X 有名仏像 の 評価変遷編

【平等院・阿弥陀如来像〜3】


〈その10-13〉




【 目 次 】



1.興福寺・阿修羅像は、いつごろから人気NO1仏像になったのか

(1)明治時代には、あまり評価されていなかった阿修羅(八部衆・十大弟子像)

(2)阿修羅像の人気急上昇、その魅力が語られる、大正〜昭和初期

(3)名実ともに国民的人気仏像の地位を確立した、戦後・昭和〜現代


2.神護寺・薬師如来像と平安初期彫刻の「語られ方」の変遷

(1)戦後、神護寺・薬師像の魅力を世に知らしめた写真家・土門拳

(2)明治から戦前までの語られ方〜ネガティブコメントなど、評価に大きな揺らぎ

(3)戦後、評価も人気も、一気に急上昇〜熱っぽく語られるその魅力


3.平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像の評価の近代史

(1)藤原和様の代表とされた「鳳凰堂と定朝」、しかし「阿弥陀像」は?〜明治期の評価

@明治以来、揺るがぬ第一級評価の平等院・鳳凰堂
A偉大な名工とされた仏師定朝〜定朝作品の判断にはバラツキが

(2)明治から昭和初期の阿弥陀像の語られ方〜厳しい見方、評価の揺れが

@「補修多く、定朝作かも疑問」とされた明治期
A定朝の真作と確定した昭和初期〜ただし作品評価は微妙なトーン

(3)戦後は、「藤原彫刻の代表傑作」という定評が確立


4.広隆寺・宝冠弥勒像の魅力を引き出した写真家

(1)宝冠弥勒像を世に出した立役者、小川晴暘〜美しい写真で多くの人を魅了

(2)明治期の宝冠弥勒像の評価をみる〜美術史的には重要だが、芸術的には?

(3)戦後、「国宝第一号」と称され、益々人気を呼んだ宝冠弥勒像




(2)明治から昭和初期の阿弥陀像の語られ方〜厳しい見方、評価の揺れが


さて、ここからは本題である、鳳凰堂・阿弥陀如来像の語られ方、評価の変遷についてたどってみたいと思います。



@「補修多く、定朝作かも疑問」とされた明治期


まず、明治時代についてみてみたいと思います。

どうして鳳凰堂・阿弥陀如来像には、評価の揺れやズレが生じたのでしょうか?


その訳を考えてみると、次の3つのことが関わっているようです。

1つ目は、
鳳凰堂・阿弥陀如来像が定朝作であるというのは近世の伝承によるもので、定朝作品であるという確証がなく、間違いのない定朝作品なのかはっきりしなかったこと。

2つ目は、
鳳凰堂・阿弥陀如来像は、顔面を中心に後世の補修が多く、第一級の傑作とするのには難があるとみられていたこと。

3つ目は、
藤原彫刻、即ち定朝様の仏像について、和様彫刻の典型ではあるけれども、類型的、装飾的で彫刻作品としての評価に消極的な一面もあったこと。

こんなことが、明治時代に、鳳凰堂・阿弥陀如来像が傑作として絶賛されなかった要因ではないかと思われます。



【国宝指定時期が遅れた阿弥陀像〜鳳凰堂は第1回指定】


それを物語るのは、鳳凰堂と阿弥陀如来像が、それぞれ「国宝」に指定された時期の問題です。

明治30年(1897)、古社寺保存法の制定に伴い「国宝」(建築は特別保護建造物)の指定が行われました。
先にもふれましたが、建築の鳳凰堂は、明治30年(1897)の第1回目で指定されているのですが、阿弥陀如来像は、32年(1899)の第2回指定で、2年遅れで国宝に指定されているのです。

京都府の仏像で第1回目に指定されたのは5ヶ寺7件で、広隆寺宝冠弥勒・宝髻弥勒、蟹満寺釈迦、浄瑠璃寺吉祥天などですが、鳳凰堂本尊はその中には入らなかったわけです。
鳳凰堂は平安文化を代表する第一級建造物とされましたが、阿弥陀如来像はお堂全体の荘厳の付属物的扱いであったのかもしれません。

また、国宝指定当時「面部眼辺ニ大補修」があるとみられていたようなのです。


この国宝指定の時期をみても、鳳凰堂・阿弥陀如来像の評価の位置づけの微妙さを伺うことが出来ます。



【明治期美術史書での阿弥陀像の語られ方〜目に付くネガティブトーン】


当時の美術史書での語られ方などを、具体的にみてみたいと思います。


明治33年(1900)の、「稿本日本帝国美術略史」では、

「鳳凰堂の本尊も後世修復の点多けれども、同堂と共に建立せらしものなるべし。」

と、定朝作かどうかの言及もなく、後世の修復の多いとして厳しい評価になっているようです。


明治37年(1904)には、国華172号に「伝定朝作鳳凰堂本尊阿弥陀如来像」という小文が掲載されています。
「伝定朝・・・・」という表題のとおり、定朝作とすることに躊躇があったようです。

「顔面は後世の補作ありて、殆ど当初の温容を失ふ」
「全体繊麗優美の趣に富み、雄大の気なく、標号的にして写実の風を失ふ」

と、これまた厳しく批判的な評価です。




国華172号「伝定朝作鳳凰堂本尊阿弥陀如来像」掲載写真



明治43年(1910)の「国宝帖」に至って、ようやく積極的評価のコメントになるようです。
鳳凰堂・阿弥陀如来像を定朝作の唯一の現存作例としたうえで、

「鳳凰堂荘厳の美は藤原仏教の余影を語り本尊阿弥陀如来は浄土観念の結晶する所なり。」

と述べると共に、

「本尊と荘厳具を問わず・・・・・実に彫刻界百世の祖(注:定朝を指す)と仰ぐに足れり。
此霊腕の結晶有りて、天蓋花蓋の美は云ふに及ばず、壇上の装飾堂内の荘厳始めて光輝を発するを得たりといふべし。」

と記しています。

仏像彫刻としての阿弥陀如来像を評価するというよりは、定朝による仏像、荘厳一体となった鳳凰堂の浄土教美術を称賛するという解説のトーンになっています。




「国宝帖」掲載、鳳凰堂・阿弥陀如来像写真



この様に、明治時代は、鳳凰堂・阿弥陀像は、定朝作なのかという疑念とともに、作品評価も、面部の修復が云われたり、ネガティブなトーンがみられるなど、何とも微妙という位置に置かれていたといえるようです。



A定朝の真作と確定した昭和初期〜ただし作品評価は微妙なトーン


続いて、昭和初期、戦前の鳳凰堂・阿弥陀如来像の評価についてみてみたいと思います。


【昭和6年、定朝作に間違いないことが、明らかに】


この時期の最も重要な事柄は、昭和6年(1931)年に至って、

「鳳凰堂・阿弥陀像は、間違いなく定朝の真作である。」

ことが、明らかにされたことでした。

この年の9月に田中豊蔵氏が論考「仏師定朝」(日本文化叢考・1931所載〜日本美術史の研究・1960所収)を発表し、諸文献の検討等から、
「鳳凰堂の本尊は、定朝の作と定まりぬ。」
と結論付け、

続いて11月に、源豊宗氏が、定朝の真作と確定できる論考(「鳳凰堂本尊阿弥陀像の作者に関する新史料」仏教美術第18冊)を発表したのでした。

両論文共に、平定家が記した「定家朝臣記」の天喜元年(1053)の条に、鳳凰堂の造立経緯を伝える記述があり、その中に「法眼定「」の名前があることを新たに発見確認し、これが「定朝」に他ならないことを明らかにしたのでした。



【定朝作と定まっても、一気に高まらなかった作品評価】


この論考発表により、鳳凰堂本尊が間違いなく定朝作であることが確定したわけですが、これで阿弥陀如来像の美術的評価が一気に高まったかというと、必ずしもそうではありませんでした。

昭和初期、戦前の美術史書などをみると、

「鳳凰堂本尊は、定朝作には間違いないけれども、彫刻作品の評価としては今一歩、微妙。」
「定朝に代表される藤原彫刻(定朝様)は、類型的、装飾的で弱々しい。」

というネガティブなトーンが、間々みられるのです。


いくつかご紹介すると、次のとおりです。

「仏師定朝の作と定まりぬ」と論じた田中豊蔵氏も、同じ論考「仏師定朝」(昭和6年・1931)のなかで、このような厳しい作品評価を述べています。

「鳳凰堂本尊は日本造像史上それほど傑出した作品にあらずとするも、将た又作者定朝にいはしむるも、必ずしも会心の作にあらずとも、時代人に一の標準形式を與へたる「定朝式」を完全に保存せることに於て重大なる価値あり。」

鳳凰堂阿弥陀像は、定朝の真作に間違いないけれども、「作品としての出来栄えは良くない」という評価なのです。


2年後、昭和8年(1933)刊の「図説日本美術史」(田澤担)の解説では、
鳳凰堂本尊を定朝作と認めたうえで、

「円満慈悲の相好等総てに調和と穏雅の気が漲っている。」

と高い評価をしつつも、

「以後は唯定朝の作風を模して類型的になり、又優美の致を求めて繊弱の観を呈するようになった。」

と、定朝様の仏像の美術的評価についてはネガティブなコメントになっています。


昭和9年刊の「藤原時代の彫刻」(丸尾彰三郎)では、
定朝作鳳凰堂本尊を藤原時代彫刻の典型として、作風、造形の検討を行っているのですが、

藤原文化について、感情的、表面的、浅薄で深遠なところに欠けるとし、藤原彫刻については、「貴族的、華美、繊麗、装飾的、規模並に気宇小」
(丸尾彰三郎「藤原時代の彫刻〜特に定朝様式の成立とその製作について」岩波講座日本歴史1934刊)

と、相当ネガティブな評価を下しています。


こうしてみると、鳳凰堂・阿弥陀如来像が、偉大な仏師、定朝の真作と確定してからも、昭和の戦前あたりまでは、藤原彫刻や鳳凰堂像に対するやや批判的な見方が、結構見られたことがわかります。

当時の美の評価のモノサシでは、いわゆる定朝様の仏像を、繊弱、類型的な造形とし、彫刻作品としては、さほどに評価しない風があったようです。

鳳凰堂・阿弥陀像も、顔面に後世の補修が多いと云われていたことが影響しているのか、評価の揺らぎがみられます。



【「阿弥陀像の顔面に補修が多い」というのは、本当なのか?】


ここでちょっと付けたりになりますが、鳳凰堂・阿弥陀像は

「顔面などに後世の補修が多い」

とされていた話は、本当なのでしょうか。


「後世の補修」を指摘し、尊容を損ねているという見方があったのは、明治から昭和初期までのことです。

具体的には、明治33年(1900)の稿本日本帝国美術略史、明治37年(1904)国華172号の解説に、後世の補修の指摘があり、
昭和に入ってからも、昭和5年(1930)の「鳳凰堂の研究」(津田敬武著、岡書院刊)には、
「面貌は扉絵の阿弥陀像と比較して温容優美の点に甚だ劣するは後世補作されたためであろう」
と述べられています。

ところが戦後になると、そうした指摘は全くなくなるのです。

「かつて、どうして顔面に後世の補作が多いとされ、戦後になると、そうした指摘が、全くなくなるのか?」

よくわからないのです。

具体的理由について述べられたものは、私が確認した限りでは見つかりませんでした。

昭和62年(1987)刊の「平等院大観」(岩波書店刊)、平成20年(2008)刊の「平等院国宝木造阿弥陀如来坐像修理報告書」(平等院刊)にも、そのような後世の補修があるとの記述がみられませんので、補修の痕跡は認められなかったのではないかと思われます。

明治時代に面部の補修云々と云われた理由について推測すると、寛文10年(1670)に肉身部の漆箔が押しなおされ、「面部の箔は尾川了清という人が寄進した」という記録があり、このことが、そうした見方を生むことになったのかもしれません。

事実、平成の修理の際には、「面部を縁取るように剥落が生じて黒漆塗りが露出」していたということです。

いずれにせよ、どうして補修が多いとされたのかは、よくわからない話です。



【2019.6.14】


                



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