聖林寺 十一面観音像
 写真家・土門拳も
 「それは菩薩の慈悲というよりは、神の威厳を感じさせた。厚い乾漆の亀裂が顔にあってすごい、ものすごい感じを見る人に与える。・・・・・・・
  木心乾漆漆箔独自の技法が、単に一木造でもなく、鋳造仏でもない、柔軟性のある肉どりの自然さがよい。その荘重な気宇と表現形式とがぴったり融合して、い ささかも過不足の感じられないところに、奈良朝盛期に造られたこの像の特色がある。天平時代の乾漆像のなかでも最も優れたものといえよう。」

 と語っている。

 世の大層はこのような評価で、奈良大和路観光ポスターなどにも盛んに使われ、大人気を博している。
 一方、この十一面観音に手厳しい評価を下している人もいる。

 昭和初期の美術史学者で、レオナルド・ダヴィンチ研究で名高い児島喜久雄は、「天平彫刻と様式問題」(小山書店刊天平彫刻所載)という論述のなかで、
 三月堂不空羂索観音以下の九体の諸像を、希臘美術の第一盛期にも比すべき天平前期の代表作するとともに、「下ってあの間の抜けた聖林寺十一面観音等」と述べ、
厳しく位置づけている。

 昭和後期の仏教美術史学者、町田甲一はもっと手厳しい。
 町田は、三月堂不空羂索観音を天平彫刻の最高傑作と位置づけ、二流と考える聖林寺十一面観音との比較を、このように記している。
  「この羂索観音にあっては、豊かな肉取りの中に適度の緊りを示し、聖林寺観音のいかにも緊りのない贅肉のごとき肉質感とは、その引緊まった力強さの点でま さに雲泥の差を示している。・・・・・・・かの聖林寺観音が此の部分の盛り上げを『ぶざま』に誇張し而もその弾力を失って弛緩し切っている生気なき肉質感 を表出しているのに対して、よき対象を示している。・・・・・・・
 此の様な此の像(不空羂索観音)の相貌は、毎度例に引く聖林寺観音の、あのふ やけたような、腫れぼったい寝呆け顔とは全く比べものにならない優れた表現のものであって、凛とした力強い容貌を遺憾なく彫出しているものである。」(座 右宝刊行会刊天平彫刻の典型〈S22〉所載)
 
 
三月堂 不空羂索観音像        聖林寺 十一面観音像

 町田は、三月堂不空羂索観音が、不遇にも多くの人に正しく評価されていず、一 方、聖林寺十一面観音が一見西欧風の堂々たる体躯を示し、当時の人文教養主義者たちの好みにアピールし、そのような人の巧みな文章のおかげで激賞、優遇さ れていることの不当性を感じ、その優劣を明らかにしておきたかった、と回顧している。

 現代の美術史学者、田中英道も、著書「日本美術全史〜世界の中の日本美術〜」のなかで、「和辻哲郎『古寺巡礼』批判」という項を設けて、
 此の書は、無味乾燥な記述本位の美術書よりも読ませる力を持っているが、その審美的観点では、対象に対する感情移入の度合いが強く、冷静さに欠けている面がある。
 聖林寺十一面観音については、和辻は「神々しい威厳と人間のものならぬ美しさ」と語っているが、この像は秀作であるとしても「和辻の言う天平の代表作」のように述べるわけにはいかない。
 という主旨の記述をしている。

 この仏像の評価論議は、天平彫刻という芸術の、様式表現の盛期頂点と衰退衰微の時期、作品をどのように捉えていくかという見方に関るものであろう。
 物の良し悪し、芸術の美しさ、というものを論じるのは、なかなか難しい。
 結局は、個人の心のうちにある感性や好き嫌いということに帰するということなのだろうかと思ってしまう。

 私自身も、三月堂不空羂索観音が緊張感ある最高傑作で、聖林寺十一面観音は少々緩みや退廃の匂いがすると感じているほうであるが、爛熟、衰退期の作品のなかからも、何を感じ、何を発見評価するかという美的感性の問題なのかもしれない。

 寺尾勇は、聖林寺十一面観音について、
 「滅びは花咲く姿で」「美しく腐る」「登りつめたものの柔らかさではなく、滅びゆくものの柔らかさ」(古寺細見所載)
 というフレーズで表現しているが、この像のかもし出す魅力の本質をついているような気がする。
 ひょっとしたら、この像が、脱乾漆で造られていたならば、もっともっと抒情的で、滅びの定めの美を感じさせる仏像になっていたかも知れない。


 ここまでに採り上げた本について、紹介しておきたい。

 「天平彫刻」 編集代表児島喜久雄 (S29)小山書店蔵版生活百貨刊行会刊 【214P】 1500円

 戦後まもなく出版された、天平彫刻についての論集・随筆集。上野直昭、木下杢太郎ほか研究者、文化人、芸術家16人の寄稿が所載されている。
 古い本であるが、寄稿集なので、わかりやすく気楽に読めるが、なかなか内容の充実した本で、大変面白く読めるお薦めの一本。
 天平彫刻の技法と本稿に関連したものは、次のよう様なもの。
 「高村光太郎:天平彫刻の技法について」「安田靭彦:天平彫刻雑感」「野間清六:素材より見たる奈良彫刻の特性」「新納忠之介:天平彫刻の構造法」「児島喜久雄:天平彫刻と様式問題」
 余談中の余談ながら、本書はS19初版刊行されたが、空襲で数部を残して焼失、戦後S24、小山書店新書として出版された。
 小山書店主小山久二郎は、安部能成の甥で岩波書店出身、戦前から良書を数多く出版。
 戦後、D.Hロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を伊藤整訳で出版。S26いわゆる「チャタレイ裁判」で起訴され、倒産に追い込まれる。
 その後、妻の名で生活百貨刊行会という有限会社を設立した。
 本書が、「小山書店蔵版生活百貨刊行会刊」となっているのは、このいきさつによるもの。
 

 「古寺細見 ほろびの美」 寺尾勇著 (S58) 日本資料刊行会刊 【436P】 4800円

 奈良の古寺と仏像の魅力を、美術史家が、抒情的な思慕をこめて語った随筆集。
 寺尾勇は、M40生まれ。美術史学者として大和を愛惜、奈良に住むこと40年、長らく奈良大学教授であった人。
 奈良の仏像、古寺の探究書、随筆等の、多くの著作をのこした仁。


 「古寺巡礼」 和辻哲郎著 (T8初版) 岩波書店刊 【297P】

 謂うまでもなく、古寺巡礼の名著・定本。奈良の古寺・古仏を鑑賞する者の必携書。
 和辻が奈良を訪れたのは、T7年5月で、当時29歳。その紀行随筆を「思潮」に連載、翌年岩波書店から単行本出版されたのが「古寺巡礼」。
 わたしも必携、愛読者の一人であるが、心においておかなければいけないのは、この古寺巡礼は、哲学・倫理学者で美術の専門家ではない和辻が、若き教養人として奈良を訪れ、古寺・古仏にふれた印象を情熱をこめて書いた、「若書きの書」であることであろう。
 29歳の若者が、奈良美術の印象を綴るとき、綴るとともに感動や興奮が高まり、なお筆が走る、といったような面もある。
 それがまた、この「古寺巡礼」の魅力となっているのである。


 「天平彫刻の典型」 町田甲一著 (S22) 座右宝刊行会刊 【54P】 25円

 著名な仏教美術史学者、町田甲一の31歳のときの著作。
文庫版の薄い本だが、町田の天平彫刻への芸術論、芸術価値感が、青年の熱気に満ちた鋭い舌鋒で語られている。
 町田は後年、この本の出版の思い出をこのように語っている。
 「聖林寺の十一面観音との初対面は、その(S17)五、六月ごろだったかと思う。・・・
 私は、和辻さんが『古寺巡礼』の中で天平随一の傑作として賞揚し、矢代幸雄氏が口を極めて絶賛しているこの像に、少しも感心出来なかった。むしろ逆の印象を受けたといった方が本当だろう。・・・・・・
 大学を卒業した年に私は、『天平彫刻の典型』という40枚ほどの小文を書いた。・・・
 これが私の処女出版であった。いま読み返すと、まさに冷汗の出てくる血気のみ盛んだった内容の貧しい小著だったが、その中で私は聖林寺の観音を法華堂の本尊と比較しながら手ひどく酷評した。
 初めての自著であり、多くの人にお送りして批評を仰いだが、いろいろ反響があった。その中で、和辻さんは、ニヤニヤ微笑まれながら聖林寺観音について、『そういえば、そうかな』といわれた。・・・・・・・
 一方、矢代さんの方は、その逆鱗に触れて爾来長くその不興を買うようなことになってしまった。」(大和古寺巡歴)
 めったに見ない、珍しい本だが、一度は読んでみたい本。
 

 「日本美術全史〜世界から見た名作の系譜〜」 田中英道著 (H7) 講談社刊 【398P】 5800円

 著者・田中英道はS17生れの西洋美術史家。
 近年、日本美術や仏像についての著作も多く、世界美術史の中で、日本美術とそれぞれの作品をどのような「価値付け」をするのかという観点から論じている。
 本書では、日本美術の名作に、ミシュランもどきの星の数をつけランキングを行っている。
 因みに、乾漆仏では、阿修羅は星5つ、三月堂不空羂索観音は星4つ、聖林寺十一面観音は星3つ、にランク付けされている。


       

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