埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十回)

  近代日本の仏教美術のコレクターたちの本 (2/4)

 

2. モース、フェノロサ、ビゲローとボストン美術館

 モースといえば「大森貝塚の発見」、フェノロサといえば絶対秘仏の「法隆寺夢殿救世観音を開扉」させた人物として、世に知られている。
 実は、この二人にビゲローを加えた3人は、明治の前半期において、我が国古美術品を圧倒的かつ膨大に蒐集した、コレクターであった。
 3人共に、アメリカニューイングランドの出身で、フェノロサをお雇い外国人に紹介し、ビゲローを日本美術蒐集の道に誘ったのもモース。
 古美術品蒐集旅行に、3人で京阪地方に旅行したりして、当時の風潮のなかで、手当たり次第好き放題に、安価で大量に古美術名品の蒐集を重ねた。
 モースは陶磁器、フェノロサは絵画、ビゲローは刀剣、鍔、漆器を主として蒐集。

 後に、三人の主だったコレクションは、すべてボストン美術館に譲渡、寄贈され、国外最大の日本美術コレクションの基礎を築くこととなる。

 彼らのほかにも、ギメ、ブリンクリー、アンダスン、キオソーネなどが、この時期、後世に残るコレクションを蒐集したというが、ここではボストン美術館と3人のアメリカ人についてたどって見たい。

《エドワード・S・モース》

 モースは、1838年ポートランド生まれ。動物学者で明治10年 (1877年)腕足類を求めて来日中に、東京大学動物学教授にお雇い外国人として任じられている。

 「モースの発掘〜日本に魅せられたナチュラリスト〜」椎名仙卓著(S63)恒和出版刊

 この本の題名には《発掘》という言葉が使われているが、モースの日本での足跡、功績と全体像が、一通り要領よく記されておりわかりやすい。
 古美術品のコレクションは、専ら陶磁器に傾注。
 『日本の陶器に魅せられて』の章では、「観古図説」で知られる蜷川式胤に師事、陶磁器研究家となり蒐集を重ねた有様が綴られている。
 モースの蒐集の主眼は、いわゆる「名品蒐集」ではなく、各生産地窯ごとの体系的「標準採取」であったが、そのなかには光悦、仁清、乾山などの名品も多く含まれている。

 帰国後、1892年にコレクション4千6百点を7万6千ドルでボストン美術館に譲渡売却(旅行費用、購入費用等の借金返済のためという)、同館の日本陶磁器管理責任者に任命されている。

 モースに関する他の著作では、自著(日誌)「日本その日その日」(S49)平凡社東洋文庫、「モースその日その日」磯野直秀著(S62)有隣堂などがあるが、小生は未読未入手。

《アーネスト・F・フェノロサ》

 ご存知、フェノロサ。

*西欧崇拝の風潮の中、「美術真説」(明治15年)などで日本美術の優秀性を鼓舞、伝統美術(日本画)復興に大きく寄与した人。
*古社寺宝物調査に参加、天心と共に、法隆寺夢殿救世観音を強引に開扉(明治17年)、世に紹介した人。
*高い鑑識眼で、古美術品を蒐集。その日本画を中心とした体系的コレクションは、今ボストン美術館にあり、自らも東洋部長を勤めた人。

 このような、フレーズでその功績が語られ、まさに日本美術の恩人として世に知られている。

 しかしながら、フェノロサは、もともと美術研究者ではなかった。
 1853年セーラムに生まれ、ハーバート大学で哲学を学ぶ。モースの斡旋でお雇い外国人として来日(明治11年)、東京大学で政治学・理財学を教えた。
 モースに触発され、古美術の蒐集を始め、狩野派をはじめ古画の蒐集、研究に傾注。
 文部省から古美術調査事業を委嘱されるほか、東京美術学校の創設や古社寺保存法の制定に尽力、東京美術学校では美学、美術史の講義を担当するに至っている。
 まさに、日本で美術研究者、美術行政関係者に変身したのであった。

 フェノロサについて記した本はいくつもあるが、自著は意外にもこの一冊。

 「東洋美術史綱(上・下)」フェノロサ著・森東吾訳(S53)東京美術刊

 日本、中国の美術を時系列的、体系的に叙述した大著で、『第一章中国の原始美術』から始まり、『第十七章江戸時代における近代庶民美術』で終わる。
 その美術論はさておき、文中、夢殿開扉や蒐集美術品入手の経緯などが語られており、興味深い。
 本書は、もともと大正10年、弟子で社会学者の有賀長雄訳「東亜美術史綱」として刊行された。難渋文語体の文章で「今日から見ると、誠に珍無類の日本文」と上野直昭に評せしめた書を、改訳したもの。
 そうはいっても、読んでいて面白い本ではない。

 「フェノロサと明治文化」栗原真一著(S43)六芸書房刊

 「フェノロサ〜日本文化の宣揚にささげた一生〜(上・下)」山口静一著(S57)三省堂刊

 フェノロサの〈日本美術との関わり合い、美術品蒐集のいきさつやエピソード〉を知るには、この2冊が、もっとも丁寧でわかりやすい記述、読んでいて面白い。
 フェノロサと古美術を知る必携本。

 「下谷の古道具屋に応挙の鯉の双幅が2円、雪舟の山水が5円で転がっていた話」
 「蜂須賀家伝来、狩野元信の白衣観音図を、美術商山中商会の土蔵の中で見つけ、〜今日(明治39年)なら数千円に値するものを〜25円で手に入れた(明治15年)話」
 「名宝中の名宝、住吉慶恩の平治物語絵巻(三条殿焼討の巻)が、五百円で売りに出たのを、フェノロサが買ったことを絶対に誰にも口外しないと言う条件で、倍の千円で買い上げた話〜国宝級名画の海外流出リスクが知れたら、取り戻し運動が起こるに違いないこと。購入した明治17〜8年ごろには、自ら古美術保存の美術行政に参画していたこと、によると思われる〜」
 などの美術品蒐集譚のほか、
「関西社寺調査旅行、夢殿開扉、畿内宝物調査、コレクションのウェルドへの譲渡・ボストン美術館への寄贈」
 の話などが、盛り沢山に記されている。

 栗原真一は、本書「フェノロサと明治文化」を昭和19年に脱稿している。
 親日家といえども敵国人であったフェノロサの伝記を終戦末期まで書き綴り、出版許可まで取ったが空襲で烏有に帰した。これを子息が本人没後(S22没)二十余年を経て、出版に至った書。

 山口静一はフェノロサ学会副会長で、明治期における日米文化交流の原点を探る作業の一環として、フェノロサ資料の蒐集に十数年を費やしているという。
 一冊だけというなら、この著作「フェノロサ」を採りたい。

 「フェノロサ〜日本美術の恩人の影の部分〜」保坂清著(H1)河出書房新社刊

 「日本美術の恩人」という、これまでの認識に疑問を呈し、問題提起をおこなった本。
 著者保坂は、次のようにフェノロサを論じている

 フェノロサは、見方を変えれば、図太く、したたかで、また狡猾な面があった人物ではないか?
 彼の、記念碑的演説「美術真説」評としてこんな声がある。
 『西洋人の口から日本美術を称賛ささぬと、日本の大官たちが美術のことに力を貸してくれぬので、フェノロサにしきりに日本美術を称賛さしたものです。フェノロサを抱きこんだのも岡倉の策です』(今泉勇作)
 最大の功績とされる、「日本美術の再評価と保護育成への貢献」は、フェノロサが、お雇い外国人としての存在感の誇示、延命のため、「欧化政策の見直し、国粋主義の復興という政治的勢力」に迎合、取入ることを狙いに、積極的に活動した結果にほかならぬ。

 日本滞在中蒐めた、莫大な個人コレクションは、日本美術の保護育成に努めたという功績概念からは、明らかに「背信行為」。
 実際の蒐集にあたっても、関西古社寺調査のときかなり強引な手口で古美術品を入手したり、平治物語絵巻購入経緯のような非良心的行為を行っている。
 また、この蒐集品千余点を、ボストン美術館への将来展示を条件に、ウェルドに25万ドルという天文学的金額で売り抜け(明治18年、豪華鹿鳴館建設費の三分の二の額という)、その後も、蒐集品をフリーアに高値で売却している。

 フェノロサは、東大哲学科教授としては見るべきものなく、日本美術の研究者というよりは鑑定家、コレクター。日本の欧化反省、国粋回帰の時代的潮流に巧く乗り、自らの地位向上を図った、処世術に長けた人物ではないか。

 このような見方が書かれた本で、結構なるほどと思ってしまう。
 是非、一読をお薦めしたい。

 この点については、後で紹介する「アメリカが見た東アジア美術」コーエン著でも、フェノロサについて
 「キュレイター、コレクター、ディーラー、美術史家という役割には、私利私欲と戦わざるを得ない場面が多い。しかしフェノロサの場合、企業家としての本能を抑えようと懸命に戦った形跡は無い」
 と、手厳しいコメントがされている。

 他にも、フェノロサについて書かれた本には、

 「フェノロサ〜日本美術に献げた魂の記録〜」久富貢著(S32)理想社刊

 「フェノロサと魔女の町」久我なつみ著(H11)河出書房新社刊

がある。

 フェノロサは、ボストン美術館東洋部長を1896年(明治29年)辞し、再度来日するが不遇であったようで、4年後に帰国、フリーアの美術顧問などをしていた。
 1908年(明治41年)ロンドンで旅行中急逝、55歳。
 受戒していたフェノロサは、生前の遺志により、園城寺法明院に葬られた。

《ウイリアム・S・ビゲロー》

 3人の中で、一番その名を知られていないのがビゲロー。
 しかしながら、その高い鑑識眼と美術品への愛情、日本美術界や文化財保存へ果たした後援者としての数々の貢献を知れば知るほど、もっともっとその名が残されても良いのではないかと感じてしまう。

 『日本美術の恩人ビゲロー略伝』村形明子「古美術35号」(S46)三彩社刊所収

 ビゲローについては、足跡、エピソードなどが触れられてはいる本はあるが、残念ながら伝記等の本がない。
 この文が、ビゲローの足跡について、まとまった形で書かれた唯一のものだと思う。

 これによると、ビゲローはボストンの莫大な資産家の医家の息子で、大金持ち。医科大を出たが親の意向に随わず、モースの3度目の日本旅行についてくる。(明治14年)
 そこから、日本の文化、古美術への傾倒が始まり7年間日本に滞在。
 時間も金も有り余るほどあったのだろう。芳崖、雅邦の生活援助をしたり、社寺修復に費用を投じるほか、「古社寺保存法」の制定にもかかわっている。
 また、膨大な古美術品コレクションの蒐集を行っている。

 文中紹介の、次のような回顧談が、ビゲローその人が覗われ興味深い。

 「フェノロサ自身は貧乏だったが、その友の米人医師ビゲローが金持ちであり、種々な美術品を買い集めては、しきりにフェノロサの鑑定を乞うたりして、その御蔭でフェノロサの研究も便宜を得る処が少なくなかった。」(石井柏亭「日本絵画三代誌」)

 「日本絵画の今日あるは、フェネロサの力としている。是は御尤もであるが、その黒幕として、この事業に必要なるすべての費用を寄付してくれた人があったのだ。・・このビゲロウは、我が国寺院等の宝物的絵画にして表装の廃頽したるものあるときは、金銭を惜しまず喜捨して是が修繕を命じた。・・・・・(蒐集した)高価の名作はボストンの博物館に寄贈した。いまだ曽て、一品たりとも利益の為に売ったという事を聞かない。・・・・(芳崖、雅邦の生活援助、鑑画会への費用援助などにふれた上)・・・・この医人なかりせば、フ氏が大学教師たるの余暇に、迚も成功は出来なかったのである。
 故に日本美術の発展史を語るにあたっては、W・S・ビゲローの名は忘れてはならぬ。兎角、日陰の朝顔は顧る人もないゆえ、特にこの事を記して置きたい。」(明治41年中央新聞投書〜竹中成憲〜)

 また岡倉天心の求めに応じ、日本美術院設立へ巨額(1万ドル)の資金援助を行ったり、聖林寺十一面観音厨子造立費五十円をフェノロサと連名で寄進したりしている。

 1911年ビゲローは2万6千点以上の中国・日本美術コレクションを、自ら理事をしているボストン美術館に寄贈。フェノロサウェルドコレクションと共に、同館東洋美術部の礎を築いた。

 今、ボストン美術館仏教絵画の傑出した名品といわれる
 「法華堂根本曼荼羅」(奈良時代)は、東大寺を出て、起立工商会社(国策美術商)からビゲローが購入したもの。

 「大威徳明王像」(平安時代)は、天心遺愛品を、自ら購入資金を出し寄贈したもの。

 1909年(明治42年)、日本美術、文化への貢献により勲三等旭日章を叙勲、1926年没76歳。
 園城寺桜井阿闍梨から受戒、仏道に帰依していたビゲローは、遺言により、遺灰の半分がフェノロサと同じ寺に葬られた。
 園城寺法明院境内に、今も、五輪塔の墓が残されている。

 

     法華堂根本曼荼羅             大威徳明王像

続く

 

      

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