【第11話】  富山・立山神像 発見、里帰り物語とその後


〈その2ー2〉



【目   次】


1. はじめに


2.数奇な運命をたどった立山神像〜流転、発見、そして里帰り

(1)立山神像の流出と、その行方

(2)海外流出寸前で発見、里帰りを果たした立山神像(昭和42年)


3.「帝釈天像」であったことが判明した「立山神像」

(1)重文指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更へ(平成27年)

(2)立山の御神体「立山神像」とみなされた経緯

(3)科学的調査研究で「帝釈天像」であったことが判明


4.おわりに






3.「帝釈天像」であったことが判明した「立山神像」



(1)重文指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更へ(平成27年)


ここからは、本像の重要文化財指定名称が、「銅造男神立像」から「銅造帝釈天立像」に名称変更された話についてふれてみたいと思います。



【立山神像は「実は仏像」との新聞報道にビックリ】


「神様 実は 仏様でした 立山博物館の像、名称変更」


こんな見出しの新聞記事がネット上に掲載されたのが目にとまりました。
平成27年(2015)4月3日付の中日新聞の記事です。

「エッ!立山神像は立山の御神体じゃなかったの? 実は仏像だった?」

ちょっと、ビックリの話です。

新聞記事の内容をそのままご紹介すると、次のようなものです。

帝釈天像に指定名称が
変更された立山神像

「立山町の県立山博物館が所蔵する国指定重要文化財『銅像男神立像』が、『銅像帝釈天立像』に名称変更する。

神像とみられていたが、最近の研究で仏像の帝釈天と判明したため。
帝釈天の銅像としてはかなり古く、同博物館は『鎌倉時代の立山信仰を知る貴重な手掛かりになる』としている。

博物館によると、これまで像の胸部に刻まれた字を『立山神躰(しんたい)』と読んでいたが、博物館の調査で『立山禅頂(ぜんちょう)』と判読でき、神像ではないことが判明した。
表情が厳しく、宝冠をかぶる姿が各地の帝釈天像に似ているため、帝釈天像と結論付けた。
博物館が、2年前の企画展で研究成果を発表したところ、文化庁から名称変更の提案があったという。

像は、鎌倉時代の1230(寛喜2)年に立山山麓で作られた高さ54.4cmの銅像。
愛知県の個人が所蔵していたものを、富山県が1967(昭和42)年に買い戻した。

博物館によると、平安時代後記の書物『本朝法華験記』に帝釈天が立山にいることが記されており、立山では古代から『帝釈天信仰』があったとみられている。
その後、時期は不明だが、えんま王が死者の罪を裁く『十王信仰』に代わったとされる。」



【調査研究により、正式に重文指定名称が変更された立山神像〜「帝釈天像」へ】


重要文化財の指定名称が変更されるということは、そうあることではありません。

「本当に名称変更されるのだろうか?」

と、データを確認してみると、2015年3月に、富山県文化振興課(立山博物館)から「立山神像の名称変更のプレス発表」がされていることが判りました。

ご覧のようなニュースリリースです。






ニュースリリースには、このように記されています。

「このたびの名称変更においては当館学芸員の地道な調査研究が認められ、文化庁文化審議会の答申にいたったものであります。」

名称変更となった決め手は、胸部に刻まれていた刻銘が、これまで「立山神躰(しんたい)と判じられていたものが、科学的調査によって「立山禅頂(ぜんちょう)と記されていることが明らかになったことによるものです。

重要文化財の指定名称が、「銅像男神立像」から「銅像帝釈天立像」に名称変更されるというのですから、

「そのような見方や説がある。」

というレベルではなくて、はっきりと仏像であり「帝釈天像」であることが、研究成果によって実証され認定されたということです。


この指定名称の変更にいたるまでの調査研究の成果は、2014年10月、立山博物館開催の「立山と帝釈天」展図録に、詳しく掲載されています。




「立山と帝釈天」展図録


図録には、科学的調査や多面的考証の結果、神像ではなく帝釈天像であったと考えるべきという、詳細な調査結果、論考が掲載されています。

この図録は、所謂展覧会図録という内容ではなく、立山神像と立山帝釈天信仰についての研究論集ともいえる、密度、濃度の大変濃いものとなっています。

図録の目次をご覧いただければ、その充実度が想像いただけると思います。




「立山と帝釈天」展図録の目次〜掲載論考



なかでも、

「国指定重要文化財『銅造男神立像』の銘文を読む」

「『立山神像』をとらえなおすために〜国指定重要文化財『銅造男神立像』への視点」

という2編の論考は、立山神像が帝釈天像であったことを、きっちりと実証するものです。


この論考に述べられているポイント、エッセンスのつまみ食いになりますが、この像が、「立山神像」とされ、「銅造男神立像」という重文指定名称となったいきさつと、近年の「帝釈天像」への指定名称の変更にいたった経緯をたどってみたいと思います。




(2)立山の御神体「立山神像」とみなされた経緯


この銅像、これまで、どうして立山のご神体、「立山神像」であるとして、「銅造男神立像」という指定になっていたのでしょうか?


【重要美術品指定時の名称、「立山神像」とされる〜刻銘、「立山神体」と判読】


この像が立山のご神体の神像であると、公に認知されたのは、昭和15年(1940)、「重要美術品」に指定された時のことでした。
この像には、奉納された時の状況を示す銘文が残されています。







立山神像・帝釈天像の刻銘


像本体の前面と方形の框三面に鏨で銘文が刻まれています。
ただ、像の表面が相当荒れてしまっていることから、肉眼で判読するのが難しい個所も多くあります。

重要美術品指定の調査の際、胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読されたのです。
この時の調査には、香取秀真氏、田沢金吾氏等があたったようです。
後でふれますが、近年の科学的調査によって「立山禅頂」と記されていることが明らかになった銘文です。




立山神像・帝釈天像の刻銘
中央上部の刻銘が「立山神体」と判読された


重要美術品目録には、

「銅造立山神像 1躯

像正面に、立山神体 如法経六部寛喜二年三月十一日、台座に越中新川郡□田寺奉納ノ刻銘アリ」

(立山神体の「体」の字は、□で囲まれており、判読が難しかったものと思われます)

と記載されています。

この指定により、本像は、立山の御神体、立山神像であると認められることになりました。

それまでは、帝釈天像だと思われていたらしく、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示されたときには、「帝釈天像」という名称で展示されていました。
この「仏教博」への出展がきっかけになって、本像はこの重要美術品指定されることになるのですが、この時に実施された銘文調査により「立山のご神体である立山神像」という位置づけがなされたといって良いのだろうと思います。



【重要文化財指定時の名称も「男神立像」〜立山の神体とされる】


そして、本像が昭和42年に富山県への里帰りした後、昭和43年(1968)に重要文化財に指定されるわけですが、重文指定の時にも、この考え方が継承されました。

重要文化財指定時の、説明はこのように記されています。

「銅造男神立像 1躯

像正面に立山神体、寛喜二年三月十一日の刻銘がある」

とし、

・両眦(まなじり)をつり上げた面貌を見れば、神体像として造られたものであると考えられる、
・立山の神体として越中新川郡の一寺において鋳造されたものであることが判る

と、説明されています。

こうして、立山神像として制作されたことが確定的にみられるようになり、かつて立山山頂にご神体として祀られていた神像として、広く知られるようになったわけです。

立山神像だとされた決定的事由は、胸の銘文が「立山神体」と判読されたからでした。

重要文化財指定当時においても、刻銘を「立山禅頂」と判読する解し方、神像ではなく帝釈天像ではないかと考える見方もあったようです。
買戻しにあたった吉田実氏も、芸術新潮寄稿の「海外流出を免れた立山神像」(1967.11)に、立山神像の実物に対面した時の様子を、

「古香ゆたかな書体で彫った『寛喜2年』とか『立山禅頂』というような文字が明確によみとれる記文もある。」

と、記しています。

その後も、帝釈天と見るべき、あるいは「立山権現」と判読し神像と見るべき、という考え方などが出されたこともありました。

何故、判読が極めて困難なほどの状況であった銘文が「立山神体」と解読されたのかは良く判らないのですが、重文指定の際も重美指定時代の判読が継承され、そのように刻されたものだと長らくされていたのです。

近年、平成18年に発刊された「日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編4」(中央公論美術出版刊)でも、
「刻銘は『立山神体』と記されている」
とされています。




(3)科学的調査研究で「帝釈天像」であったことが判明



【マイクロスコープ調査で、刻銘は「立山禅頂」であることが明らかに】


ところが、この刻銘が「立山神体」ではなく「立山禅頂」であることが明らかになったのです。

平成24年12月、立山博物館の依頼により、元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査が行われました。




元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子



その結果、判読が難しかった文字の9割が確定され、銘文は

「立山禅頂・・・・」

と刻されていたことが明確となったのです。




立山神像・帝釈天像の判読銘文




「立山禅頂」と刻された銘文



即ち

「寛喜2年3月11日に、御経聖人頼禅が立山禅頂(修行)において、本像を山中に奉納した」

ということが記録されていたのでした。

「禅頂」とは、霊山の頂上のことを云い、「立山禅頂」とは、「立山の頂上に鎮まります」、あるいは「立山霊山の頂上への登拝行」と解することが出来るそうです。



【神像ではなく仏像・帝釈天像として造像されたと判明〜刻銘ほかの総合研究成果】


このことが明らかになり、長らく「立山神像」であったとされた本像が、神像であるという解釈は、白紙に戻されたというか、「帝釈天像」であったと考えられるようになったわけです。

「立山と帝釈天」展図録に収録された諸論文、就中、杉崎貴英氏の「『立山神像』をとらえなおすために」の論考によれば、本像は「帝釈天像」として造像されたと考えて間違いないということです。

その事由や考え方については、図録の諸論考をじっくり読んでいただければと思いますが、「帝釈天像」と考えられるポイントは、次のようなことではないかと思われます。

・像容についてみると、後頭部に光背をとりつけるための柄が突き出ており、これは一般的に神像ではなく、仏像の天部像と考えられ、また帝釈天像の諸作例を見ると、本像は、鎌倉時代の「瞋目で筆と神をとる帝釈天像」であったとみられる。

 

「帝釈天像」であったことが明らかになった像容


・立山信仰は、近世以降は阿弥陀信仰の影響が非常に強くなったが、それ以前は、古代から「帝釈天信仰」があったとみられ、中世には帝釈天が立山にいるという信仰が重要な要素を有していたと思われる。
立山が、仏教世界の中心にそびえる、帝釈天のいます須弥山に重ね合わされ、信仰されていた。

・立山は、神の山というより仏の山としての信仰が色濃く、また立山における本地垂迹説のなかに、帝釈天は組み込まれてはいない。
こうした状況からも、本像を立山の神の像とする理解と名付けは、否定的にならざるをえない。

・明治以降の諸記録からも推察されるが、重要美術品に認定され「立山神像」という新たな名付けがなされるまで、本像は一貫して帝釈天と呼ばれていたと考えてよいであろう。

調査研究のポイントのまとめは、以上のようになろうかと思います。


先ほどご紹介した、富山県のニュースリリースでは、このように説明されています。

「かつて本像の正面に刻まれた文字を「立山神躰」と判読したことにより神像とみなされ『銅造男神立像』の名称で指定されました。
しかし近年の科学的調査により「立山禅頂」と判読されることが明らかとなりました。

表情は厳しく、宝冠をかぶり、左手には巻子、右手には筆をもっていたと考えられ、ほとけの帝釈天の像にふさわしい姿をしています。

立山における帝釈天信仰については『法華験記』のなかの話からうかがい知ることができ、本像は古代の帝釈天の理解に基づく像と考えられます。

こうした理由から、本像の名称が『銅造帝釈天立像』と変更されます。」

この銅像は、昭和の重要美術品指定の時に「立山神体」と銘文判読され、立山のご神体であったとされるまでは、中世以来ずっと、立山信仰における帝釈天として、信仰されていたことが明らかになったのでした。

そしてこの帝釈天像が、立山の「雄山」山頂にある雄山神社・峰本社に祀られていたのか、そうではなくて、麓の芦峅寺の帝釈堂など別のお堂に祀られていたものかも、今の処は、はっきりしないということになりました。




4.おわりに


立山神像と呼ばれた銅像が、

明治年間に立山の地を離れたあと、長きにわたる流転を経て、昭和42年(1967)に発見、買戻しされ、富山のシンボル「立山神像」として里帰りを果たした数奇な物語と、

近年(2015)になって、科学的調査研究によって「帝釈天像」であることが明らかになり、重文指定名称が変更された話

を辿ってきました。



【「立山神像」と呼ばれていなかったら、叶わなかった里帰り?】


この立山神像の発見とその後の物語を振り返ってみると、感慨深いのは、この銅像が「立山神像」という呼称で、立山信仰を象徴する御神体像として世に知られなかったならば、当時の富山県知事が自ら買い戻しに動き、注目を浴びるということは、無かったのかも知れないということです。

おそらく「鎌倉時代の天部形銅像」として、世間の注目を浴びることなく、海外に売られていってしまった可能性は大きかったように思えます。

杉崎貴英氏は、論考に結びに、昭和の「立山神像」という新たな名付けが、買い戻しのきっかけとなり、里帰り後に「富山県のシンボル」として果たした役割もまた大きいものがあるとして、このように述べています。

「もし戦前の重美認定の際、『立山神像』という新たな名付けがなされることなく、『帝釈天像』とでも記載されていたら、はたして本像は、ゆかりの地に帰還する端緒を得られたであろうか。

吉田氏の回顧によれば、昭和32年ごろ長嶋氏から聞いていた本像のことが『脳裏に焼き付いていた』のだという。
吉田氏が『富山県のシンボル』とみなし、入手と普及に心を砕いた経過には、県域を見守る立山連峰を人格化したような名称の魅力も作用していたに違いない。」

よくぞ富山・立山に戻ることが出来たものと、その物語に感慨深いものを覚えてしまいます。


近年の新研究で「立山神像」は、「帝釈天像」であることが明らかになりました。

一方、本像が、「立山神像」として富山に里帰りを果たし、現在も在銘の鎌倉時代の銅像、重要文化財作品として、世に知られていることを思うと、

「昭和15年(1940)の重要美術品指定の時、『立山神像という名称』がつけられたことに、むしろ感謝しなければいけないのかもしれない?」

ちょっと、そんな気持ちにもなってしまいました。





【2018.2.3】


                


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