U  明  治  編

〈その2-7〉




【 目 次 】



1.「ほとけさま」は、いつから「仏像彫刻」になったのだろうか?

(1)明治初頭の仏像調査や博覧会への出展〜美術作品化への道程
(2)「ほとけさま」を「美術作品」に変えた人〜フェノロサ、岡倉天心〜

2.「岡倉天心の仏像模造展示計画」(明治23年)に見る仏像評価

(1) 我が国模範的傑作仏像の模造を博物館に展示〜当時の仏像評価観を反映
(2)「古典的写実、理想美の、天平彫刻至上主義」の仏像評価観

3.明治の「4大美術史書」における仏像の評価を見る

(1)明治時代の4大美術史書とは
(2)明治期4大美術書における採り上げ仏像〜一覧リスト
(3)採り上げ仏像の顔ぶれから見る、仏像評価の特徴と変遷
@ 4大美術書一致(全採上げ)の、明治期、我が国を代表する仏像は?
A 明治末年:「国宝帖」の仏像評価を見る〜評価のモノサシに大きな変化
(4)時代別のラインアップ件数・シェアから見る、仏像評価の特徴と変遷
(5)明治時代の「仏像を見る眼のモノサシ」の特徴と変化をふりかえる

4.時代精神を投影する法隆寺についての言説〜エンタシスと法隆寺式伽藍配置

(1)法隆寺のエンタシスはギリシャ古典建築の影響?
(2)法隆寺式伽藍配置は日本のオリジナル?〜我国独自、固有文化を強調
(3)明治・大正の時代精神の変化を投影〜法隆寺論も、仏像評価も





(2)「ほとけさま」を「美術作品」に変えた人〜フェノロサ、岡倉天心〜


 
信仰の対象であった「ほとけさま」を、はっきりと「美術作品」に変えた人は、フェノロサと岡倉天心であるといって、過言ではないでしょう。


  

(左)フェノロサ、(右)岡倉天心



明治10年代に入ると、日本の美術の真価を積極的に評価し、日本美術の再興、保護保存に重点を置いた文化政策を推進すべきという機運が盛り上がりをみせ始めます。
フェノロサ、岡倉天心の大きな功績の一つは、今更言うまでもなく、日本美術の優秀性や伝統を再認識させ、古美術品や古社寺の保護対策を、国家の文化政策として推進して行く動きを方向づけたことにあろうかと思います。

フェノロサ、岡倉天心は、仏像を、はっきりと美術作品して位置付けました。
そして、古社寺の宝物調査を行い、優れた仏像を数多く見出しました。
仏像が、優れた芸術作品、美術作品であることを、広く世に認知させたのでした。

明治30年(1898)に至って、古社寺保存法が制定され、古美術品の国宝指定(旧国宝)が行われましたが、この時には、100件以上の仏像が国宝に指定されています。
まさに、国家が、仏像を美術作品として評価し、その美術的優劣を定めるに至ったのでした。

そこに至る、フェノロサ、岡倉天心の足跡を、ちょっとだけたどってみたいと思います。



【明治13〜19年:フェノロサ・天心、数多くの古社寺宝物、仏像を調査】


岡倉天心が、初めて奈良、京都を訪れたのは、明治13年(1880)のこと、フェノロサの古社寺見学旅行の通訳としてのことでした。

以来、明治19年(1886)まで、岡倉天心はフェノロサ等と共に、3回、近畿の古社寺調査に赴き、数多くの仏像を調査しています。
秘仏として信仰されていた仏像も随分調査したようで、明治17年に、法隆寺夢殿の絶対秘仏、救世観音像を開扉したことは、あまりにも有名な話です。


 

夢殿・救世観音像(明治21年近畿地方古社寺宝物調査時の写真)



「ほとけさま」が「仏像彫刻」としてみられていく様相を、象徴している出来事のように思います。



【明治21年:政府初の組織的文化財調査「近畿地方古社寺宝物調査」実施】


明治21年(1888)には、政府による本格的な文化財調査を実施することが決せられ、「臨時全国宝物取調局」が設置されると共に、政府実施の初の組織的文化財調査として、「近畿地方古社寺宝物調査」が行われます。

岡倉天心、フェノロサも、調査団の中心人物として参加します。


〈小川一眞撮影仏像写真は「美術写真」〜仏像の美を強く意識〉


小川一眞
この時に調査団の写真撮影担当として同行した小川一眞が撮影した仏像写真が数多く残されています。

この仏像写真を見て、ビックリするのは、現代でも通用する美しい仏像写真として撮影されていることです。

興福寺北円堂・無著像のクローズアップ写真や、東大寺法華堂の月光菩薩の写真を見ると、仏像が「美術作品」であることを、強く意識して撮影された、まさに美術写真と云えるものです。
仏像を如何に美しく見せるかを、撮影者の主観的な美意識によって、アングルやライティング、空間などに工夫を凝らして撮影しているのです。

仏像が、間違いなく彫刻作品、美術作品としてみられていることが明らかです。

こうした写真が撮影されているのは、単なる撮影者の技量という訳ではなく、岡倉天心やフェノロサの仏像に対する美意識が大きく投影しているのに違いありません。


  


  

(左)明治21年:近畿地方古社寺調査の時の小川一眞撮影仏像写真
〜大変美しい仏像美術写真として撮影されている〜
上段:興福寺北円堂:無著像、東大寺戒壇堂・四天王(多聞天像)
下段:東大寺法華堂・月光菩薩像



この頃には、仏像が、優れた美術作品として評価されるに至ったことが、良くわかります。



【明治30年:「臨時全国宝物取調局」調査結果
〜仏像彫刻を主要な美術作品として位置づけ(優等品の1/3は彫刻)】


その後、明治30年(1898)に古社寺保存法が制定されるまで、9年間にわたって「臨時全国宝物取調局」では、全国の古社寺調査を行い、21万5千余点の宝物を調査します。
調査された美術品は、美術品としての評価、優劣の判定がなされて、等級分けが行われています。

その調査結果の一覧は、ご覧のとおりです。


 



これを見ると、彫刻、即ち仏像が、優等品で528件、優等品総数の3分の1を占めていることが注目されます。
この等級評価に基づいて、国家による国宝指定(旧国宝)が行われました。

国宝の指定を定めた古社寺保存法には、このような条文があります。

「社寺は、内務大臣の命により、官立または公立の博物館に国宝を出陳するの義務あるものとす。
但し祭典法用に必要なるものは、この限りにあらず。」

仏像も、当然この条文の適用を受けることになります。


明治初年には信仰の対象であった「ほとけさま」は、明治30年代、政府が国宝指定することによって、公に「仏像彫刻」、即ち、文化財、美術作品として扱われることになったことになった訳です。


【2018.11.17】


                



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