【第13話】  三重・見徳寺 薬師如来像 発見物語



【目   次】


1.近年では、想定外の白鳳時代木彫仏新発見


2. 童顔童形の白鳳木彫仏、見徳寺・薬師如来坐像


3.見徳寺・薬師如来像の発見物語を振り返る


4.意外! 近年も結構ある、重要文化財級仏像の新発見





1.近年では、想定外の白鳳時代木彫仏新発見



三重県伊賀市にある見徳寺から発見された、白鳳時代の薬師如来坐像についてご紹介します。




三重 見徳寺・薬師如来像



見徳寺・薬師像が発見されたのは、なんと平成に入ってからのことでした。
平成10年(1998)に発見されました。

ご覧のとおりの、白鳳時代の仏像です。
法隆寺の六観音像にそっくりの童顔の仏像で、像高が65.7cmもある木彫像です。

この見徳寺像、昔から知られている仏像と違って、ここ十数年の新顔ですので、おなじみの仏像とは言えないかもしれません。

2015年に奈良国立博物館で開催された「白鳳展」に出展されましたし、最近は、奈良博「なら仏像館」に平常陳列されていますので、ご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか?



【まさか伊賀の地に白鳳木彫仏が! 想定外で驚きの発見】


重要文化財級の仏像の新発見というのは、各地の文化財が調査しつくされたように思える近年でも、実際には、ちらほら見出されていますが、そうした新出の仏像は、押しなべて平安・鎌倉時代以降の制作のものばかりです。

ところが、新発見の見徳寺・薬師如来像は、なんと白鳳時代の仏像なのです。

それも小金銅仏というのではなくて、70センチほどもある大きな木彫仏です。
ご存じのとおり、飛鳥白鳳の木彫仏の遺品は、きわめて少なく、十余点を数えるに過ぎません。
それも皆、法隆寺をはじめとする南都の諸寺に遺されたものばかりです。

こんな大型の白鳳木彫仏が、地方の名も知らぬお寺から見つけ出されるなどといったことを、誰が想像していたでしょうか?

「奈良の古寺の倉から発見」

という話ならあり得るとしても、三重県伊賀市にある田舎の小さなお寺から発見されたのです。

常識的には、まず「あり得ない!!」ことです。
そんなことが現実に起こったのですから、誰もが信じられないと思ったに違いなく、その驚きも並大抵のものではなかったでしょう。

そんな

「伊賀の地での、白鳳仏の驚きの大発見」

の物語について、ご紹介してみたいと思います。




2.童顔童形の白鳳木彫仏、見徳寺・薬師如来坐像



【法隆寺・六観音像や金竜寺・観音像に、そっくりの童顔】


発見物語のご紹介に入る前に、どのような仏像なのかを、見てみたいと思います。

一見して、すぐの感じるのは、お顔の造形が、法隆寺の六観音と呼ばれる菩薩像や、金龍寺の菩薩像などにそっくりなことです。
「白鳳の童顔」の典型のようなお顔をしています。
このタイプの童顔で如来形坐像というのは、ちょっとなじみがないのですが、像高も、法隆寺・六観音像とほぼ同じです。


      

(左)法隆寺六観音像・文殊菩薩立像          (右)金龍寺・菩薩立像



用材も、飛鳥白鳳時代特有の用材であるクスノキだそうです。
この仏像の姿をみると模古作でない限り、誰が見ても白鳳仏のスタイルに違いないと感じることでしょう。

奈良博「白鳳展」図録には、このように解説されています。

「平成10年(1998)に発見された白鳳彫刻である。

三重県旧上野市(現伊賀市)東郊に所在する見徳寺に客仏として伝わった。
伝来の経緯については不詳だが、広い意味では南都の文化圏に属する地域ということができ、大和盆地のいずこかからもたらされた可能性も考えうる。

クスノキ材を用いた一木造の像。
底部に約2センチメートル程の厚みをもつ板材を貼り、背中にも針葉樹の別材を矧ぎつけているが、これらは後補の所為である。
また左手首から先や右手の肘から先の部分、また表面の漆箔などは、平安時代後期の補作かと思われる。
とはいえ、7世紀にまでさかのぼる木彫像、しかも如来像の存在はまことに稀有のものであり、きわめて貴重な作例である。

やや面ながの顔に少年を思わせる愛らしい表情を浮かべ、着衣の衣文は金銅仏に類例を見ることのできる、板を連ねたような素朴な表現をとる。
脚部前面には大きな『品』字状の衣文を示す。
これらの点は、法隆寺文殊菩薩立像や金龍寺菩薩像に通じる特徴であり、同じ工房の作であることを推定させる。」
(岩田茂樹氏解説)


当時、奈良で造られた白鳳仏が、何時の頃にか、三重県伊賀市にもたらされ、最終的に見徳寺に安置されるようになったと考えられるということなのでしょう。




3.見徳寺・薬師如来像の発見物語を振り返る



【発見のきっかけは、市史編纂のための文化財調査】


それでは、どのようないきさつで、見徳寺・薬師如来像は発見されたのでしょうか?

見徳寺というのは、三重県伊賀市中友生という処にあります。
JR関西本線・伊賀上野駅から東南へ5〜6キロの、水田に囲まれた小さな集落の中にあるお寺です。




見徳寺のある伊賀市中友生近郊風景



壇家が三十数戸しかないという小さなお寺で、同じ伊賀市の広禅寺の末寺となっています。
創建年代は不明ですが、寺の記録では350年ぐらい前、江戸時代までさかのぼることが出来るということです。




薬師像発見当時の見徳寺



薬師如来像は客仏で、観音堂に十一面観音、大日如来、腰折地蔵、行者菩薩と並んで安置され、檀信徒が日頃からお参りしていました。

当時の清原宏昌住職は、薬師像は

「古いものだろうとは判っていたが、室町時代くらいかな。」

と、思っていたそうです。

仏像発見の引き金となったのは、平成9年(1997)に始まった、「上野市史編纂のための文化財調査」でした。
(当時は上野市で、現在は市町村合併で伊賀市に変わっています。)
177か所1880点が調査対象になりました。

平成9年(1997)11月、調査にあたった伊賀文化財研究会の委員の一人が、見徳寺に予備調査に訪れました。
その時撮影された仏像写真が、翌年の春、市史編纂・彫刻担当の山崎隆之氏(愛知県立芸術大学教授)に送られたのでした。
写真撮影された委員の方も、この薬師像の白鳳様の姿に注目し、

「これはひょっとしたら?」

と考え、写真を山崎氏に送られたのではないでしょうか。



【撮影写真を見てビックリ〜研究者の本格調査始まる】


山崎隆之氏は、送られてきた薬師像の写真を見て、白鳳仏の特徴を備えていることに驚き、早速その年の夏(1998年8月)、自ら見徳寺の調査に訪れたのでした。
薬師像を詳しく観察した結果、後世の模古作ではなく白鳳仏に間違いないと確信、本格的調査に入ることとなったのでした。

新聞報道は、その当時のいきさつを振り返り、このように報じています。

山崎隆之氏(愛知県立芸術大教授)
「白鳳の仏像は、一昨年11月に写真撮影され、彫刻担当の山崎隆之委員(愛知県立芸大教授)のもとに送られた。
『これは異様な感じだ。とんでもなく古いかもしれない』
仏像の写真に山崎委員は引き付けられた。

昨年夏に、安置されていた見徳寺を訪れ、表面観察をした。
米粒ほどの漆のはく落から見た本肌は茶色く変色し、古色を帯びていた。
『心配された後代の模倣ではない。飛鳥仏ではないか』」
(1999.9.12付中日新聞)


「山崎教授は
『最初は半信半疑。
まさか伊賀の小さな禅寺で、飛鳥時代後期の木造仏にお目にかかれるとは』
と振り返る。」
(1999.9.9付読売新聞)


これは大発見かも知れないということで、その秋から、本格的調査が始まりました。
同じく市史編纂委員の松山鉄夫氏(大東文化大教授。三重大名誉教授)と、伊賀文化財研究会代表の河原由雄氏(愛知県立大教授)が加わり、綿密な調査が行われるとともに、美術院国宝修理所でX線透視による構造確認調査も実施されました。


 

見徳寺薬師像を調査する川原由雄氏(左写真)、松山鉄夫氏(右写真)



その結果、7世紀後半、白鳳時代制作の仏像であると断定されたのです。
両手首先、耳朶、背板、底板、表面の漆箔などは後補であるものの、ほぼ白鳳時代当初の姿を留めていることが判明しました。

いわゆる童顔童形系の白鳳仏の一つで、法隆寺の六観音や金堂天蓋天人像と同系列の様式に属する仏像とされたのでした。

平成11年(1999)9月8日、上野市史編纂室は、この調査結果を記者発表しました。
松山鉄夫、川原由雄、山崎隆之の三氏が調査委員として記者会見に出席、「驚きの白鳳木彫仏発見」の説明を行いました。




見徳寺薬師像発見の記者会見をする山崎隆之、川原由雄、松山鉄夫(左から)の三氏




【白鳳木彫仏の発見発表に、大興奮の新聞報道】


新聞各紙は、この驚きの大発見を、大見出しで報じました。
新聞記事の数々をご覧ください。




1999.9.9付け・伊勢新聞




1999.9.12付け・中日新聞




1999.9.9付け・中日新聞



発見記事の一つをご紹介すると、このように報じています。


「自鳳時代の童顔  表情も優しく
重文級の如来坐像  上野で発見」


1999.9.9付け・中日新聞
「三重県上野市の寺院に伝わる木造薬師如来坐像が、七世紀後半の自鳳時代(飛鳥時代後期)に製作されたことが八日までに、同市の文化財調査をしている伊賀文化財研究会(代表:河原由雄愛知県立大教授)の調査で分かった。
像の保存状態は良好。
童顔童形の白鳳時代特有の作風を示しており、この作風の木造の如来像としては初めての発見。
仏教彫刻史上貴重な資料で、国重文級の価値があるという。
木造の白鳳仏がほぼ完全な形で見つかることは極めて珍しく、しかも奈良以外の、比較的歴史の新しい寺院に埋もれていたことに、研究者は驚いている。

寺院は同市中友生、見徳寺(清原宏昌住職)。
本堂に隣接する観音堂の左脇壇に安置されていた。
仏像に関する伝承は何もなく、伝来の時期や由来は不明だ。
同研究会が一昨年から始めた文化財調査が発見のきっかけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
造形の基本を損なうほどの改変はなく、金ぱくも多く残り、保存状態はおおむね良好。
衣の流れるような線や表情のやさしさなど、美術品としても優れている。
まゆと目の間が広く、鼻が小さい童顔の特徴がある。
童顔童形の仏像は白鳳時代特有の作風の一つで、類例の年代と作風から7世紀後半の作と断定された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・」
(1999.9.9付・中日新聞)

各紙とも、白鳳仏の大発見を興奮気味に報じています。

なにしろ、十数体しか遺されていない飛鳥白鳳時代の木彫仏が発見されたのです。
法隆寺の救世観音、百済観音、六観音、法輪寺の薬師如来、虚空蔵菩薩などの超有名仏像などに連なって列せられる白鳳木彫仏という訳です。
かけて加えて、飛鳥白鳳の木彫仏は奈良・南都にしか遺されていないのに、三重県・伊賀の地で発見されたというのですから、大騒ぎになったのだと思います。



【白鳳仏が何故見徳寺に? 由来不明の流転の謎】


それにしても、この白鳳木彫像、どうして伊賀上野の小さなお寺で発見されることになったのでしょうか。

薬師如来像は客仏ですし、見徳寺は近世以降の創建です。
その由来は、全くわからないというのが現実のようです。
造形からみると、南都中央で制作された像であることは間違いないのでしょう。
飛鳥〜奈良時代に、伊賀の地にもたらされたのでしょうか?
あるいは、近世、近代になってから、誰かが何処かで白鳳仏を買い取るなどして、当地に運ばれたという可能性も考えられるでしょう。

飛鳥〜奈良時代、伊賀の国は、奈良から伊勢の国に至る街道の中継地といって良い要所にあります。
伊賀の地には、白鳳時代の塑像片やセン仏が出土したことで有名な夏見廃寺(名張市)や、白鳳〜奈良期の古瓦が出土する鳳凰寺廃寺、三田廃寺などが遺されています。




夏見廃寺出土セン仏(奈良国立博物館蔵)



そうしたことからすれば、白鳳時代に伊賀の地に、この薬師像がもたらされていたとしても、不思議なことではないのかも知れません。
伊賀の地で幾多の流転を経て、見徳寺に落ち着いたのでしょうか?



【博物館に寄託されることになった薬師如来像〜最終的に奈良博へ】


さて、見徳寺では、驚きの白鳳木彫仏が発見された後は、

「それこそ蜂の巣をつついたようになって、壇家の手ではどうしようもなくなった」

というほどの騒ぎで、

「小さなお寺で保管管理するのは、それこそ大変」

ということになり、四日市市立博物館に寄託されました。

寄託の2か月後、1999.10.31〜11.3の4日間に限って、新発見の見徳寺薬師像は、四日市市立博物館で特別公開されました。




四日市市博物館で開催された
「見徳寺薬師像特別公開」解説パンフレット



その後は、地元の上野歴史民俗資料館に寄託保管が移されました。

発見の翌年には、早速、県指定文化財に指定されています。
いずれは、重要文化財に指定されるということになるのでしょうか?

見徳寺・薬師如来像は、普段は公開展示されておらず、残念ながら観たくてもかなわなかったのですが、2014年からは奈良国立博物館に展示されるようになり、いつでもその姿を観ることが出来るようになりました。

仏像は、上野歴史民俗資料館に寄託保管されていたのですが、必ずしも保管状態が良いという状況ではなかったため、奈良国立博物館に保管を打診した処、正式に寄託が決まったのです。
薬師如来像は、2013年9月に奈良国立博物館に移送されました。




奈良博移送を報じる中日新聞記事(2013.9.24付)



奈良博では、「なら仏像館」に見徳寺薬師如来像が展示されています。


薬師如来像は、発見後、博物館に寄託保管されて、文化財の保存という観点からは万全ということになったのでしょうが、お寺さんや檀家の方々にしてみれば、日頃から親しく拝していた薬師如来様がおられなくなってしまったわけですから、寂しきことに違いありません。
見徳寺・薬師如来像は、毎年、秋のお彼岸の時にだけ、博物館からお寺に里帰りをし、檀家さんと共に法要が営まれています。


白鳳木彫仏の大発見、見徳寺・薬師如来坐像の発見物語をご紹介しました。



一年半に亘って連載してきました「仏像発見物語」も、今回でおしまいということにさせていただきたいと思います。

2016年、「運慶仏発見物語」からスタートさせていただいてから、今回の「見徳寺薬師如来像発見物語」まで、13話の仏像発見物語をご紹介させていただきました。

お愉しみいただけましたでしょうか?

そろそろ、ビックリするような仏像発見物語のご紹介も、タネ切れというところです。




4.意外! 近年も結構ある、重要文化財級仏像の新発見



「仏像発見物語としてご紹介するようなお話」の方は、もうタネ切れなのですが、重要文化財級の仏像の新発見は、近年でも、それなりにあるようです。

戦後は、全国各地で、仏像を始め文化財の悉皆調査などがくまなく実施されています。
社寺のお堂などに安置されている仏像などは、とっくに調べ尽くされている筈で、

「いまどき、重文級の仏像の新発見なんて、あるものなのだろうか?」

と思ってしまうのですが、意外にも、近年、新発見の重文級の仏像がいくつも出現しているのです。
なんとも不思議なものです。

平成に入ってからも、「運慶仏発見物語」でご紹介しましたが、光得寺・大日如来像、真如苑蔵・大日如来像、称名寺光明院・大威徳明王像が、運慶作品(確度の高い作品)であるという大発見があったのは、記憶に新しいところです。

ここ7〜8年の間に、新たに重要文化財に指定された仏像を見てみても、

「こんなに多くの新発見仏像があるのか!!」

と思うほどに、新発見仏像が出現しています。


2010年以降の新指定の重要文化財で「美術史上の新発見」といって良いのではと思った仏像を挙げると、次のようなものがあります。






みなさんも、予想外に新発見仏像があるものだと思われたのではないでしょうか?

ただ、近年の新発見仏像が結構あるといっても、平安時代以降の仏像がほとんどです。
平安時代以降の古仏像は、全国に相当多くの数が遺されているからだと思います。

各地を調査してみると、「美術史上の大発見」が、まだまだあるのかも知れません。




これからも、「驚きの大発見物語」が出現することを期待して、「仏像発見物語」を終えさせていただきます。





【2018.3.4】


              


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