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V 大 正 編
〈その2-3〉 【 目 次 】
1.「仏像鑑賞」が、美術趣味として広まっていく大正時代
2.和辻哲郎著「古寺巡礼」にみる仏像評価
(1)和辻哲郎「古寺巡礼」に登場する仏像の評価コメント
(2)和辻が絶賛する仏像 (3)和辻が厳しい評価を下す仏像 3.大正の時代精神と仏像評価 〜古典的理想美と抒情的感傷美への共感、思い入れ (2)和辻が絶賛する仏像 和辻が、絶賛している仏像をみてみましょう。 前回掲載の 「古寺巡礼の採り上げ仏像とその評価一覧」 で、 【◎のマーク】 をした仏像についてです。 【古典的理想美の仏像への素直、率直な感動】
東大寺戒壇院・四天王像、法華堂・日光月光菩薩像、薬師寺金堂・薬師三尊像、東院堂・聖観音像、聖林寺・十一面観音像
などは、明治時代からの、ギリシャ・ローマの古典写実彫刻を理想とする思潮の延長線上にある仏像評価観によるもののようです。 「古寺巡礼」 初版(大正8年刊)掲載の仏像写真 上段:(左)東大寺法華堂・月光菩薩、(右)薬師寺金堂・薬師如来像 下段:(左)薬師寺東院堂・聖観音像、(右)聖林寺・十一面観音像 ただし、明治中期にみられるような、ギリシャ・ローマ彫刻との共通点を見出すことにより、西欧文化に比肩する日本美術の優秀性を論じるという、国家主義的思潮に肩をいからせたものではなく、感じるままに、素直、率直に、これらの仏像の西洋美術に通じる造形美に感動しているもののように見て取れます。 【抒情的、感傷的造形表現の仏像への強い思い入れ】 一方で、
新薬師寺・香薬師像、法隆寺・百済観音像、中宮寺・如意輪観音像(菩薩半跏像)
を絶賛しているのは、明治時代には見られなかった、評価の変化のように思えます。 これらの仏像の造形表現は、古典的写実を至上とするモノサシとはちょっと違うものです。 新薬師寺・香薬師像(S18・1943盗難行方不明) 「古寺巡礼」 初版(大正8年刊)掲載の仏像写真 (左)法隆寺・百済観音像、(右)中宮寺・菩薩半跏像 そこには、
「抒情的、感傷的な造形表現の仏像への憧憬、強い思い入れ」
を強く感じるものがあります。 和辻が、
百済観音を「奇妙に神秘的な清浄を感じ・・・」
中宮寺・半跏像を「まことに至純な美しさで…云いつくせない神聖な美しさである。」 と評していることからも、そのことが伺えます。 「完成された美」よりも「抒情的、感傷的な美」に、より一層、人間的共感を覚えるという、「美のモノサシの意識のうつろい」を物語っているようです。 興福寺・阿修羅像、広隆寺・宝冠弥勒菩薩像なども、これらと同じようなタイプの仏像と云って良い仏像でなのでしょう。 和辻が、阿修羅像を含む興福寺・八部衆、十大弟子像について、
「その巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。
従ってその作品はうまいけれども小さい。」 と評しているには、かなりの意外感がありました。 (左)興福寺・阿修羅像、(右)興福寺・目健蓮像 明治43年奈良帝室博物館発行写真(販売用?) 和辻には評価されなかった興福寺・阿修羅像(八部衆像)ですが、阿修羅像の評価、人気が一気に高まっていったのも、この大正時代です。 大正14年刊の「奈良帝室博物館を見る人へ」(小島貞一著)には、
「中にも阿修羅王などと来ては、とてもたまらない。一目見ただけでも決して忘れられない印象を刻み付ける」
と述べられているなど、あの憂いを含んだ少年の姿が人気を呼んでいたようです。 広隆寺・宝冠弥勒像も、大正時代に、飛鳥園・小川晴暘の魅力的な写真が後押しして、人気の仏像となりました。 広隆寺・宝冠弥勒半跏像(飛鳥園・小川晴暘撮影写真) 興福寺・阿修羅像、広隆寺・宝冠弥勒像の評価の変遷については、後に、項立てを設けて、その時に詳しく振り返ってみたいと思います。 【百済観音の評価、人気の上昇に、時代精神変化の投影を見る】 大正時代に人気が高まったと思われる、法隆寺・百済観音像について、ちょっとふれてみたいと思います。 明治中期の「天心・日本美術史」、「稿本帝国日本美術史」には、百済観音像は採り上げられていませんでした。 極めて高い評価という訳ではなかったようです。 その百済観音ですが、さきにふれた、明治41年(1908)に志賀直哉、木下利玄、山内秀夫(里美ク)の3人で奈良を旅した思い出を綴った紀行文では、このように絶賛されています。
「少し甘いのかも知れないが、当時の私として、一番気に入ったのは百済伝来と称する虚空蔵の立像(今、「百済観音」と呼ばれてゐるもの。)で、
・・・・・・・ 言葉の下賎を顧みずに云ふなら、惚れぼれする、といふ、あれだ、全くあの気持ちだ。」 (里見ク「若き日の旅」甲鳥書林・昭和15年刊) いわゆる文化人の間では、大正間近、明治末年頃には、百済観音像の人気は高まっていたようです。 考古学の大御所で美術史にも造詣の深かった濱田青陵は、大正15年(1926)に、自著「百済観音」で、こんな思い出を綴っています。 濱田青陵著「百済観音」(T15・イデア書院刊)) 表紙に会津八一が詠んだ百済観音の歌が金文字で刻まれている 明治の頃、「今一歩の出来」と思っていた百済観音のことを、大正に至ったころ「称賛する気持ち」に変容したという話です。
「私が百済観音をはじめて見たのは、今から二十余年前(注:明治30年代後半のことか?)、まだその頃は法隆寺の金堂の土壇の片隅に置かれてあった時であった。
明治期法隆寺金堂に安置されていた百済観音像(明治4年壬申検査時の写真) 明治30年に帝国奈良博物館に出陳された ・・・・・ 私にはただ「プロポーション」の悪い古拙な彫刻として印象を残しただけであったことを白状する。 しかるに後年を経て奈良博物館の中で、この像の前に佇んで眺め入る度を重ぬるにしたがって、ついにこの「エウロジー」(注:称賛する文の意)めいた一篇をものにするにいたったことは、私一個として自分の鑑賞が甚だしい変化をしたかに自分ながら驚くのである。 奈良帝室博物館のガラスケースに展示されていた法隆寺・百済観音像 ・・・・・・・ ギリシャの彫刻とし云えば、フィディアス時代でなくてはならぬと考え、・・・・・天平彫刻にいたって、はじめて美術的価値の大なるものがあるにいたったと信じた先入主とともに、いつの間にか姿をかくしてしまったことだけは事実である。」 (濱田青陵「百済観音」イデア書院・大正15年刊) 「仏像を見る眼のうつろい」にふれた、まことに、興味深い一文です。 明治時代の「天平彫刻至上主義」的な美の評価観から、大正時代に入って、新たな美の評価観、視点に変化していった、時代精神、思潮の変化と仏像評価の変遷が、率直に語られているものです。 文化人などではなくて、学者が
「美術的価値を見る眼の変容」
を自ら語っているだけに、腑に落ちるものがあります。 【2019.2.2】
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